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自然社会と富社会


Natural Society and Wealthy Society


富と権力


Wealth and Power
     古今東西   千年視野                                          日本学問   世界光輝
                   
                            明治期の国際観光振興政策を中心に


             一 条約改正中の国際観光政策
              1 明治20年前後の訪日外国人増加
                @ 内外観光の前提
                A ホテル開設状況
                B 国内都市観光の展開
                C 国際観光客の増加気運
              2 南貞助・井上馨の訪日客増加策
              3 渋沢、益田の外国人接待協会
              4 井上円了の国際観光振興論
              5 喜賓会の設立
             二 条約改正(治外法権撤廃・内地開放)後の国際観光政策論
              1 条約改正前後と外客増加傾向
              2 喜賓会の活動状況
                @ 観光業務の補完・充実
                A 外客増加機運への対応
                 @ 大阪勧業博覧会 
                  イ 開催経緯
                  ロ 外客誘致の状況
                 A 日露戦争後
                  イ 外客減少
                  ロ 外客増加
                  ハ ホテル問題    
                  二 東京商業会議所のホテル不足問題対処
                  ホ 「高値売付」問題                             
              3 高橋是清の国際観光振興論
              4 新外客増加策の 推進
                @ 東京勧業博覧会とホテル対応状況           
                A 日本大博覧会の提案・中止
                B 一大ホテル建設計画の頓挫
              5 ジャパン・ツーリスト・ビューロー設立、喜賓会解散 

                  おわりに

                              はじめに

 近年、観光倫理研究が、グローバルな観光客増大に伴い、観光者、観光業者(観光企業、地元観光関連業者、ブローカーなど)の惹起し出した諸問題を解決するために提唱されているが(薬師寺浩之「観光倫理研究と教育の発展に向けた一考察」『地域創造研究』29−4、2019年3月など)、ここでとりあげる事は、欧米資本主義の植民地化的圧力のもとに「極めて倫理的な人物」が、いかなる国際観光政策をを打ち出したかを吟味することを主な課題の一つとしている。

 筆者は、自然を重視し、万物の生命を平等に扱う仏教哲理(「一切衆生、悉有仏性」[『涅槃経』]、「草木国土悉皆成仏」[天台、華厳])と、自然資源、歴史資源を重視する観光は、相即不離なる関係にあると見ている。極めて倫理観の強い大財政金融家高橋是清が明治年間に観光振興論を提唱していたことはかねてから知っていたが、最近仏教哲学者井上円了もまた国際観光振興論を「体系的」に展開していることを知った。近年国際観光論というと、例えば「日本の人口構造の成熟化と産業構造の行き詰まり」を打破するということが「観光立国を必要とする背景」にあるとされたりするが(寺島実郎『新・観光立国論』NHK出版、2015年)、筆者は基本的には数千年に及ぶ人類史の普遍的観点を背景に据えて、観光立国論(自然の重視)を倫理的に把握する事が重要であると考えている。すると、この倫理感の強い二人の巨星が、いかなる脈絡で国際観光振興論を展開していたかを考察することは非常に興味深いことになる。そこで、この二人の国際観光振興論を当時の国際観光振興論の中に位置付け、彼らの歴史的意義と限界を考察することは一定の意義のあることになろう。

 ここで想起されるのがブータン観光政策である。ブータンでは、倫理規制主体は国民ではなく国家である。人口百万人にも満たない仏教王国ブータンは、非常に強く仏教倫理が作用する国である。国際観光を積極展開すれば、電力不足のインドに売却している水力発電の数十倍の収入を確保できるにもかかわらず、@西欧文化による国民、特に若者の「精神的堕落」を懸念し、Aパンデミックに依る国民経済の壊滅的打撃などをも懸念してか、自然環境の保護を名目に、王国維持のために、外国観光客数を厳しく制限している。仏教王国であるから、そこには仏教倫理が強く働いていると思うのが普通であるが、ここでは仏教は王国統治の手段になっている。ブータンでは、自然を守るというより、観光客著増による王国秩序混乱排除のために、自然資源活用を大きく抑制する国際観光政策をとっているのである。観光と倫理の関係の現われ方は、観光政策策定主体においても多様なのである。思うほど単純ではない。

 そういう眼差しで高橋是清、井上円了の国際観光論について考える場合、当時の国際観光論提唱の事情のみならず、そういう国際観光振興論に一定の根拠をあたえた外国人観光客の存在・増加、国内観光客の増加とそれを支えた観光設備(旅宿、交通)などにも簡単に言及しておく必要があろう。また、当時の国際観光振興論は、条約改正問題とも関係していたので、それとの関係についても考慮しておく必要があろう。

                         一 条約改正中の国際観光政策

                      1 明治20年前後の訪日外国人増加
                      
                            @ 内外観光の前提

 紡績・鉄道主軸の企業勃興 周知の如く、明治20年代には在来産業の展開を基盤として、紡績・鉄道主軸の産業革命が日本で展開した。
                    
、第1次企業勃興期(21−22年)には、こうした鉄道(20%)のみならず、綿糸紡績(25%) や炭鉱(11%)が、「高い成長率」を達成した。この第1次企業勃興期の「GDP実質成長率(平均5%)が最も大きく」、日露戦後の第3次企業勃興期(39−42年、同2.2%)、第2次企業勃興期(29−32年、同2.1%)が「それに続いた」。この過程で、産業革命開始直前に「純国内生産の43%(明治18−9年平均)を占めていた農林水産業が、日清戦後(31−33年平均)の40%、日露戦後(40−42年平均)の35%へと、産業革命の過程で徐々に比重を下げはじめ」、「鉱工業(11%→16%→19%)や、運輸・通信・公益事業(2%→3%→6%)が比重を高めていく」(中村尚史「地方からの産業革命・再論―明治期久留米地方における綿工業と地方企業家―」『ISS Discussion Paper Serie』2016年10月 )のである。

 こうした全国的な産業構造の展開で、外客を迎える設備(国内交通のみならず国際航路や、近代ホテルなど)が可能になったのである。

 国内交通の整備 まずこうした企業勃興を支えた一つたる鉄道から瞥見すれば、周知の如く、鉄道の骨格は、明治5年9月の新橋ー横浜駅間の開業、明治7年5月の大阪ー神戸駅間の開通以後、明治22年東海道線が開通し、24年9月1日には東北本線で上野ー大宮ー仙台ー青森駅を全通させ、27年に山陽鉄道が神戸駅から広島駅まで完了した。九州鉄道では、明治24年までに門司ー熊本駅間、鳥栖ー佐賀駅間が完成し、四国鉄道では22年には予讃線が高松から宇和島まで開通し、同年に土讃線が多度津から高知まで開通した。

 こうした20年代鉄道整備は、在来・新興の国内諸産業の市場を整備し、それらを促進し、交通機械器具工業の国内製造への第一歩を刻んだ。

 国際航路の発展 次に国際航路を見れば、安政6(1859)年、イギリスP&O汽船会社(Peninsular and Oriental Steam Navigation Company)の長崎ー上海間定期航路が、慶応3(1867)年には横浜ー上海ー香港へと延長され、外国船(蒸気船、風帆船)の入港外国船舶数は、明治7年には不定期船を含めて382隻にもなっていた。

 この慶応3年の1月24日には、アメリカ太平洋郵船会社( Pacific Mail Steamship Company)も「サンフランシスコー横浜ー香港間航路開始第一船として、当時大・高級の汽船といわれたコロラド号(登録トン数3750トン)を横浜に入港させ」、横浜は「同社の中心的な停泊地となり、東洋における主要な事務所が設置され」た。この結果、明治7年、全国の開港場(神戸・大阪、長崎、東京、函館、新潟)で横浜の占める割合は、在留者数の59%、欧米商社数の72%、外国船入港数の41%と、顕著となった(木村吾郎「日本のホテル産業史論」大阪商業大学、2015年3月)。

                         A ホテル開設状況       

                             @ 居留地ホテル 

 横浜 当初の外国人向けホテルは、言うまでもなく居留地ホテルが中心で、横浜居留地では万延元年横浜ホテルが開業し、慶応元年では、@Commercial Hotel,W,Cartis,E,Viney、AHotel D'Europe,TJ,Ross,proprietor、BNational Inn,E,Tylor、COrient Inn,W.Voysey,F.Crutchley、DTycoon Hotel,James Mixter、EYokohama Hotel,G.H.Carriere,Daniel Lynch,L.E.Lamprell,Nicholas Rossがあった(The Directory & Chronicle for China, Japan, Corea, Indo-China, Straits,1865)と、横浜ホテル以外に5ホテルあった。

 明治維新以後、明治2年クラブ・ホテル、アングロ・サクソン・ホテル、ロイヤル・ブリティッシュ・ホテル、ホテル・デ・コロニーが開業した。「築地ホテル館、精養軒を灰にした京橋の大火の翌年」の明治6年9月には、横浜海岸通り20番にフランス人のBon Nat(ボンナ)、料理長ムラオ―(L.Muraour)が「一階に食堂、読書室、料理場・・二階に客室30室」を備えたグランド・ホテルを開業した(『日本ホテル略史』10頁、村岡実『日本のホテル小史』65頁)。

 6年9月15日付『横浜毎日新聞』広告で、グランド・ホテルは日本語で開業広告を出している。そこでは、「今般拙者儀当港二十番に於て旅館を開き、諸事欧州の例に倣日、家具美麗を尽し、万器清潔を極め、専ら諸客の便利に注意し、欧米諸国と毫も異なるなし、且食事は常食、非常食の両種に別ち、精々入念調理仕候。尤も非常食ハ四人より百人に至るまで御誂ひ次第急速出来候。且館内が御好に隋ひ、入御覧候間、貴賤貧富に拘らず、賑々しく御光来奉希候」(『日本ホテル略史』11頁)とある。ここで注目すべきことは、外資系ホテルでも、外客に市場を限定するリスクを緩和するために、日本人客も顧客対象に含めていて、宿泊のみならず料飲部門にも期待し、来るわけがない貧民にまで呼びかけていたことである。グランドホテルも、創業時に経営に不安を覚え、日本人客も対象にし、料飲部門ではかなり期待していたのである。

 明治12年の「The Yokohama Directory[The Japan Directory,1879、国立公文書館所蔵]」)によると、横浜居留地には、@18番ーInternational Hotel(Smith,E.S.Gorham,J.F,Scott,J.M.Book-keeper,Carey.James Chief Cook)、A20番ーGrand Hotel(Bonnat,L.,Zicavo,P.[Propriotor所有者]Muraour,P.Chef de Cuisine,Rey,P.Second Cook)、B40番ー Brooklyn Hotel(Harold,B. Templemore,F.W.)、C43番ーJapan Hotel(Mrs.H.Pagdon)、D60-61番ーCentral Hotel(T.Hassell,Simpson,C.R.,Manager)、E87番-Foote's Hotel(Foote,C.,Proprietor)、F133番ーP.Claussen's Hotel(Claussen,P.),GLondon Inn(Livingston,R.F.)など、8つの大小ホテルがあった。

 明治17年の「The Yokohama Directory[The Japan Directory,1884]」(国会図書館所蔵)によると、横浜居留地には、@5-B番ー18番ホテルが消え、「横浜ユナイテッド・クラブ」を改造しClub Hotel(A. Hoarne ,L.Beguex[ Lessees賃借人])が登場し、A20番ーGrand Hotel(J.Boyer,P.Moraour,E.Moulron[Propriotor所有者])、B40番ー Occidental Hotel(Mrs.Blockley, Miss McNally,G.Nash)、C43番ーDolphin Hotel(Mrs.H.Pagdon)(40番、43番は名称が改正されているが、43番は所有者は同一人)、D52番ーColonial Hotel(T.Batchelor)、E60-61番ーCentral Hotel(T.Hassell)、F97番ーClyde Inn(Francis Barry)など、7つの大小ホテルがあった。

 20番グランド・ホテルでは、明治10年代に仏国人持主ジェ・ボヤ―(J.Boyer)がR.P.ブリンジス(築地ホテル館の設計者)設計で石造り建物とした(村岡実『日本のホテル小史』66頁)。87番のMiss M.A.Heap,Miss E.A.Slatter姉妹経営のAster HouseもFoote's Hotelを引き継いだ個人ホテルとすれば、横浜居留地ホテルは8つとなる。97番には、Cafe de la Republioue(J,H,Casalta),Shamrock(Mrs.Mary Glass)もあって、この区画は小ホテル、カフェーなどがあったようだ。「改正横浜市全図」(明治30年)によると、20番グランドホテルは海岸沿いにあり、角地の絶好の立地である。

 明治25年「The Yokohama Directory[The Japan Directory,1892]」(国立公文書館所蔵)によれば、@5-B番ー22年にクラブ・ホテルは有限責任の株式会社となり、Club Hotel,Limited(D.Fraser,Chairman,J.Johnstone,S.Cocking,J.Ph.von Hemert,John W.Hall,G.BlakewayらはDirectors)となり(築地のホテル・メトロポールは支店)、A18,19,20番ーGrand Hotel(J.F.Lowder,Chairman,James Walter,J.Rickett,E.Blanc,Dr,HallはDirecotors)、B40番ー Occidental Hotelは買収されて、Club Hotel,Limited、Annexe(W.N.Wright,Manager,Hasegawa Otojiro,Bar-Keeper)となり、C97番ーFalcon Hotel(L.Hauestien)、D133番ーHotel Du Commerce(O.Saldaigne,Proorietor),E188番ーInternational Hotel(T.Lucini)と、52番ではMrs.DouglasがBoard and Lodging Houseを経営している。60-61番には、Central Hotel(T.Hassell)はない。97番はClyde Inn(Francis Barry)が消えてfalcon Hotelとなる。

 20番グランド・ホテルは「隣接の18番、19番の料理旅館ウインザー・ハウス(持主L.Wolf)と合併」し、「前後に広いヴェランダを持つ煉瓦造り二階建てフランス式の華麗な建築」を加えた(村岡実『日本のホテル小史』66頁)。5番Bのクラブ・ホテルは、40番Occidental Hotelを買収し、別館とし、横浜ではグランド・ホテル、クラブ・ホテルの二大ホテルを頂点に中小ホテルが興廃していた。

 神戸 神戸居留地では明治4年項には兵庫ホテル、オリエンタル・ ホテル、オテル・ド・コロニーがあり、明治12年の「The Hiogo Directory[The Japan Directory,1879]」)(国立公文書館所蔵)によると、@38番Hiogo Hotel(Johnson,W.G.、A56番Hotel des Colonies(Reymond,J.B.)が確認される。ホテル・ド・コロニーは、慶応4年7月、フランス人カンダンベルにより15番を競売で入手して建設され、明治12年にはReymond,J.B.が経営していたが、明治12、3年頃に「火事のために全焼」した(村岡実『日本のホテル小史』56頁)。

 明治17年の「The Hiogo Directory[The Japan Directory,1884]」(国会図書館所蔵)によると、@38番Hiogo Hotel(Johnson,W.G.)、 A56番Hotel des Colonies(Boudon,Mame)、B47番Hotel D'Europe(Reymond,J.B.)があり、Reymond,J.B.はHotel des ColoniesをBoudon,Mameに譲って、ホテル・ド・ヨーロッパを開設している。

 明治25年「The Kobe Directory[The Japan Directory,1892]」(国立公文書館所蔵)によると、@18番b-Kobe Hotel(Valke,C.,Manager)、A56番ーHotel des Colonies(Boudon,Mame)、B80番ーThe Oriental Hotel,Limted(Beguex,L.,Manager,Arnoux,F.Walter,W.A.Chief Steward,Ah Kum Steward)が確認される。

 47番Hotel D'Europe(Reymond,J.B.)が消えている。明治15年頃、フランス人ルイ・ベギュー(L.Bageax)は、居留地中央部の121番にオテル・ド・コロニーを建設し、明治20年頃に80番にオリエンタル・ホテルを新設し、その後オテル・ド・コロニーをBoudon,Mameに譲渡し、「オリエンタル・ホテル一本に経営をしぼった(村岡実『日本のホテル小史』56−7頁など)。現在も存続するこのオリエンタル・ホテルのHPによると、「開港時の面影残る旧居留地25番地(The Hiogo Directoryによると、ここはFaber & Voigtである)は、気品に溢れた神戸を象徴する場所」で、「オリエンタルホテルはこの土地で、140年以上の歴史を誇」るとされている。

 長崎 文久3年(1863)、長崎の居留地用地(「十善寺郷常盤崎[梅ゲ崎]より以南の地先大浦海辺および道栄ヶ浜を経て波の原に至る一帯」)の埋め立てが完了し、この間に訪日外国人は「居留地外国人の公私邸や商館、商社などの一部」に宿泊した。慶応元年、長崎には、@Oriental Hotel,Broderick,M.,ABellevue Hotel,Green.Mrs M,の2ホテルがあった(The Directory & Chronicle for China, Japan, Corea, Indo-China, Straits,1865)。

 以後、ホテルは、明治3年に3軒、4年に1軒が開業している(『長崎異人街誌』[村岡実『日本のホテル小史』62頁])。即ち、長崎居留地では明治3年1月、ロス商会が、大浦16番で「撞球場と理容サロン」を備えた「長崎における最初のホテル」としてバンク・エクスチエンジ・ホテル(Bank Exchange Hotel)を開業し、 3年J.B.Bay & Co,が、南山手11番に撞球場とボーリング場を備えた「豪壮」なベル・ビュ−・ホテルを開設し(グリーン夫妻経営の上記Bellevue Hotelを買収したのか)、3年2月大浦バンド(海外通り)に高級撞球場を備えたコマ−シャル・ホテルが開かれ、4年2月大浦バンド7番に「8台の撞球台とボウリング場」を備えたオクシデンタル・ホテルなどが設立された(木村吾郎「日本のホテル産業史論」、村岡実『日本のホテル小史』63頁)。

 明治12年「The Nagasaki Directory[The Japan Directory,1879]」(国立公文書館所蔵)によると、@Albion Inn(Naftaly,A)、、ABellvue Hotel(Macini,C.N.)、BEureka HotelSambuck,J.<Propriotor),CHotel de Garibaldi(Lusteg,Proprietor),DImperial Hohel(Umland,J.M.とShanagan,H.がPropriotor),EInternational Hotel(Massie,J.S.)、FMetropolitan Hotel(Drewell,A.,proprietor),GSmith's Hotel(Smith,J.U.Proprietor),HSt.Petersburg Hotel(Anderson,J.Propriotor),IThe Gem Inn(Jennings,B.Proprietor)と、長崎居留地では、インを含めて、中小ホテルが族生している。

 明治17年の「The Nagasaki Directory[The Japan Directory, 1884]」(国会図書館所蔵)によると、ベル・ビュ−・ホテル(Belle-Vue Hotel(Rischoff,F.)、アルビオン・イン(Albion Inn[Naftaly,A])、オイレカ・ホテルEureka Hotel(Felman,Mrs.L.)、インターナショナル・ホテル(International Hotel[Massie,J.S.])、スミス・ホテル(Smith's Hotel[Van der Vlies, G.Labastie,Madam])以外は消えて、新たに@Army and Navy Inn(Charley,)、ABritannic Inn(Steinberg,J.,Blum,)、BCity of Hamburg Inn(Haynovich.)、CFalcon Hotel(Mills,H.Thompson,)、DPrince of Wales Inn(Saphyr,T.)なども出現して、長崎ではインを含めて、中小ホテルが興廃している。

 明治25年「The Nagasaki Directory[The Japan Directory,1892]」(国立公文書館所蔵)によると、@Army and Navy Inn(Yves Huon)、ABell-vue Hotel(Harmand,A),BCook's Hotel(Cook,M.H.,Howard,W.),CCommercial Inn(Goldenberg,H),DEureka Hotel(Lessner,S.D)、EFalcon Inn(Mills,H.),FInternational Hotel(Massie,J.S.)が残っている。しかし、Albion Inn、Britannic Inn、City of Hamburg Inn、Prince of Wales Inn、Smith's Hotelは消える。長崎は中小ホテルの興廃は顕著である。横浜のグランド・ホテル、クラブ・ホテル、神戸のオリエンタル・ホテルのような株式組織の大ホテルは生じていない。

 なお、32年6月22日付『日本』によると、この頃の「帝国居留外国人」は1万15人である。その内訳は、清国5297人(男4311人、女986人)、英国1763人(男1030人、女733人)、アメリカ1140人(男603人、女537人)、ドイツ487人(男368人、119人)、フランス人420人(男279人、女141人)、ロシア214人(男120人、女94人)(『新聞集成明治編年史』第十巻)である。

                            A 大都市ホテル 

 こうして居留地ホテルを先駆として、大都市でも、東京(明治20年東京ホテル、23年メトロ―ポール・ホテル、同年帝国ホテル)、大阪(明治14年自由亭ホテル開業、33年大阪クラブホテルに発展)、名古屋(20年ホテル・ヅ・プログレス、28年名古屋ホテル)、京都(明治元年に祇園料亭中村楼が外国人宿泊施設を設置、10年大阪自由亭ホテルが支店設置、14年也阿彌(ヤアミ)ホテル、いずれも和洋折衷。23年京都ホテル=常盤ホテル開業)では、20年代に洋式ホテルが登場した(木村吾郎「日本のホテル産業史論」)。

                            イ 東京

                        a 帝国ホテル
 

 東京のホテルの代表格たる帝国ホテルについて、その開業事情の特異性に関しては、後述の「2 南貞助・井上馨の訪日客増加策」に譲り、ここでは、それ以後の帝国ホテルの厳しい経営状況とその克服過程について見てみよう。

 収益基盤 帝国のホテルの特色は「宿泊客の90%以上が外国人である」ということであり、「このホテルの特色は、戦後まで長く続くのである」(武内孝夫『帝国ホテル物語』102頁)。

 しかし、開業しても「外国貴賓が60の客室をいつも埋めてくれるわけではなく、あるいは盛大な宴会を毎晩催してくれるわけではな」いのだが、宿泊面での「日本人の利用は最初から当てにして」はならなかった。従って、帝国ホテルは創業以来無配続きだったが、それでも「株主たちは、さして不平もいわずに耐え続けた」(武内孝夫『帝国ホテル物語』現代書館)。それは、結婚・宴会・食事など非宿泊収入=料飲収入が小さくなく、状況如何、或いはマネジメント如何で好転させる可能性があったからである。

 この点、現在では、十代目定保英弥社長は、「バブル崩壊や新型感染症SARSの流行やリーマン・ショックなど外部要因」などにもまれながら、この外部影響を最小にするべく、@顧客の国内:国外比率を「50:50のバランス」に維持し、A「経済環境など、外的要因の影響を受けやすいホテル事業」が「安定的に利益を確保し続け」るために「1983年、日本初の商業施設とオフィス、ホテルの複合施設として帝国ホテルタワーを開業」したのであった(山口亮「日系ホテルの雄・帝国ホテルの130年続く流儀 受け継がれる渋沢栄一の「創業の精神」」2018年8月2日付東洋経済Online)。ここには、ホテル収入基盤は、宿泊客収入では外客と内客を対等にし、非宿泊収入を相応に確保することの重要性が述べられている。ただし、今回のコロナ影響は、この収入戦略を崩壊させ一時的には大幅赤字である(「四季報情報」)。

 初期の小収益 「創立以来このホテルの成績は欠損続で、無論配当はしなかつた」(昭和二年七月九日帝国ホテル常務小林武次郎氏の談[『渋沢栄一伝記資料』第53巻])という指摘もあるが、必ずしもそうではなかった。

 室料・食事(フランス料理)代は一日2円75銭ー9円、食事代は朝食50銭、昼食75銭、夕食1円である(武内孝夫『帝国ホテル物語』現代書館、1997年、14頁)。時期的外客数の推移として、「蒸し暑い日本の夏は、外国人に敬遠されて来日客数も少なかったが、在日する外国人も箱根とか日光、軽井沢などに逃げた」ので、「帝国ホテルでは、『往々一客を留めさるの有様』(営業報告書)」となる(武内孝夫『帝国ホテル物語』42頁)。

 明治23年11月ー24年6月の投宿客は690人(各月ごとに96人、55人、35人、29人,44人,98人,180人,153人)、食事客は3579人(各月ごとに355人、918人,430人,397人,358人、342人、448人、331人)、宴会客数は4375人(各月ごとに613人、846人、768人、105人、520人、296人、415人、812人)であり、平均宿泊費6円で推定した該期宿泊収入4140円、平均食費75銭で推定した飲食収入は2684円であり、これに宴会収入を加えれば、非宿泊収入が宿泊収入を少なからず上回っていたことが確認される(『帝国ホテル百年史』92頁)。当時から、ホテル経営者が宿泊収入と非宿収入を分けていたことは留意されよう。

 23年から、11月3日の天長節夜会は、26年を除いて、36年まで毎年帝国ホテルで開催された。「夜会に招待されたカップルは、夜9時頃に会場に入り、10時には舞踏がはじま」り、「11時頃に立食の饗応をうけて再び舞踏を行い、1時又は2時頃に散会し」、また、「横浜方面からの招待客(外国人であろう)のために臨時列車が用意されていた」。食堂では「例の如くナイフ・フォークの飛び交ふさま、狂蝶の花に舞ふにも似て行儀の何たるを解するものは勿論、苟も危険を感ずるものは寄り付き難き有様」と日本人招待客の醜態を報じている。招待客の増加から,天長節夜会は明治39年より外務大臣官舎で行われるようになった(村山茂代「帝国ホテルの舞踏会」『日本女子体育大学紀要』36、2006年3月)。この天長節夜会は、会場費、料飲費などで、相応の収入を帝国ホテルにもたらしたであろう。

 これで、帝国ホテルは当初から利益は捻出していた。利益は、24年6月8342円(第一回営業報告書、『帝国ホテル百年史』92頁)、24年度下半期80円、25年上半期3627円とあがってはいたが、利益が僅かな半期もあった。それでも、25年上半期には初めて1%配当をした(『帝国ホテル百年史』95頁)。しかし、「その後再び無配となって連続十期無配が続」き、「取締役会長以下の重役は、一人の常務理事の他は全員無報酬であった」(武内孝夫『帝国ホテル物語』現代書館、1997年、43頁)。

 帝国ホテルは、外客をめぐって、横浜居留地ホテルの代表格たるグランドホテル(明治6年設立、木造二階建て、客室30)と競争することもあったようだ。明治24年11月23日付『読売新聞』の「帝国ホテルとグランドホテルの競争」では、「従来本邦に渡来する外国貴顕紳士は重に横浜海岸のグランドホテルに投宿する傾きにて常に其多数を占むる姿なる」が、今度「府下の帝国ホテルはグランドホテルの向うを張り、西洋人を雇入れ案内者となし、又横浜へ出張所を設け、各国郵船等の着港する毎に船客の送迎を為さんとて、既に小蒸気船まで備へた」のであった。グランドホテル株主は、これを「聞く」や、「大いに其影響を恐れ、株主諸氏は遽(にわか)に協議を遂げ、目下頻りに競争の準備中なり」となっている。実際、帝国ホテルは「外国人アーサ氏を雇ひ入れしより、外国旅客の宿泊するもの大に増加」し、さらに「近頃は又諸団体の集会懇親会等ありて、日々何かの集会あらざることなし」と、盛業となっている(明治25年1月13日付『読売新聞』)。米人C.S.アーサーの月俸は200円という高給(日本人支配人は50円、常勤重役100円)で「支配人として雇い入れていた」(武内孝夫『帝国ホテル物語』43頁)。

 アーサーの尽力か否かは不明だが、米国富豪のパーティーが催されている。つまり、明治25年10月31日夜に「日本好き」「米国金満家パーソン氏の饗宴」が行われている。「流石米国大金満家の催しなれば僅か一夕数十人を招待するの宴会にも実に驕奢を極め人の目を驚かすばかりにて、殊に宴会場は舞踏室を以て之れに充て、場の周囲には琅?(ろうかん、美しい竹)百数十本を植えて、宛然竹林を作り、株元に檜葉を挿し込み、菊花其他種々の草花を雑植」し、「又場の中央には黄菊を以て直径二間の大菊花を作り、金英燦爛、清香馥郁(ふくいく)、ここに入るものをして仙界に在るの思ひあらしめ」るという壮大な装飾を施していた。さらに、日本好きらしく、「食物を運ぶ一方の入口には田舎構えの門を設け、蔦蔓(つたかづら)之に纏い、烏瓜の三つ四つなり下がりたる処、風致頗る面白くあ」った。「当日の貴客は大山(巌)伯爵夫婦を上客として、楫取男爵夫婦、三宮義胤氏夫妻、閣龍(コロンブス)博覧会名誉会員ウィンストン氏夫妻、紐育商法会議所会頭スミス氏夫妻、閣龍博覧会特派員デー・ガービル氏、ゼネラル・リセンドル氏ら三十名ばかり」であり、「殊に目立ちしは大山伯令夫人が蝦色(えびいろ、平安時代からある山葡萄で染められた赤紫色)に花紋形を織出したるを着流し、頭髪は後ろに長く下げ其先きを結びて全く古代宮女の扮装にてありしかば、主人夫婦も殊に称賛した」のであった。因みに、この大山夫人とは、会津藩家老山川重固五女捨松であり、岩倉使節団に随行して渡米した女子留学生の一人であり、兄は元会津城防衛総督の陸軍大佐山川浩、元白虎隊士の東大教授山川健次郎(明治34年総長)であった。旧官軍の陸軍卿大山巌(薩摩藩砲兵隊長として山川浩・健次郎・捨松籠城する会津城砲撃、明治24年陸軍大将)が旧朝敵の捨松に惚れて、会津側の大反対などものともせず明治16年に実現した夫婦であった(遠藤 由紀子「会津藩家老山川家の明治期以降の足跡 ―次女ミワの婚家・桜井家の記録から ―」『昭和女子大学女性文化研究所紀要』第45号、2018年3月など)。山川浩は西南戦争で賊軍西郷隆盛と戦い、その賊軍のいとこが大山巌となって、西南戦争で山川は旧朝敵、大山は新朝敵の親族という境遇となり、「同じ朝敵」家系となったのである。さらに、会津大反対の中での大山側の誠実な説得もあって、長兄浩は人物を見て決めるとし、捨松もそれを受け入れたのも、卑怯な振る舞いをせず、虚言をはかぬというを会津魂の持主というべきか。午後七時、さらに、「主人は来賓を連れ立ちて、食堂に入り、嚠喨(りゅうろう)たる楽声と共に、設けの席に於て饗応あり、思い思いに談笑して、歓を極め、時辰(じしん)12時を報じて散会」(明治25年11月2日付『読売新聞』)した。これだけの大宴会ならば、帝国ホテルには少なからざる収入をもたらした。

 無配転落 しかし、アーサー支配人も営業不振を挽回できず、2年後に罷免される(武内孝夫『帝国ホテル物語』45頁)。

 明治26年4月5日夜、資産家華族にして外務官僚(明治16年外務省書記生、仏国公使館書記生、25年弁理公使)の元舘林藩主秋元興朝子爵(明治44年50万円以上の資産家[『全国五拾万円以上資産家一覧表』44年7月24日付『時事新報』]、自宅は駿河台北甲賀町六)の夜会が帝国ホテルで開かれ、招待状は内外人1500人に及んだ。「当夜の舞踏は番数十五」で「外国婦人と打合せの上孰れも新流行のもののみを選定」し、また「余興として蝶柳斎の手品、源水の独楽回しを演ぜしむる由」であった。「舞踏室の装飾は正面の中央に秋元家の定紋打たる径(わた)り、四間の一大金扇面を掲げ、其左右には同家伝来の馬印纏及び無の字槍(徳川家康から拝領)を大形に模造して之を飾り立て、尚ほ五間と四間との大旭旗二旒を交叉し、食堂には花卉の盆栽を陳列し、総て極美の装飾をなすと云う」。しかし、『読売新聞』記者は「人民が苦しんでいる時に、「かかる無益の戯れをなすものの心ぞ知れがたけれ」(明治26年4月6日付『読売新聞』)と批判するのを忘れなかった。それでも、こうした社交が功を奏したか、28年3月には秋元は特命全権公使に昇進した。

 しかし、この程度のパーティーの収入では帝国ホテルの営業不振の打開にならなかった。26年10月、帝国ホテルは1万円を借入れ、26年12月には、経費節減のために、副支配人(月給100円)、社員ボーイ10人を解雇した(『帝国ホテル百年史』95頁)。収入減少すれば、経費節減で対応するということであろう。

 明治27年1月に朝鮮で東学党の乱がおきて、東アジア情勢が緊迫してくると、27年2月には、「春の花、秋の紅葉の折と違ひ、目下府下の西洋旅館は一体に霜枯れの色あり、内山下帝国ホテルの如き六十余の間数ある大ホテルすら、僅に六組ほどの宿客あるのみ、至て寂寥の由]」となっている。しかし、「追々銀婚式も近き、偖は梅見の季節ともならば、春と共に賑を催すことなるべしと」(明治27年2月7日付『時事新報』[『新聞集成明治編年史』第九巻])と、結婚式や宴会に期待をよせている。しかし、27年6月地震で本館が大破し、3500円の修復費を要した。米国金融恐慌の影響で、27年外客数は減少したところへの地震被害であり、3ヶ月間は宴会謝絶し、宿泊客は減少した。27年8月日清戦争で外客はさらに減少したが、それでも27年利益金として50円を確保した(『帝国ホテル百年史』96頁)。こういう不振状況下で、ドイツ陸軍砲兵中尉が台湾討伐の功あって「粗略なきように」という指示で投宿し、いつしか宴会、投宿代金未払い1182円の損失が生じた(『帝国ホテル百年史』97頁)。これは、支払責任者はどこにあるかを確認せずに、まとまった宿泊費・料飲費を当てにして惹起した事件といえよう。

 27年ー29年の「一日当たり客数の推移」を、27年下半期、28年上半期、29年下半期においてみると、@宿泊客の一日平均は3.5人強、4.5人強、5.5人強、A宿泊客述べ人数の一日平均は13.5人弱、19人弱、23.5人弱、B宴会客の一日平均は10人弱、27人強、27.5人強、C食事客の一日平均は、13人弱、15.5人強、20.5人弱であった(『帝国ホテル百年史』97頁)。宴会客、食事客の合計は23人、42.5人、48人であり、宿泊客述べ人数の一日平均の約2倍であり、料飲収入が宿泊収入を十分補完していることが確認されよう。

 30年下半期から、「比較的好調」となる。「日清戦争後、漫遊客のほかに、用務のために来宿する外国人客が増えてきたのが目立ち」、「例年下半期は客数が少ないにもかかわらず、当期は上半期に負けず投宿客延べ人数が増えた」。25年上半期1%配当以来、「10期無配を続けてきた」が、30年下期2.5%配当(6625円)を実施した(『帝国ホテル百年史』98頁)

 不安定経営 31年1−3月は「きわめて不景気」、4月中旬から外客増加して「各ホテルとも繁忙」となり、帝国ホテルも「貸し切り状態で来客を謝絶するほど」となったが、米西戦争で「米国人の来日がほとんど途絶え」、「日米間定期船が軍用船として徴用」され、航路途絶し、外客が大幅に減少し、5月以降は不景気となる(『帝国ホテル百年史』98頁)。31年下半期、「酷暑のために日光、箱根、軽井沢等に転居する外国人が多く、新客の来航も、船ごとに1、2人あるかどうか」で、帝国ホテルに宿泊者がいないのみならず、「前期値上げで」食事客も減少した(『帝国ホテル百年史』99頁)

 32年「営業の不振は依然として続」き、1−3月は特に客少なく、「逗留客は多い日で20人を超えず、少ない日は5、6人であった」。5、6月の繁忙期にも、1日50人以上になったのは3日のみであった(『帝国ホテル百年史』99頁)。

 33年3月20日経営不安定を打開するための臨時株主協議会を開催し、「会社経営から個人経営に切り替えるなどの意見」も出されたが、これは見送られた。33年4月27日取締役会で、改めて個人経営は否決され、「ホテル業務(つまり、宿泊・料飲業務)之刷新改善」のために「優秀な外国人支配人を雇い入れること」を決議した。10月大倉喜八郎提案でスイス人バイターを雇うことになったが、同人は別のホテルに登用された(『帝国ホテル百年史』99頁)。33年下半期から「一日の来客一人若しくは二人、逗留数は平均十人を越えず」、60室ホテルとしては「惨憺たる状況」で無配に転落した(『帝国ホテル百年史』100頁)。

 フライク兄弟の登用 34年下半期は、「清国謝罪使一行之宿泊、北清より帰国途中来日した各国高等軍人たちの宿泊」し、11月「大演習陪観のため来日した外国人が多」く、「一日平均30人を超える宿泊客があり好調」(『帝国ホテル百年史』100頁)であった。

 料飲部門も、34年7月には「米友協会がペリー提督の遺跡を保存して建てた記念塔除幕式之祝宴に久里浜迄仕出しをし、また宿泊した各国軍人に対する宴会、大演習を陪観した軍人が催した宴会等が多数あ」り、11月天長節夜会もあり、「宿泊、料飲部門共に好調で、全体としては開業以来最高の売上(6万9904円)となった」(『帝国ホテル百年史』100頁)。11月3日舞踏室での天長節の外務大臣主宰夜会には1000人が集まり、これも「営業成績に寄与」(武内孝夫『帝国ホテル物語』現代書館、1997年、48頁)した。

 34年12月7日ドイツから新支配人エミール・フライクが来日して、経営改革に着手した。彼は「有能な支配人」で、「暖房機の設置、什器の取り替え・補充、客室内部の改装、玉突き場の新設、応接室や喫茶室の改修、ブルゴーニュ・ワイン醸造元との一手販売契約」などに手腕を発揮した(武内孝夫『帝国ホテル物語』現代書館、1997年、55頁)。既に上向き始めた帝国ホテルの業績をフライクが巧みに取り込んで、一層の業績向上を実現したということであろう。故に、「フライク支配人のもとでこうした経営努力は、次第に宿泊客を誘引し、又その滞在日数も増え始」め、「1日50人内外の客数は珍しくなくなった」(『帝国ホテル百年史』100−1頁)のである。36年大阪第五回内国勧業博覧会で外客増加も業績引き上げに寄与し、「3月下旬からしだいに宿泊客がふえ、4、5月には全室満員」(『帝国ホテル百年史』101頁)となった。

 こうして、フライクの欧風マネッジメントで外客増加気運を促進され、帝国ホテルは「まるで変身を遂げたように」なった(『帝国ホテル百年史』帝国ホテル、平成2年、102頁)

 しかし、「帝国ホテルの営業がようやく軌道に乗ってきた」矢先、日露戦争となる。しかも、37年下期から、天長節夜会(38年から外務大臣官邸で行われる」)はなくなり、又「戦争のための外国人観光客は減り、世況不況で宴会客も亦減少した」が、業績向上基盤が醸成されていたか、「かつてのように苦境にあえぐことはなく、この期も株主配当(4%)を行った」(『帝国ホテル百年史』帝国ホテル、平成2年、102頁)のであった。

 「帝国ホテルにとっての長く厳しい試練の歳月は、この37年下半期を以てようやく終わりをつげようとしていた」(『帝国ホテル百年史』102頁)のである。明治38年には「開業以来初めて一割配当を行」ないすらしたのであった(武内孝夫『帝国ホテル物語』55頁)。

 しかし、ベルツはフレイク(フライク)から懸念すべきことがあると聞いたと指摘している。38年3月10日、ベルツは、日露戦争中の帝国ホテルの不良宿泊客について、フレイクは、「前公使の息子」、「退役陸軍大尉」など「勘定を一文も支払わないカタリやヤクザ者が、ここにうようよしている」とこぼしていたと記している。さらに、「今度当地へ派遣されて来たオーストリアの士官連」は「人使いの荒い人間」であり、「日本人のボーイがストライキをや」るほどだとする(ドク・ベルツ編、菅沼竜太郎訳『ベルツの日記』第二部下、岩波文庫、昭和37年、115−6頁)。日露戦争後の上向き始めた景気は、名支配人とか、一部不良宿泊者という問題を越えて、帝国ホテルの経営業績を引っ張り上げたのではないか。

 経営軌道定置 「日露戦争による好景気にも恵まれて、経営は軌道に乗り始め」、「翌年には別館の新築、新食堂の新設に着手」した。39年訪日外客数は前年比で53%増え、2万5千人を超え、「帝国ホテルも満員盛況で、2−3月には申込み謝絶が500人を上回」った。渋沢栄一会長はこれをフライク功績として、彼を重用した(武内孝夫『帝国ホテル物語55−6頁)。

 明治39年3月25日、高橋是清の日露戦時外債募集で親身に協力してくれたユダヤ人大富豪の米国人シフ(Jacob Henry Schiff)が日本政府招待で来日し、3月28日明治天皇から勲一等旭日大綬章を授与された。是清とシフは親友になっていた。5月14日には、「目下帝国ホテルに滞在中なる米国富豪シップ氏一行は愈々帰国するにつき・・朝野の名士六十余名を同ホテルに招待し、盛大なる訣別の宴を張」っている。「当日は巨額の費用を以て同ホテルに大装飾を行なうべし」と言われた。「同氏一行は来る十八日正午横浜解繿(かいらん、出港)のエンピレス・オブ・シャパン号(1891年英国で建造、カナダ太平洋汽船の所有するエムプレス船団の一つ、5900トン)にて帰国の途に上る」(明治39年5月13日付『読売新聞』)予定であった。この時も米国人富豪の宴会は帝国ホテルの一層の収益増加に貢献したのである。しかし、基本的には、年数回の外国人富豪の宴会収入よりも、頻繁な国内中小宴会・儀式・会議などの宿泊外収入のほうが安定的収入であったろう。 

 39年夏、フライク支配人・営業部長は、「四年半の在任期間」で、「業務視察を兼ねて一時ドイツに帰国中に、心臓病で急死」し、「帝国ホテルにとって大きな痛手」となったという。遺族に弔慰金1500円を贈った。兄カール・フライクが支配人となったが、彼も「一年後の1907年8月、東京で死亡」した(武内孝夫『帝国ホテル物語』56頁)。

 39年上半期には、1日当たり宿泊客数は1月41人、2月57人、3月58人、4月74人、5月73人、6月62人と、365人となったが、宴会客計3803人、食事客7698人(2991人増)となって、宿泊収入を上回った(『帝国ホテル百年史』帝国ホテル、平成2年、102頁)。明治39年上期利益金は6万8278円(帝国ホテル株式会社「第参拾弐回半季営業報告」『竜門雑誌』第二二一号、明治三九年一〇月二五日[『渋沢栄一伝記資料』第14巻])、39年下半期利益金は28,581円である(『竜門雑誌』第二二五号、明治四〇年二月二五日蔵[『渋沢栄一伝記資料』第14巻])、40年下半期総利益金は41,922円と、フライクなしでも、順調に推移している(『竜門雑誌』第二三八号、明治四一年三月二五日[『渋沢栄一伝記資料』第14巻])。

 さらに、この頃には帝国ホテルの食堂を贔屓にする富裕層がでてきたことを確認しておこう。「株式社会で名ある」林小兵衛(所謂株式仲買業)は、安政4年に大阪に生まれ、後に東京の株式仲買商林小兵衛の養子になり、跡をついで、屋号を谷商店と称した。直接国税五千百円を納め、資産は五十万円(「全国五十万以上資産家」『時事新報社』大正5年3月29日ー10月6日)に達し、長男小兵衛は慶応義塾を卒業し、次女とめは男爵森岡彦に嫁がせていた(『人事興信録』第4版大正4年、は49頁)。森岡彦は鹿児島氏族江夏喜蔵の二男であり、明治31年3月に鹿児島氏族森岡昌純(農商務少輔、共同運輸・日本郵船社長)の死去に伴い養子となった。44年1月にとめとの長男が生まれているから、42、3年頃に彦ととめは結婚したのであろう。林は富裕な株式投資家として、娘の婚姻には相当な持参金を持たせたであろう。その林は帝国ホテルでは「札ビラを切て食事」をし、「晩餐などには芸者の七八人も引張て」きて「其度ごとにボーイに総花(約50円)を打つ」という派手な振る舞いをしていた。「外国人でも随分贅沢するものもある」が、林のように「一食事ごとに総花を打つものは従来あった例がない」というから、帝国ホテルでは歓迎すべき日本人富裕層の一人ではあったろう。同じく株屋の富倉林蔵(財産50、60万円[『兜街繁盛記』1912年刊、寺西重郎「戦前期株式市場のミクロ構造と効率性」『日本銀行金融研究所』2009年10月])もボーイに受けがよかった。

 なお、こうした事はこの時以降もあったようで、「世間」から帝国ホテルに芸者が出入りすることには批判があったようだ。これに対して、林愛作支配人は、「一時芸妓が門を潜ったと云って世間の非難を蒙ったが、私の考では芸妓が芸妓として食事位に客に招かれるは万止むを得ないことである。芸妓芸妓といって、世間では悪く云ふが今日の所謂芸妓のような芸妓を作り出した原因は男の方が悪いので、私は常に芸妓には同情している」(明治45年6月22日付『読売新聞』)としていた。

 株屋に次いで羽振りがいいのは、資産家華族であろう。井伊直忠伯爵は資産三百万円であり(前掲「全国五十万以上資産家」『時事新報社』)、、「頗る洋食を嗜まれ、三日に上げずやって来る」のみならず、「其邸へも一日一度必ずホテルから取り寄せする」のである。原則帝国ホテルは出前をしないので、「洋食入れの弁当」を届けることにしているという。本邸は麹町一番町21であるから、そんなに遠くではない。徒歩なら三四十分で、人力車なら三宅坂を下って二十分ぐらいである。本邸には能舞台を構えていたというから、決して「西洋かぶれ」ではない。彼が最初に帝国ホテルを訪れた時、「低身へ縞の羽織を着流し、挙止如何にも手軽く、ボーイなどには丁寧な言葉遣ひをする」謙虚な人であった。ボーイは彼を見て「最初何れかの商人」と思ったが、能関係の「伴(つ)れの人々は紋付袴で四角張り、一々此縞の羽織(井伊直忠)へ低頭平身する」ので、「漸く彼が家従で是が主公なること」がわかったのであった。まさか幕府大老井伊直弼の孫だとは夢思わなかったであろう(明治40年12月21日報知新聞[『新聞集成明治編年史』第13巻、350頁])。

 なお、華族の帝国ホテルの利用は多様であったが、井伊がこのように帝国ホテルで能演舞・稽古の慰労会をしていたとすれば、華族の中には帝国ホテルで邦楽の演奏会をする者もあった。例えば、昭和12年6月19日に皇后宮大夫広幡忠隆侯爵は生田流筝曲名家の宮崎春昇の「地唄」演奏会を帝国ホテルで催し、天皇侍従入江相政子爵、保科正昭子爵(妻は北白川宮能久親王第三王女)らを呼んでいる(『入江相政日記』第一巻、179頁)。

 新支配人問題 41年上半期「利益金及前期繰越金」は 44,547円(『竜門雑誌』第二四三号、明治四一年八月二五日)、41年下半期利益金は18、888円である(『竜門雑誌』第二四九号、明治四二年二月二五日)。

 それでも、帝国ホテルは優秀な外国人支配人が必要だとしていた。まだ優秀な日本人支配人の登用までは思い至らなかった。明治41年1月、帝国ホテルはスイス公使推薦で「スイス人のハンス・モーゼル」を支配人に登用した。41年5月19日昼、「新支配人モーゼル氏推薦ノ礼」として、「帝国ホテル会社重役一行ノ催ニテ、大倉邸ニテ瑞士公使ヲ招待」した(『日録』八十島親義氏所蔵[『渋沢栄一伝記資料』第14巻、404巻])。しかし、モーゼルは、料理長を日本人からフランス人に変えたり、築地支店(メトロポールホテル)支配人を交代したり、支配人助手に外国人女性を任命したり、「本館の全面改修も企て」たりしたが、「営業成績は急激に悪化」した。42年6月、帝国ホテル取締役会長渋沢栄一は、古希を迎え、第一銀行と東京貯蓄銀行を除いて役職を退いたので、大倉喜八郎が新会長に就任して、「築地支店の一時休業の決定」のみならず、「モーゼル支配人の解雇」、「料理長、客室係、築地支店の支配人」など外国人従業員の解雇を打ち出した。大倉会長のもとで、初めて外国人支配人は「種々弊害を醸し業務の発展上幾多の困難を感ずる場合多」いとされたのである。大倉は、外国人支配人に「ホテル運営の知識と経験に頼ってきた従来の路線に決別して、新しい一歩を踏み出すことを決意した」(武内孝夫『帝国ホテル物語』現代書館、1997年、56−7頁)。大倉は、問題は外国支配人にあるのではなく、宿泊収入、料飲収入の相関的増加、そのためのマネッジメントにあることに気付いたのである。

 この頃、「欧米先進諸国では国際観光の波が高ま」り、「日露戦争で大国ロシアを破った極東の日本への関心はとりわけ強く、来日する外国人は急増しつつあった」(武内孝夫『帝国ホテル物語』現代書館、1997年、58頁)。こうしたことによって、ホテル不足問題が深刻化してゆくが、こうした帝国ホテルの「成長」はそれを克服する有力な国内的能力の一つとなってゆくであろう。

                            b その他の東京ホテル 

 四ホテル 明治37年3月発行『東京明覧』、明治40年4月発行津田利八郎編『最近東京明覧』によると、東京には、帝国ホテル以外に、精養軒、愛宕館、メトロポールホテル、センツラルホテルの四つある。当時の精養軒ホテル(京橋、上野)、東京ホテル(日比谷)、メトロポールホテル(築地)の客室数は「20程度かそれ以下」(武内孝夫『帝国ホテル物語』現代書館、10頁)であった。帝国ホテルは上述したので、それ以外を瞥見しておこう。

 東京ホテル この東京ホテルは、非常に所在地等が紛らわしいホテルの一つである。フィリピン国民的英雄となったリサールに関する日比谷公園内の碑に、明治21年にこの地にあった東京ホテルに泊まったという記述があるため、東京ホテルは日比谷公園内にあったと誤解されがちである。しかし、事実はそうではない。

 東京ホテル(麹町区有楽町三丁目二番地)は、明治20年6月開業式を行ない、翌日から業務を開始した。明治20年6月23日付『読売新聞』の「開業広告」によれば、有楽町日比谷大神宮前(有楽町にある日比谷大神宮の前。日比谷大神宮は譜代笠間藩8万石上屋敷跡地に関東大震災まで存在し、昭和3年に飯田橋の東京大神宮に移転)にあり、「当ホテルには玉突、大玉、カルタ、舞踏室、内外新聞縦覧室、集会室、寝房に至るまで相設け、料理は欧米各国の正式に拠り献立いたす」とある。そして、料理定価は上等75銭、中等50銭、並等40銭で、「仕出しもいた」すとした。

 20年6月25日付『東京経済雑誌』では、「麹町区有楽町に建造中だった東京ホテルが完成して、去る22日に開業式を行ない、翌23日から営業を始めた。築地ホテルが焼けてから、わが国には、西洋人向きの洋風の旅館がなくて、来遊する外人達には、不便が多かったのであるが、ここにそのホテルが成ったのであり、館内には舞踏室、新聞縦覧室、集会室、寝室などが整って、頗る便利にできている」(森銑三『明治東京逸聞史』1、平凡社、1982年)とある。22日の東京ホテル開業は少なからず注目されていたようである。

 それでは、これが新築開業だったのか、従来のホテルの引継ぎ改装開業だったのか、このいずれかははっきりしない。運輸省鉄道総局業務局観光課編『日本ホテル略史』(運輸省観光課、1946年)の明治6年の項に「横浜の旅館、鹿島屋主人小室貞次郎、日比谷門見附に『東京ホテル』建設す。木造洋風二階建、室数二四、五」とあり、横浜旅館主が京浜間鉄道開通を機に東京来訪外人が増加することを見通して設置したようである(村岡実『日本のホテル小史』114頁)。ここでは、日比谷門見附となっているのは、まだ有楽町に日比谷大神宮が設置されていなかったからであろう。築14年とすれば、まだ解体する状態ではないから、20年開業は改装開業となろう。恐らく、所有者小室が、近隣に帝国ホテルが建築されれば従来のような外客宿泊収入は得られないとして、売却したのであろう。所有者が代わって、新所有者が改装して開業したということであろう。22年12月7日付『読売新聞』には、「麹町有楽町三丁目の東京ホテルは先頃より増築中の処、最早追々に竣工すると云う」とあるから、以後も増改築は繰り返されたのであろう。

 20年12月8日、渋沢らはこのホテルが半年前に改装開業した事に気付かず、当初帝国ホテルを有限責任東京ホテルとして推進した。22年4月26日付『読売新聞』によれば、「地形不完全なりし為め一時廃工したる山下町の東京ホテル」とあって、まだ登記しなかったので、22年時点でも先行の日比谷御門脇東京ホテルに気付かなかったようだ。その後、23年8月1日になって、東京ホテル理事横山孫一郎は東京府知事に、社名改称の儀を上申している(『庶政要録第』18、農商掛ノ11、工部・会社定款規約・4[東京都公文書館])。

 23年11月2日付『読売新聞』によると、23年11月6日午后4時半より「日比谷門傍東京ホテル」に於て旧柳川藩人親睦会が開かれている。しかし、以後は、旧柳川藩人親睦会は上野精養軒(26年1月10日付、31年11月22日付、34年3月26日付、33年2月28日付『読売新聞』)で開かれている。恐らく、旧柳川藩親睦会が東京ホテルを都心一等地の一流ホテルと思って利用したが、料理、設備などが物足りなかったためか、以後彼らはここを継続使用する事はなかった。

 25年には、『日本ホテル略史』(39頁)によると、「東京日比谷の東京ホテル、市区改正の為め立退きを命ぜられ廃業す」とあって、当時の「市区改正」で東京ホテルの敷設土地が「流動化」してゆく。つまり、この頃「日比谷御門付近の道路(現在の「日比谷通り」)と日比谷公園の整備が決定」し、「ホテルの場所は道路の一部となるため、明治25年に立退きが命じられ、明治30年頃に廃業し」た(「三井住友トラスト不動産」HP)。しかし、建物は残っていたので、円滑にホテル業が廃業されたのではなかったようだ。

 25年8月27日付『読売新聞』は「東京ホテルの敗訴」を記事にして、「麹町区麹町三丁目東京ホテルの持主山村貞次郎」に京橋の左官請け負い人が起こした「左官工事請負代金280余円之訴訟」が原告人勝訴となったが、山村はこれを不当として東京控訴院に控訴した所、「またまた被告」左官請負人の勝訴となり、「昨今・・示談中」とある。このように、東京市区改正の動きがありつつも、建物解体にはまだ年月がかかるとみて、東京ホテルを改修し経営を続けようとしたが、その改修費用をめぐって山村貞次郎は敗訴したことになる。

 26年12月には、この東京ホテルは「今回千草峰なる者新たに持主になり、従来の弊を革め、和料理をも加へ、精々手軽に勉強する由にて、本日開業式とて内外紳士を招待するよし」(明治26日12月24日付『国民新聞』[『新聞集成明治編年史』第八巻])となる。東京ホテルは、料理上の弊害に上記のような敗訴もあって経営が行き詰まったのか、26年に千草峰に買収されて、「従来の弊を革め、和料理をも加へ」て開業するとしたのであろう。

 こうした「流動的」状況下で、東京ホテルのブラジル公使館転用の動きがでてきたりする。30年9月19日付『読売新聞』では、「新設南米伯剌西爾(ブラジル)共和国公使館は現東京ホテル跡に設置せらるる事と為り、同ホテルは近日閉鎖して引払う都合なり」とある。しかし、「明治時代の東京にあった外国公館(5)」(『外務省調査月報』2014年、No.2 )によると、 Goncalves Pereira 駐日公使は30年9月15日に信任され(『明治天皇紀』第九、382頁)、住所は赤坂区葵町3番地にしたとある。

 この様に「建物は道路整備が着工する頃まで残され」たので、明治31年日本倶楽部(会長岡部長職[元岸和田藩主、元外務次官、当時東京府知事]、副会長渋沢栄一・長岡護美)が創設され(一般社団法人日本倶楽部のHP)、33年まで日本倶楽部の「仮会館として使用」された(「三井住友トラスト不動産」HP)。現職東京府知事が会長の倶楽部が仮会館として利用できたというこは、その期限切れがほぼ解体時期だったということであろう。

 明治37年3月発行『東京明覧』にはこの東京ホテルはないから、この頃には東京ホテルは麹町からは撤去されたようだ。東京ホテル建物は解体され、現在の「日比谷交差点内の道路」となるのである(「三井住友トラスト不動産」HP)。従って、フィリピン国民的英雄リサールに関する日比谷公園内の碑の記述は不正確ということになる。

それでは、明治39年1月29日、箱根富士屋ホテルの山口仙之助が大日本ホテル同盟会開催の趣意書を東京ホテルにも発送している事(『日本ホテル略史』)、39年11月22日付『読売新聞』ではホテル同盟関係記事で東京ホテルが載っている事などをどうみればいいのか。それは、この頃に、日光中禅寺湖のレーキサイド・ホテルの所有者坂巻長太郎が、この頃後述の愛宕館を購入し、麹町東京ホテルの解体、東京ホテル名義の消滅を踏まえて、その愛宕館を東京ホテルと改称したという「東京ホテルの名義消滅と愛宕館による東京ホテル名義復活」という基本的事実に照応している。しかし、「それらの日時が不明」であるから、山口仙之助が両方に招待状を出したのは、@東京ホテルがこのような事態に推移していたことを知らなかったからか、A或いは招待状を出したレーキサイド・ホテルと東京ホテルの所有者が同一人物であったことにまだ気づいていなかったからであろう。因みに、39年2月11日名古屋ホテルでのホテル同業者懇親会にはレーキサイド・ホテルも東京ホテルも出席していなかったが、42年9月14日に帝国ホテルで開催された日本ホテル組合の臨時総会では21代表が出席し、東京ホテルはなく、レーキサイド・ホテル代表のみが出席している。45年3月ジャパン・ツーリスト・ビューローの創立総会には東京ホテル・レーキサイドホテル双方の社主として坂巻長太郎が出席している(『日本交通公社七十年史』日本交通交社、1982年、14頁)。 

 上記の「帝国ホテル前身の東京ホテル」や「日比谷門傍=日比谷大神宮前の東京ホテル」とは別に、後に麹町区にまた東京ホテルが建設されたようだ。大正5年9月2日付『読売新聞』には、「一日午後五時半頃、麹町区有楽町一の三東京ホテル階下四畳半の明室より出火」したが、家人が早期発見して「天井を三尺四方焼きたるのみにて直に消し止めた」とある。大正6年「The Yokohama Directory,Hotels in Japan[The Japan Directory,1917]」(国立公文書館所蔵)のHotels in Tokyoにも、Tokyo Hotelがあり、Near Hibiya Park,Tel 3487(Sinbashi)とある。

 セントラルホテル 一方、セントラルホテルは、仏国人ドゥトルリングが明治35年に京橋区新栄町に開業したもので、「木造二階建ての質素なる洋風家屋」で14室を備えていた(織田純一郎ら編編『東京明覧』集英堂、明治37年3月発行)。しかし、39年に、「祝砲の灰に罹りて此内更に一軒を減じて、未だ再築に至らず」(津田利八郎編『最近東京明覧』伝信館、明治40年4月、226−7頁)となる。この記述は正確ではなく、場所は、京橋区新栄町ではなく、築地居留地のあった京橋区築地明石町であり、火災原因は「祝砲の灰」ではなかったようだ。

 つまり、明治39年6月9日付『読売新聞』によると、39年6月7日午前零時40分頃、「京橋区築地明石町32番地セントラルホテル裏手より発火せしが、折しも東南の風ありて忽ち一面の猛火となり、同ホテル全部を焼失して、同一時十分鎮火したり。発火の原因は不明なれど、多分コック部屋より発火せしならんとて、目下取調中なり」とある。「発火の際は旅客6名ありて、孰れも早く避難し」て、無事であった。ホテル火災の原因は、コック部屋が少なくない。同ホテルは「仏人エンマン・ドットリングの所有」だが、「内部は二棟に分れ、一棟は英人ミス・サンマーの所有なるをドットリングが借受け、サンマーの所有の分は三万円の外国保険を付しあり」、「又タドットリング所有の家屋は同じく二万の保険が付しある由」であった。

 その後、中等外客対象の同名ホテルが再建され、関伊平が支配人を務めていた。43年12月13日付『読売新聞』の「ホテルめぐり」という記事に、記者が、「築地明石町の中央(セントラル)を訪う」と、支配人関伊平氏は愛想よく迎えて「当ホテルの多くは中等客ですが、一般に西洋人は日本の物価の高いのに驚いてい」て、「金は湯水のやうに遣ふなどということは殆どない、極堅い方」とする。そして、関は、「ここには21室しかないのですが、いつも大抵満員で、規模は小さいが営業としては成功している方」としている。明治44年12月18日付『読売新聞』では、「築地のセントラルホテルでは一月は二三日頃になって懇親会を開く、主人ウイリヤム氏は昨今その趣向に頭を頭を悩ましている」が、「外国人は日本人のやうに血眼になることはないらしい。お客を相手にホールの暖炉の傍へ椅子を引よせてトランプを楽しんでいる」とあるから、同名ホテル再建は、以前とは違う外国人によってなされていたようだ。
 
 メトロポールホテル このホテルは「二層楼にして装飾美と云うには非ざるも、一は自然の風光を弄し、其の設備も応接場を初めとして、玉突場に至るまで具備せざるなく、欧風旅舎として完全なる者」だったが、「ただ其の客数」は「少数」であった。室数は「六十」(これは20の誤り)にして、「常に外客輻輳し宿泊料も帝国ホテルに比すれば廉にて、一日五円乃至十五円にて営業、主は英国人ジョン・ホール氏(横浜在住の競売屋)」(津田利八郎編『最近東京明覧』伝信館、明治40年4月、228頁)であった。しかし、『日本ホテル略史』によると、38年に平塚延次郎がこれを買収して、資本金20万円の株式会社にした。

 この明治40年にこれは帝国ホテルに買収され、帝国ホテル築地支店となり、スイス人アレン・ホーフェルを支配人に登用した。一時は日露戦後の外客増加気運にのって、「おおいに繁昌」したが(村岡実『日本のホテル小史』中公新書、昭和56年、128頁)、やがて休業した。

 42年8月27日付『読売新聞』は、「メトロポールの開業」の記事で、「築地明石町のメトロポールホテルは暫く休業中の処、今般帝国ホテル常務取締兼支配人林愛作氏 監督の下に万事改善を加へ、来る9月1日より再開業をなすよし」と報じた。しかし、老朽化が顕著で廃業を余儀なくされたというが、同じ明石町にあった新築セントラル・ホテルが盛業であったように、これとの競争(共に20室の同規模ホテル)では劣勢であったという側面もあったであろう。

 精養軒 明治5年4月、北村重威(岩倉具視家臣地なった寺侍)が三条実美、岩倉具視の支援を受けて、「西洋料理の草分け」として、東京築地に精養軒を創業した(上野精養軒のHP)。しかし、築地精養軒は、開業日当日に大火に巻き込まれ「一日も営業することなく焼けてしまった」。明治6年、北村重威は「采女が原(明治2年以降、銀座煉瓦街と築地の外国人居留地との間で采女町と称する市街地となる)の払い下げ地に建坪200坪、客室12室の規模」で築地「精養軒ホテルを再建」した。明治9年6月7日付『読売新聞』によると、「築地の精養軒は客館(ホテル)の免許をいただき、近々に開業する」と報じている。西郷従道海軍大臣(明治18−22年)は、「世界各国との交際が必要な海軍士官に対し、教養とマナー」を身につけさせるために、「海軍士官は努めて築地精養軒の洋食を取るようにお触れ」を出した(村岡実『日本のホテル小史』中公新書、昭和56年、42−3頁)。22年2月8日付『読売新聞』によると、「来る11日憲法発布の節、午後七時より宮中に於て皇族大臣以下へ晩餐の饗応を給るに付、其御料理の調製を精養軒へ命ぜられ」ている。精養軒は、料理のうまさで、宮中行事にまで料理注文を受けた。

 一方、明治9年、上野には「精養軒支店」を開業した(上野精養軒のHP)。上野精養軒は、「明治23年の博覧会に際し、客室を増改築してベッドを搬入し、外国人用の宿泊設備を整え、ホテルとしても利用された」(村岡実『日本のホテル小史』44頁)。40年頃の精養軒について、『東京明覧』は、上野精養軒は東叡山の好風景のうちにあり、「我が国における洋風料理の神髄を以て有名なる築地精養軒の一家」であり、「宿泊する外国貴紳少なからず」(津田利八郎編『最近東京明覧』伝信館、明治40年4月、228頁)とする。「二層の洋館」で、「宿泊料は一等5円50銭、二等5円、会食は1円50銭以上需に応じ、朝食は1円、晩食料1円30銭」であり、「仕出しにも応ずる」としていた(津田利八郎編『最近東京明覧』伝信館、明治40年4月、228頁)。しかし、大正9年暴風で上野精養軒建物が大破した際に「ホテル部門を廃棄」して、「西洋料理の専門店」となった(村岡実『日本のホテル小史』44頁)。

 明治40年春に支配人妹尾が「欧米のホテル料理業を視察して帰朝」し、「万事改良を施し」、40年10月には、「予て工事中の大広場も今回落成した」ので、「此後は一時に二百人の宴会を三組までは差支なく、立食ならば優に千人以上を引受けるの設備をなし、其他球突、酒場、新聞縦覧所、喫煙室等をも改造」した。今後は、「ホテル部(客室、浴室、便所など)をも拡張し、来る大博覧会までには完成すべし」とした(40年10月21日付都新聞[『新聞集成明治編年史』第13巻、329頁])。

 42年には「築地精養軒の新館がドイツ人レッツルの設計で落成した」(外国人居留地比較研究グループ「ヤン・レツルについて」?[『ホテルレビュー』512号、日本ホテル協会、1993年1月)。44年5月4日付『読売新聞』は、この築地の精養軒ホテルを「最も進歩したる模範ホテル」と報じた。築地精養軒ホテルは、築地農商務省「大建築」と相対する「大きな洋館」であり、舞踏室には6−700人が入れて、寝室は50余室あり「今は季節で皆満員」である。「寝台等は総て独逸の物を使って室の様式は欧米の最新式に則ってい」た。主人北村重晶は「長日月を費やしても未だ室の普請中なのがあって全部落成しません」とし、内客にも留意して「日本人はホテルといふと非常に億劫がるやうですから、此点にも注意し二三人で一寸集まりになっても小さな室で御用を達れるやうにも致し」たとする。さらに「食事は朝が75銭、昼が1円30銭、夜が1円50銭といふ代で調理して居りますが、之はお客様が飛び込まれて直食堂に入られるやうにしてあります」と、工夫を披露した。

 その後、築地精養軒は、関東大震災で焼失すると、上野精養軒一店とした(村岡実『日本のホテル小史』43頁)。

 愛宕館 愛宕館は、明治22年1月に予算額2万5千円で「木造二階造りにて別に望見台ともいふべき高閣」として建設が構想され、11月に完成した(明治22年1月26日付付『読売新聞』、22年11月20日付『読売新聞』)。館名を「有限責任愛宕館」とし、「資本金2万5千円を250株1株10円にて五回隔月に払い込む事を議し」、選挙の結果で館長に山田忠兵衛、幹事に松山棟庵以下11人が当選した(22年12月7日付『読売新聞』)。

 こうして、当初は愛宕館の高塔に登ったり、洋食、和食(24年から)を提供する料亭であった。所が、26年11月10日に「東尾平太郎氏の発起にて昨日愛宕館において地価修正・地租軽減の両派代議士三十余名を会合して、種々協議」(26年11月10日付『読売新聞』)したりする頃から、愛宕館は政治結社の会合場所として利用されだした。そういう事もあってか、明治29年4月22日に株式会社愛宕館館長は農商務大臣に解散届を提出し(東京都公文書館所蔵)、29年5月1日に、館長は、株式会社愛宕館(木造二階建242坪、木造二階建て58坪、煉瓦五階建坪18坪、木造平家30坪余)の入札広告を『読売新聞』に出した。

 新所有者は、ここをホテル兼料亭にしたようだ、所有者は、明治35年4月27日付『読売新聞』に「ホテル愛宕館」広告を出し、「楼は愛宕公園幽翠の高処にありて館内の装飾は西洋風にして鮮麗善美を極む、別に優美なる日本風の座敷大小数多あり」、「閑静の宿泊、又は晩餐集会等、自由軽便にして待遇丁寧、料理は和洋 望に随ひ、熟練の包丁を使用して低廉を主とす」とした。

 その後、日光中禅寺湖のレーキサイド・ホテルの所有者坂巻長太郎(「米国でホテル業を学び、帰国後に「金谷カテッジ・イン」の通訳兼支配人とな」る[「ザ・リッツ・カールトン日光」2020年5月22日付『下野新聞』])がこの愛宕館を購入して、東京ホテルと改称した。38年には、The Japan Directory(1905年版)では、ホテル愛宕館はTokio Hotelとなっている。40年刊の『東京明覧』では、、東京ホテルは「土地高燥にして眺望の佳なるは帝都に其の比を見ず」とされ、「宿泊料は一等7円、2等5円、3等4円」で、来客者には「朝食70銭、昼食80銭、晩食1円」(津田利八郎編『最近東京明覧』伝信館、明治40年4月、229頁)とされていた。

 41年10月17日、ハーバード大学史学科部長ハート博士は、「芝愛宕東京ホテルに投宿し」(41年10月20日付『読売新聞』)ている。富士山、東京湾も一望できるとして、外国人には人気があったのかもしれない。

 諸費用 37年『東京明覧』によると、各ホテルの宿泊費、食事費は、帝国ホテルは宿泊上等12円、中等7−8円、下等6円、宿泊外朝食1円、昼食1円50銭、晩食1円50銭、集会等は1人前2−10円、精養軒は宿泊上等4円50銭、中等3円50銭、愛宕館は宿泊1等7円、2等5円、3等4円であり、帝国ホテルの宿泊費が一番高い。

 旅人宿 東京市内の「旅館の総数は5百余軒」で、「東京旅人宿組合に加入せる者176軒」、「電話に加入せる者350軒」であった。旅館数の最多は日本橋区で、京橋区、芝区、神田区、下谷区」(津田利八郎編『最近東京明覧』伝信館、明治40年4月、229頁)がこれに続いた。

 宿泊費は上等旅館3−2円、中等旅館2円50銭ー90銭、下等旅館60銭ー35銭であった(津田利八郎編『最近東京明覧』伝信館、明治40年4月、229頁)。従来の旅館の宿泊費は、上等でも、上記ホテルの下等よりも低いものであった。


                                ロ 京都

 京都では、「避暑、避寒の地でないこと」、洋式より「豪華な内装と庭園、伝統を誇る和風旅館の方が外国人を吸引する力を備えていたこと」から、明治8年に大津の開化楼(明治4年開業)が廃業して病院になったり、明治20年に自由亭という洋室20の洋風ホテル(明治10年神戸で温泉付割烹旅館で成功した前田又吉が開業)が廃業した(村岡実『日本のホテル小史』97頁)。京都では、ただ洋式ホテルをつくれば、外国人観光客を満足させるという訳にはゆかなかった。芸術、文化面での伝統の荘厳さが何よりも重要だったのであり、まさに京都では和洋のバランスの妙が求められたのである。

 也阿彌ホテル 也阿彌(ヤアミ)は元来時宗安養寺の6塔頭(既に江戸時代には料理茶屋に貸して「遊楽酒宴の宿」春阿彌、連阿彌、重阿彌、也阿彌、左阿彌、正阿彌に変化)の一つであり、明治10年代に長崎の外国人ガイド井上万吉が、「也阿弥」を買収して、「也阿彌ホテル」を開いた事に始まるようだ(「京都ホテルグループ」HPなど)。万吉は、日本座敷を40の洋室に改造し、各室をカーテンで区切り、石油ランプを使用した。「安宿ふうのホテル」で、一泊三食3円(庭園側)・2円50銭(内側の部屋)と手頃であったのか、「繁盛」した(村岡実『日本のホテル小史』98−9頁)。

 その後、西洋料理がおいしく繁盛し、利益をホテル改善に投資して、外国人が称賛するホテルに改築されていったようだ。即ち、18年、フランス海軍軍人ピエール・ロチ(Pierre Loti)は、也阿弥ホテルの料理は「極めて正確なイギリス流」だとする(村上菊一郎ら訳『秋の日本』[木村吾郎『日本のホテル産業100年史』明石書店、2006年、205頁])。19年「隣接の連阿弥、重阿弥」、26年正阿弥を買収し、25年には「洋館を増築」した。25−6年頃に也阿弥に宿泊した英国陸軍少将レヴリイ・ミットフォード(Rveley Mitford)によれば、「管理のゆきとどいた豪華な玄関」をもち、宿泊した「日本の普通の旅館」に比べ「快適」であり、離れの建物は「磨き立てられ」、「贅沢な寝台、椅子、テーブル、洗面台」を備えていた(ヒュー・コータッツイ、中須賀哲郎訳『維新の港の英人たち』[木村吾郎『日本のホテル産業100年史』明石書店、2006年、206頁])。

 この改善には競争も作用したようだ。21年に競争相手として常盤ホテル(木造洋風ホテルの自由亭の改号したもの)が登場し、それは、明治24年5月には露国皇太子宿泊所となり、遭難時には明治天皇臨御した有力ホテルとなった。たから、双方は高い維持費を捻出するために、少ない外客、限られた内客をめぐってはげしく競争し、生きぬいたようだ。

 明治27年には、也阿彌ホテルは、三井銀行京都支店支配人小野友次郎から「京都河原町の常盤ホテル」の購入を打診される。この常盤ホテルの経営は実は苦しく、「三井銀行より五万三千八百円を借財し、同建築物及び地所を抵当として漸く一時を支えし」が、期限の都度に猶予を繰り返し、三井銀行京都支配人小野友次郎は27年2月27日最終期限証書を取り交わしたが、常盤ホテルがさらに二年猶予を乞うたので、小野がこれを拒絶した。そこで、常盤側は「右請求(支払い猶予)の訴訟」を起す」と、小野は、これに対抗して、「即座に執達吏を差し向け、同ホテル及び二条樋(ひ)の口なる常盤館に対し、強制執行をな」したのである。

 この時、すでに三井銀行支配人小野は「同ホテルを丸山也阿彌楼主人に売却するの約を為し、四千円の手付金を取り」、期限までに常盤側が返済できぬときはこの四千円を「涙金として・・(常盤ホテルを)渡さんとの契約」をした。也阿彌ホテル側は「全く此ホテルを買はんとするには非ず。全く常盤ホテルありては、自家へ良客を引くこと能はざるより、四千円にて常盤ホテルを買潰さんとの目的なりし由」であった。実際には也阿彌楼は5万3500円での常盤ホテル購入を三井に打診したようだが、三井銀行側があくまで「涙金」での経営権譲渡に固執したようだ。ついに常盤側は三井を介して也阿彌ホテルに経営権を譲渡し、三井は「今日にては、ややその目的を達し」、「兎に角、近来稀なる大強制執行」(明治27年3月11日付『読売新聞』)であった。暫時三井が常盤ホテルの土地建物の所有権を持ちつつ、常盤ホテル経営は也阿彌に任せるということであろう。

 京都ホテル その後、前田家(常盤ホテル側)、三井銀行、也阿彌との間に「示談が成立」して、也阿彌の井上万吉・喜太郎兄弟が「常盤ホテル」を買収した。弟の井上喜太郎が、常盤ホテルを改修して京都ホテルと改名し、28年3月に営業再開した(「京都ホテルグループ」HPなど)。その京都ホテルの動向を明治39年5月11日東京朝日新聞「外客と京都」で見ると、後述のような日露戦勝の外客増加ブームの中で、「外客は多く英米独露の官吏軍人」で、「昨今外客稍減少の気味なれど、尚都ホテルには96名、京都ホテルには70余名之逗留せるあり。焼失せし也阿彌ホテル(次述)は目下正阿彌にて営業し投宿者二人あり」と、京都の外客用ホテルは三軒のみで、故に「神戸より入洛の外人日帰りに往復するもの多し」という状況であった。これに対して、「京都ホテルにては新たに邸内の日本家屋を修理して客室に充て、都ホテルは華頂山麓に一大新館を建築しつつあ」った。その後、京都ホテルは、昭和2年でも井上一族が大株主としての位置を維持し(「株式会社京都ホテル」HP)、「駅前に京都ステーション・ホテルを建設し、支店」とし、昭和4年にこれを分離独立させ、竹上藤二郎に任せた(村岡実『日本のホテル小史』99頁)。因みに、現在の京都ホテル大株主の上位十社に井上一族は入っていない。

 一方、以後の也阿彌ホテルは、33年に焼失し、35年のホテル再建となった。つまり、35年4月14日付『大阪朝日新聞』(『新聞集成明治編年史』第十一巻)によると、「京都円山公園に建築中たりし也阿弥ホテルは、此程竣成したるを以て、一昨日盛んなる竣成式を挙行した」。しかし、39年4月にまた焼失した。39年4月19日付『東京朝日』(『新聞集成明治編年史第十三巻)によれば、「京都円山の一名物たる平野屋を失ひて未だ幾ばくもあらざるに、昨夜又復同地に有名なる也阿弥ホテルより出火し、忽ちにして巍々たる同ホテルの新館並びに五階楼の円山温泉楼に延焼し」、「同ホテルに滞在中の外国人76名」は逃げたが、「外国婦人二名の行方明らかならず」とある。39年4月20日付『読売新聞』の「也阿彌ホテル焼失詳報」によると、「昨十七日午後十一時三十分またも同地の大建物たる也阿彌ホテルより出火し、其第一楼及び第二第三楼を始めとして付近の四階建円山温泉を焼失」し、社長大沢善助の損害高十五万円なりとする。経営者は丸山から大沢に代わっている(明治45年6月7日付『東京朝日新聞』『新聞集成明治編年史第14巻)。

 以後、@京都市参事会は也阿弥に、復旧再建条件として「全館煉瓦作り出不燃構造」しなければ「官有地であった用地の借用延長は認め」られないとした事、Aそれには「50万円の資金が必要」だったが調達できず、41年京都市は也阿弥に用地の返還を命じ、ここに、「復興再建の望みが断たれ」、也阿弥は廃業した(『都ホテル100年史』[木村吾郎『日本のホテル産業100年史』明石書店、2006年、206頁])。

 その後、也阿彌側では、「株式会社の組織を変更して個人経営となし、昨年(44年)十一月現持主なる大阪市・・石田金次郎が五千円にて譲り受け、更に経営の都合上17万円の株式組織となし、来る八日頃より建物の取壊しに着手する筈」という動きがあったが、45年6月5日に焼失したのである。当時のホテル買収方法は、数千円の「涙金」で経営権を取得し、株式募集して土地財産を取得して、その株券を売却すれば数倍以上の利益になったようだ。経営者が頻繁に変わるのは、ホテル経営にはこうした一時的利得があったからであるようだ。しかも、今回は火災保険が「浪速火災に五千円、日本火災に七万円を付」(明治45年6月7日付『東京朝日新聞』『新聞集成明治編年史第14巻)されていて、新聞は言外に火災保険目当ての火災の可能性をほのめかした。

 結局、唯一左阿弥のみが料亭として残った(「料亭左阿彌」のHP)。

 都ホテル 明治26年、「京都の油商・西村仁作の長男、西村仁兵衛が、河原町の天主教会宣教師マブローの勧め京都東山華頂山麓に吉水園を・・開業」し、「宣教師などの外国人を宿泊させていた」。その後、京都市議梶原伊三郎が西村に、「将来の外国人客増加を見越して・・本格的なホテルを建設するよう」進言した。そこで、31年3月、西村は、「洋室23室、和室5室、別館の八景館10室、御城館8室の計46室」を備えたホテルに増改築して、都ホテルと改名した(村岡実『日本のホテル小史』135頁)。

 都ホテルは「目をみはる」発展をとげ、36年には、「新館14室を増築」し、「京都初の外国人用インフォーメーション・ビューローをホテル内に設置」し、「英文の京都案内」書を作成した。さらに、西村は、「関西各地に散在する観光地ホテルとの間で相互送客して協力し合うのが得策」として、明治40年、有馬ホテル(有馬温泉、大阪の藤本清兵衛所有)、五二会ホテル(宇治山田、伊藤伝七所有)、奈良ホテル(奈良市に建設中)の三ホテルを買収して「都ホテルと合併」させ、明治40年大日本ホテル株式会社を設立した(村岡実『日本のホテル小史』136頁)。

 明治45年の大日本ホテル株式会社の現況をみると、「京都に本店を置き、都、大仏の両ホテル及有馬ホテル、奈良ホテル、伊勢山田の五二会ホテル等を経営なし居る資本金二百万円(内払込百万円)の同ホテル会社現在の所有敷地は、都ホテル約二万坪(建物2215坪)、五二会約二万坪(建物984坪)、有馬千五百坪(建物370坪)余にして、奈良ホテルは政府より、大仏ホテルは京都の伊藤氏より、何れも十ヶ年の契約にて借入れ、総客室は千余の旅客を収容する設備整頓し、会社は資本金の外現在40万円の利益あり」と、着実に利益をあげていた。そして、「年々観光外人数の増加し、今春の如きは一日平均百余名の旅客を収容し、引続き盛況を呈し居り」とした。今回新たに「京都都ホテル内に都物産部を設け、内外各商品の依託販売を開始」(明治45年5月19日付大阪毎日新聞「大日本ホテル=現況」)して、新機軸の追求も怠らなかった。。

 大正4年、日本生命が大日本ホテルを買収して、都ホテル株式会社に改名し、社長に片岡直温(日本生命社長、後に蔵相)が就任した(村岡実『日本のホテル小史』136頁)。

                            ハ 大阪

 大阪ホテル 明治32年9月、大阪実業人外山脩造らが中之島の自由亭ホテルを買収し、大阪倶楽部ホテルと改称して、大塚卯三郎を支配人とした(141頁)。しかし、34年に火災で焼失するが、35年8月「木造、外壁コンクリート塗り」の大阪ホテル(洋室客室30)として再開した。大阪ホテルは、36年3−7月の第五回内国勧業博覧会の大阪開催で、「博覧会会場の一角に出張所を設け・・食堂を経営」し、「新聞、雑誌等に派手な広告を載せ」、「一躍有名」になった(村岡実『日本のホテル小史』141−2頁)。

 明治39年、大阪市は大阪ホテル社長田辺貞吉から購入して、入札で大島徳蔵に年間賃貸料千円で落札した。大島は、「更に競売に付し」、大塚卯三郎(元大阪倶楽部ホテルの初代支配人)に「十年賦払いを条件に4万円」で譲渡した。大島は年間千円を大阪市に払い、4千円を大塚から受取り、差引3千円の収益を確保した。しかし、以後「大阪ホテルは経営が思わしくなかった」ようで、年賦金支払いが途絶えたか、大正元年に資本金20万円の株式会社に改組し、社長に大島が返り咲いた。以後大阪ホテルの経営は「しばし安定」し、大正7年に「中之島に竣工した中央公会堂の地下食堂を年間2万4千円で賃借してレストランを開いたり」、8年には「名古屋ホテルを買収して名古屋支店」とした(村岡実『日本のホテル小史』143頁)。

 大正8年12月、下郷伝平は大阪ホテルを買収し、「大阪ホテルを100万円に増資」し、「今橋ホテル(8年建設)を大阪ホテルに吸収合併」し、資本金300万とした。しかし、大正13年大阪ホテルは火災で全焼したので、「以後、今橋ホテルを大阪ホテルと改称して、ここに主力を注ぐこととなる」。昭和16年に、この大阪ホテルは、大和紡績に売却された(村岡実『日本のホテル小史』143−4頁)。

                            二 名古屋

 名古屋ホテル 明治27年4月、高田金七は「来名する外国人旅行客目当てに名古屋竪三歳町一丁目八番地の自分の所有地約900坪に英国式ゴシック木造五階建の西洋館を建設」し名古屋ホテルとして開業し、長男高田鉄次郎に経営させた(140頁)。大正8年3月8日、「大阪ホテルに土地、建物、家具什器備品の一切を買収」され、以後「名古屋ホテルは、実質的には大阪ホテルの名古屋支店のような形」になった(村岡実『日本のホテル小史』140−1頁)。

                             ホ 奈良 

  大都市ではないが、古代の皇都奈良にも外国人観光客が少しながら訪れだしたが、外客用のホテルはなかった。つまり、明治21年頃、「奈良は名勝旧蹟に富みたる土地なれば、内外貴顕紳士の遊覧するもの常に多きにも拘らず、宿すべきの旅店とてなし。偶々之あるも狭隘にして、多数の来客を満足せしむる能はざるは遺憾なり」という状態であった。そこで、「大阪府下第百三十四国立銀行の重役諸氏が建築費二万円を以て古風なる御殿造の二階家を建築し、内外部とも木地の儘を使用して塗抹粉飾せず、且つ室内には日本美術品を沢山蒐集する目論見」(明治21年7月22日付『時事新報』[『新聞集成明治編年史』第七巻])となっている。
 
 明治40年、建設中の奈良ホテルは都ホテル社長西村仁兵衛に買収されたが、42年に西村は「関西鉄道に融資を仰いで、当時の金で50万円にのぼる巨費を投じて」奈良ホテルを完成させた。客室52室を備えた「総檜造の二階建」の「幽玄、典雅」で「豪華な建物」であった(村岡実『日本のホテル小史』137頁)。

                     三 地方避暑ホテル 

 こうして居留地・大都市などにホテルが建設され、外客が増加してくると、日本の夏の蒸し暑さをさける避暑地にホテルが造られだした。例えば、日光(明治6年金谷カテッジ・イン、20年金谷カテッジ・イン増築、26年金谷ホテル。明治16年レーキサイド・ホテル。明治25年新井ホテル、27年増築、30年日光ホテル買収)、箱根(明治11年500年続く旅館藤屋を富士屋ホテルに改修。すでに早くから「規程」の除外地扱い。17−26年増築・本館新築)、軽井沢(明治27年亀屋旅館を洋風に改装、29年万平ホテルに改称、35年移転して新築。32年軽井沢ホテル。39年三笠ホテル開業)、雲仙(明治25年緑屋ホテル、以後雲仙ホテル、高来ホテル、新湯ホテル新築)などには外国人向けホテルが建設された。金谷ホテルは、明治23年8月の「日本鉄道会社の日光線」全通で外国人需要が増加したことを背景としていた(木村吾郎「日本のホテル産業史論」)。

                        イ 日光 

 日光の人気化 明治4年にヘップバーン(J.C.Hepburn)は「東照宮の美観と日光の風物を慕って日光に来た」のであった。6年にはヘップバーン夫妻が日光を訪れ、金谷善一郎(日光東照宮の楽人)に、今後日光廟と「夏涼しい」事を求めて日光を訪れる外国人が増加するから、「部屋を提供して家計の補い」にすることを提案した(村岡実『日本のホテル小史』79頁)。明治4年、「日光に近い栃木県鉢石町に鈴木喜惣次」が「民家を簡単に改修」して『鈴木ホテル』を開業した(村岡実『日本のホテル小史』899頁)。

 外国人には、このように日光は人気があったが、日本人には余り人気はなかったようだ。明治11年8月11日付『読売新聞』には、「此ごろ日光より帰った人の話しに、今年は男体山へ女が登れる様になったので夫婦連れの田舎道者が多く、温泉には西洋人が多く、華厳の瀧は瀧壷まで見える様に道をつけ、寂光と含滿は見る影もなく荒れ果て、日光の御廟は三十三銭五厘の案内賃を出せば何処から何処まで残る所なく見物が出来、此地は快晴の日が少なく雨が降なければ大霧で、一日の中に気候が替るゆえ体の為には余りよくなく、東京の人などの四五日も温泉へ逗留すると、夜は狼の吼声に怖れ、昼は退屈を慰める新聞紙もない程ゆえ早々帰る人が多い」としている。「荒れ果て」とか「体によくない」とか「狼の吼声」とか、この記事を読めば、日本人はますます日光に行きたいという気持ちは失せたであろう。

 金谷ホテル 明治6年6月、金谷善一郎はヘップバーンの指導で「田母沢御用邸(皇太子時代の大正天皇の静養所として造営された旧御用邸)近くの四軒町にありし自宅および隣りの家屋を借り集め」て金谷カッテイジ・インを開業した(村岡実『日本のホテル小史』79頁)。先行の鈴木ホテルは、この金谷カッテイジ・インとの競争に敗れ、15、6年に閉鎖した(村岡実『日本のホテル小史』89頁)。

 7年、パークス駐日英国公使(明治3年に外国人として最初に日光を訪問していた)、バラ神学博士夫妻が金谷宅を「ホテルの代用」として使い始め、以後も「諸外国のお雇い外国人や駐日公使館、領事館の人々」が来るようになり、「金谷の四軒町の屋敷では手狭」になり近所の各家の「空き部屋を借り上げて」彼らに提供し、金谷ホテル誕生のきっかけとなった(金谷真一『ホテルと共に七十五年』[村岡実『日本のホテル小史』79−80頁])。明治9年には、ベルツは、東京から日光まで「人力車でまる三日か」(ドク・ベルツ編、菅沼竜太郎訳『ベルツの日記』第二部上、岩波文庫、昭和37年、115頁)けて日光を訪れていた。

 明治14年版『マレー・ハンドブック』は日光の旅館について「鈴木旅館、小西旅館、金谷喜一(善一郎)」の三軒があげられている。金谷家の場合、余っている部屋の夏季二ヶ月を90円で貸付けていた(当初は食事なしだったが14年頃から洋食をだすようになる)(村岡実『日本のホテル小史』86−7頁)。

 日光ホテル 21年9月30日に、日光ホテルが、「内外貴顕紳士の来遊に供する為め、日光に建築」され、「開館式を挙行」した。式には「樺山栃木県知事、郡長を初め、各官吏及び東京横浜より来りし内外の紳士数十名」が招待された。「ホテルの建築は中々壮観にて来賓の人々は何れも賞賛し、既に同日より来泊を申し込みたる外国人も少からざ」る状況であった。」同館の監督は加藤昇一郎(県会議員)、相談役は福島宜三、小林徳松の諸氏にて、開館当日も専ら此人々にて周旋」(明治21年10月4日付『郵便報知』[『新聞集成明治編年史』第七巻])した。

 新井ホテル 日光では短期滞在者が中心だったが、個人的に家を避暑用に借り入れる者があり、それをホテルに改築する者も出始めた。例えば、日光入町の新井館は「飲水の如きも他に匹敵なき善良なるものなるが上に、高燥なる所に位し居れば、空気の流通殊の外宜しく庭内には花園噴水池、瀑布等あり。前には大谷川を隔てて巒峰の緑を望み、後ろには御堂山の鬱蒼たる森林を控え実に絶景な」ることとから、24年夏には「英人プリンクリー氏などにも貸し与へたる事もあり」、25年「或る有力なる資本家は此度外人の勧めにより、日光に新井ホテルといふを設立した」(明治25年4月8日付『読売新聞』)のであった。

 新井ホテルは、27年には「スプリング・ベッドを輸入」し、30年には日光ホテルを買収し、「主力を日光ホテルに移し、新井ホテルは分館として夏季のみ営業」し、日光ホテルと改名した。大正12年に解散し、翌13年から「新経営者高橋常次郎と支配人新井信夫の手で運営」されたが、同14年1月に火災で焼失した(村岡実『日本のホテル小史』138頁)。

 25年の人気化 25年には、1月から6月上旬まで、登光外人凡そ770余人に及んだ。「是までの登晃外人は大概見物に来りしもののみ」で滞在者は少なかったが、「四五日前より山内西町辺へは二三組之外国人避暑の為め二ヶ月間以上滞留の見込みにて借家しはじめたる由」であった。また、「同町にて西洋人の宿泊し得る旅舎は日光ホテル、金谷ホテル、新井ホテル、山角ホテル等あり」、「日光ホテルは目下毎日平均二十人より三十人の宿泊あり。金谷ホテルも之に次いで相応に客あれど」、新井ホテルは「本年開業の新店なれば広告の為め非常の勉強を以て各県下外人の往復する土地へは夫々人を派して客引を為す筈」であり、「東町の山角ホテルは最も古代にして外人の日光に来初たる頃より営業し居る由にて眺望絶佳なるホテルなり」とする。この他、「通常の旅舎は小西屋神山を初めとして多々あれども小西屋の如きは昨今毎夜五六百人の宿泊人あるに付 狭隘を感ずるより一層風景の佳き地を撰みて建築中なれば、近き内に落成すべし」(明治25年6月13日付『読売新聞』)とされた。

 こうした外客増加傾向に対応して、25年、金谷家は、上鉢石町の「未完成の三角(みかど)ホテル」を買い取り、完成させ、26年に「日光金谷ホテル」として開業し、「積年の夢を実現」した。以後も順調に発展し、29年日本館1館(客室10室増設)、31年洋館1棟(客室6室)、35年客室12室・大食堂増設して、「欧米名士に広く愛され」(村岡実『日本のホテル小史』88頁)、「その後も、別館(昭和10年)、第二新館(昭和36年)の増築、開業当初の趣を残しながらも近代的ホテルとして今日に至ってい」(「金谷ホテル」のHP)る。

 日光鉄道 明治19年10月に、日光鉄道敷設は、「今度政府に於て公然認可せられ、已に下測量も済みたるを以て、栃木県知事樺山氏は此程書記官、土木課長、属官等を率い、安生上都賀郡長並に同鉄道の発起人を案内として、線路を検分せられし」(明治19年10月16日朝野新聞「各地鉄道状況」[『新聞集成明治編年史』6巻、341頁])こととなる。

 その後、明治23年6月には宇都宮駅ー今市駅間が開通し、同年8月には日光駅まで全通し、上野から日光まで鉄道でゆけるようになった。これを受けて、25年7月には、日光鉄道会社が日帰り日光回遊券を販売した。「日本鉄道会社にては今三日を以て銀行諸会社員を限りて第一回日光回遊列車を発する筈なるが、尚ほ来る十日(日曜日)を以て申込人三百人に満つるを以て第二回回遊列車を仕立、今回は諸官吏へ案内せしが人員は四百人を限り、余員は申込みの順序により断る由なり。此列車は当日午前五時に発し九時二十分日光着、午後六時日光発同十時十分上野着にて、矢張り日帰りを主としたる者なれども、切符期限は五日間通用なれば滞在も勝手に出来得べし。尤も此の切符は通常列車に対しては下等にのみ適用する者なれども、相当の増賃さへ出さば上中等に乗込むことを得る由なり」(明治25年7月3日付毎日新聞「日光見物回遊列車」[『新聞集成明治編年史』8巻、271頁])とした。日光日帰りは日光ホテル・旅館業者に大きな打撃を与えるから、回遊券に「滞在も可能」な余地を残していた。この回遊券販売もまた日光人気化の一因であった。

 米国コレラ問題 この25年に日光が人気化した背景の一つには、米国でのコレラ避難という側面もあったようだ。このことは、明治25年10月30日付『読売新聞』に、@「近来外人の我邦に渡来するもの便船毎に多く横浜グランドホテル及び東京山下町帝国ホテルの如きは目下明間亡き繁盛」であり、Aさらに「高燥地之邸宅を借受ヶ住居せんとて尋ね回るものあれども、家主は家賃一ヶ月五十円位のものも外国人と見れば俄かに百円位に引上ぐるを以て、兎角相談纏まらず、已むを得ず皆ホテルに投宿するという」状況であり、B「かく昨今外国貴賓の来遊あるは、米国にコレラ病発生し、追々蔓延の兆あるより、此四五ヶ月間、之を避けん為めなり」とあることから確認される。これは、1892年に、ニューヨークで移民がコレラをもたらしたしたとして暴動が起きていた事などをさすのであろう。「急増するドイツ経由でアメリカに向かうロシア人移民」によって1982年に「コレラが大流行し、ハンブルク港で多くの感染者を出し」(下斗米秀之「世紀転換期アメリカの入国管理政策」『敬愛大学研究論集』87、2015年6月)、そのコレラ感染移民がアメリカに流入していたで、暴動の原因となったのである。

 明治27年7月25日に日本連合艦隊が豊島西南沖で清国軍艦と交戦し、日清戦争が始ると、日光は清国スパイの拠点になる事もあった。すると、27年8月28日付『読売新聞』は、「清国政府の間諜を勤むる支那人某及び某外国人両名は売国奴一名を同伴して日光に赴き、目下同地なる金谷ホテルに滞留し、一行中交々出でて、屡々東都に往復しつつ、頻りに我国の動静を偵察中なり」と報じている。

 大富豪漫遊 そして、明治32年8月には、「世界の富豪番付」によると、アメリカで石油業「ゼイ・ロックフェラー」(5億円)、鋼鉄商カルネギイ(2.5億円)についで3番目の大富豪、鉄道業ヴァンダービルト(資産高2億円)が日光を訪問している(38年5月19日付『報知新聞』[『新聞集成明治編年史』第十二巻])。この「米国の富豪ヴァンダービルド( (Vanderbilt))氏の一行は、本邦漫遊の後は亜弗利加(アフリカ)地方に赴き、夫より欧州に赴く予定なり」(32年8月25日付『東京日日新聞』[『新聞集成明治編年史』第十巻])という。世界的富豪が、日本の名勝地を世界旅行の一環に組み込み始めていることが確認される。

 明治41年5月18日には「印度王」が日光を訪問し、金谷ホテルに宿泊する。「印度王」(明治39年12月インド王族カイクワード王が京都ホテルに滞在)は「京都、奈良、東京と見物して廻って、大に満足し」、「更に日光を観れば此上もなく結構たらうと、王妃王女を随へて十八日午前九時十分上野停車場を立った。一昨日から国賓と云ふので、乗車も「御召車」の木札を懸けた一二等連結の特別列車王妃王女とイムメタ博士は、後部の一等車に、其の他は前方の二等車に席を取る。午後二時日光着、金谷ホテルの部屋割、其他が済んで三時半一行は霊廟見物に出掛る。大谷の清流に架した朱塗りの神棚のあたりから、王も王妃ソロソロ結構になりかける。社前の石段前で車を下りてアトは徒歩、杉の並木の昼尚暗き坂道を上って、三仏堂より双輪塔を過ぎ、悠々東照宮の大鳥居を潜って、陽明門の美観に驚き、高御座より二百何十階の石段を登りて奥の院に御参拝、更に三代将軍の霊廟に廻って、尋常では拝観相許されざる錦襴巻の柱が列んで、欄間の彫刻 眼を眩ずる内々陣の見物までも済まして、再びホテルに御帰館ありしは五時半頃」(5月20日東京朝日新聞の日光特派員[『新聞集成明治編年史』14巻、255頁])であった。

 ベルツの評価 明治37年7月5日には、日光好きのドイツ人医師ベルツが「六時間の汽車旅行」で訪れる(ドク・ベルツ編、菅沼竜太郎訳『ベルツの日記』第二部上、岩波文庫、昭和37年、115頁)。ベルツは日光に約一ヶ月滞在し、金谷ホテル、中禅寺湖レーキサイド・ホテル、湯元村などに宿泊しているようだ。ベルツは、自然重視で顔見知りばかりの慣れ合い別荘生活は避けているようだ。

 彼は、華厳の滝について、「スイスのどの瀧よりも感心させられ」、「自分が世界中で一番美しい瀧だと思うアメリカの国立公園イェローストーンの瀧の気分を、まあ幾分出しているにすぎない」(ドク・ベルツ編、菅沼竜太郎訳『ベルツの日記』第二部上、岩波文庫、昭和37年、118頁)とする。中禅寺湖畔の「レーキサイド・ホテルが、絶好の位置を占めて存在」し、「湖水の南岸と西岸は、半日本式に住心地のよさそうな建方の家屋でにぎわっており、外交官や、その他在京外人のお歴々が、これらの家屋で夏の間を過ごす」(ドク・ベルツ編、菅沼竜太郎訳『ベルツの日記』第二部上、岩波文庫、昭和37年、119頁)。総じて、ベルツは、日光の自然は「神秘的」で「神々しいばかりの崇高な感に打たれ」るとする(37年10月23日の項[ドク・ベルツ編、菅沼竜太郎訳『ベルツの日記』第二部下、岩波文庫、昭和37年、11頁])。

 東武の日光進出 明治27年、日光レーキサイド・ホテルは、「日光中禅寺湖畔に開業」し、後に「東武鉄道系の日光レークサイド・ホテル」となる(村岡実『日本のホテル小史』138頁)。

  明治28年、発起人川崎八右衛門他11人は「東京市本所区から栃木県足利町まで83.7kmの鉄道敷設を申請」した(東武HP)。以後、東武は北関東に鉄道網を張り巡らし、「東武日光線による日光乗り入れを宿願」とし、昭和4年10月には東武鉄道の日光線を全線複線電化で全通させた(山下ルミコ『東武伊勢崎・日光線』彩流社、2014年)。「省営鉄道はSLでの運行だったためスピードが遅く、車内が煙たくなることもマイナスに働き」、東武日光線は「乗客から絶大な人気を得た」(『東武鉄道のすべて』「旅と鉄道」編集部編、2019年、142−3頁)。

 現在、日光はこの東武を介して国際ホテル資本の「荒波」に巻き込まれ始めた。まず、平成28年(2016年)8月に東武グループは金谷ホテルを編入した。次いで、同年11月、東武鉄道とマリオット・インターナショナルは、日光レークサイド・ホテルを廃館にして、新たにマリオット・インターナシこのリッツ・カールトン(1905年アメリカでリッツ・カールトン・マネッジメント・カンパニー設立。既に大阪、東京、沖縄、京都に進出)は、従業員のみならずホテル周辺住民も大事にし最高級設備と最高級人材が好不況に関係なく顧客を引き付ける、極めて日本的な「超高級ホテル」である(井上理江ら『リッツ・カールトン物語』日経BP、2007年)。ョナルの「ザ・リッツ・カールトン日光」を2020年夏に開業することで合意し、契約を締結したと発表したのである(2016年11月7日付「トラべルWatch」など)。

                              箱根 

 この日光に劣らず、箱根は富士山に近い湯治場として外国人の間で人気が高かった。東京ー横浜間鉄道の敷設以前は、小田原まで米国製駅馬車で行き、そこからは人力車に乗った(村岡実『日本のホテル小史』90頁)。
 
 奈良屋ホテル 幕末維新期、「箱根宮之下と底倉」には藤屋勘右衛門、奈良屋兵治など九軒の「湯治客のための宿」があり、「欧米人の旅行者の大半が奈良屋に投宿」した。慶応3年、奈良屋旅館が奈良屋ホテルと改号して「外国人用の設備を強化し、欧米人を宿泊させる」ようになった」。奈良屋は、明治20年頃には、「美を尽くして風雅」な建物を造り、「湯槽は三囲(みめぐり)に分ち、そばに湯瀑を設け」、「岸上に洋館新築し、浴客数百を容るべきものとなり、「洋人多くきたるゆえ、和洋と区別」した(上田文斎『日本名所図会』明治22年刊[村岡実『日本のホテル小史』90頁])。

 明治5年7月には、皇后が箱根宮の下へ行啓し、「同所七湯毎戸金二百疋宛下賜り候、御旅館は奈良屋吉次方也。同人へ金二百五十両、其外客差止候に付金五十両、別段金五百疋下賜」した。この塔の沢奈良屋庭に瀧があり、「横浜吉原金之と云ふ者の小児二才の男子、下婢に被負、右瀧の湯に参り候折柄、皇后宮御潜行、小児を被召、品々下賜、其後御旅館へ度々被召、翫弄物等下賜」した。湯治にきた幼児の病状と湯治の効用に関心があったのであろう(明治5年7月20日付東京日日新聞(『新聞集成明治編年史』第一巻、479頁)「皇后宮箱根御湯治」)。皇后が行啓して湯治効用を尋ねるほど、宮ノ下の奈良屋は突出した名声をもっていたのであろう。皇后はここに二十日間余も滞在している。

 皇后は、宮ノ下の温泉の効験あらたかだったのか、翌年は天皇を誘って再訪している。この時期の東京―箱根のルートと日時を知る上で興味深い。明治6年8月3日に、天皇は「午前5時20分皇后と倶に御出門」した。まず新橋駅に行き、@新橋停車場から神奈川停車場まで汽車で行き、神奈川停車場より馬車に乗御し、保土ヶ谷を経て、御昼餐を戸塚に取り、正午藤沢に着御し、御在所清浄光寺に入り、ここに一泊し、A4日に藤澤行在所を出発し、(馬車で)茅ケ崎を経て、小田原に向かい、ここで一泊し、B5日午前5時に小田原を騎馬で発し、8時半に宮の下に着御した。2日と3時間半かかっている。行在所は前年と同じ旅館安藤兵治の家(奈良屋ー筆者)である。この行在所は、「昨夏二旬余に亘りて皇后の滞留せられし所」(『明治天皇紀』第三、宮内庁編、吉川弘文館、1969年、112頁)である。なお、この付言があるのは明治5年の『明治天皇紀』には該当記事がないからであろう。

 9年4月、皇后は、「傷冷毒の症状にて足部に攣痛(れんつう)を感じたまひしが、御加養の結果、漸次平癒」した。しかし、「6月下旬に至りて更に足部及び手指に麻痺を覚え、歩行にも稍々困難を感じたま」い、侍医は脚気と診察し、7月中旬に全快した。しかし、「尚足部に攣痛の萌動」あり、皇后は「の下に転地して温泉に浴したまはん」としたのである。8月27日出発し、藤沢で一泊し、28日は小田原に泊し、29日に宮ノ下に着き、「旅宿安藤兵治の家に入」(『明治天皇紀』第三、宮内庁編、吉川弘文館、1969年、693頁)ったのであった。今回も二泊三日で着いている。

 奈良屋は、明治初期に一回の天皇行幸、三回の皇后行啓に恵まれる程に湯治効験が顕著だったのである。競争相手の富士屋ホテルの山口仙之助は、ホテルが「病人の保養所」になることを嫌い、「温泉の効用を積極的にPRすることを好まなかった」というが、それは湯治効果では奈良屋が富士屋ホテルを上回っていたからではなかろうか(山口由美『箱根富士屋ホテル物語』千早書房、2007年、116頁)。

 奈良屋は、明治20年頃には、「美を尽くして風雅」な建物を造り、「湯槽は三囲(みめぐり)に分ち、そばに湯瀑を設け」、「岸上に洋館新築し、浴客数百を容るべきものとなり、「洋人多くきたるゆえ、和洋と区別」した(上田文斎『日本名所図会』明治22年刊[村岡実『日本のホテル小史』90頁])。

 富士屋ホテル 日光と「鎌倉、江の島、箱根」の散策・旅行は、「明治維新前後に来日した欧米諸国の人たち」には「最も魅力あるくつろぎのひと時」であった(村岡実『日本のホテル小史』100頁)。

 嘉永4年(1851年)、山口仙之助は漢方医大浪昌随の五男として生まれ、万延元年(1860年)横浜の商家山口粂蔵の養子となり、次女久子と結婚した。明治4年、仙之助20歳は米国に留学し、牧畜業に着目し、「七頭の種牛」とともに帰国したが、牧牛は時期尚早として、「駒場勧業寮に種牛全部を売り払っ」た(村岡実『日本のホテル小史』101頁)。

 慶応義塾に入り、明治10年に福沢諭吉から「実業界に身を置くようすすめられ、意を決して外国人専用旅館の経営を志」した(村岡実『日本のホテル小史』101頁)。仙之助は、「神奈川県足柄郡温泉村、通称宮之下」を選定し、「藤屋旅館(「500年の歴史を持つ老舗」)を買収」し、「底倉区有温泉の使用権」を取得し、11年に富士屋と改号し、「内外の浴客」(明治11年7月4日付東京日日新聞)を目的に開業した(村岡実『日本のホテル小史』102頁)。

 以後、15年間、外国人客をめぐって、富士屋ホテルは奈良屋旅館と激烈な「奪い合い」を続け、「共倒れ」の危険があった。26年5月、天方祐順(28年富士屋ホテル監査役)の斡旋で「富士屋ホテルが外国人客専用、奈良屋が邦人客専門」とし、富士屋は単価の高い外客独占(それでも、他の地域に比べて、明治21年、平屋客室1泊2.5円、二階建て西洋館1泊3円と安いが、地方では高い。前述の通り、京都也阿彌ホテルもこの値段で繁盛した)に対して奈良屋に「一定の補償金」を支払うことになった。この契約は更新されて大正元年12月まで続いた(村岡実『日本のホテル小史』104頁、富士屋ホテル「ホテルヒストリー」)。

 東北ホテルとの競合 外国人向けホテルは儲かるという事から、競合ホテルが現われて、箱根ホテルが被害をうける事態が生じている。つまり、明治25年10月1日付『読売新聞』によると、「日本には洋人の宿泊に供するホテル中々数多きことなるが、本年東北の某地に於てホテルの競争起り、互に損失に構はず無暗に宿泊料を安くせしより漫遊又は内国在留中の洋人にして同地へ避暑に出掛ける者非常に増加し、之ガ為め他の地方のホテルは大いに影響を蒙りたる由にて、函根(箱根)宮の下の(富士屋ホテルの)如きは例年の三四割方も逗留客少なかりし由」というのである。

 明治23年4月、伯養軒が仙台駅前に仙台ホテルを開業した(村岡実『日本のホテル小史』139頁)。明治36年版『チェンバレン日本帝国小史』、明治40年『マレー日本案内記』の「ホテル旅館記事」で洋風ホテルとして陸奥ホテルが記載されている(村岡実『日本のホテル小史』139−140頁)。「東北の某地に於てホテルの競争起り」とは、仙台で仙台ホテルと陸奥ホテル(別のホテルだった可能性もある)が宿泊料引下げ競争したことをさすのであろう。

 これに対して、宿泊料値下げは「国益にあらず」と批判し、「殊に来年は米国博覧会(シカゴ万国博覧会)に付 世界漫遊者増加し、日本へ来る者の例年の四倍即ち八万人以上」であり、一人千円使えば「八千万の金が日本に落る事明らか」とし、「全国のホテルに相談して」価格競争ではなく、「客人の待遇、便利等」での競争するべきと主張するものがいたようだ。20日に帝国ホテルで「日本全国のホテル業者一同総会を開く都合なり」というが、確かにシカゴ万博には2750万人が来場したが、26年の訪日外客8万人とは過大すぎる数値である。箱根宮の下の富士屋ホテルが世界の観光客市場の動向の影響を受けていたということだけは確かなようだ。この26年には、富士屋ホテルは同じ箱根宮の下奈良屋ホテル([『帝国ホテル百年史』帝国ホテル、平成2年、8頁])との競合回避のために、富士屋ホテルを外国人専用とする協定を締結し、大正元年まで継続した(富士屋ホテル「ホテルヒストリー」)。

 露国前司令官の静養 明治28年6月頃には、「露国巡洋艦ラスポニツク号にて過日横浜に来着したる露国前東洋艦隊の司令官海軍中将ティルトフ氏は病気保養の為め箱根宮の下に赴き」、富士屋ホテルに投宿していた(明治28年6月14日付『読売新聞』)。以後も、「凾根(箱根)宮の下旅館が、春夏秋冬絡釋(らくえき、絶え間なく)として外客の跡を絶たざる所以」は、「其距離京浜の地に近接」していた湯治場ということのほかに、「完備せる洋風旅館の存せること」もあり、これが「最も重因」とする意見もあった(明治38年9月、十五銀行頭取・前横浜正金頭取の園田孝吉「我国民の戦後経営上必要なる五大急務」『実業之日本』第8巻第18号)。

 ベルツ賞賛 37年8月21日、ベルツは、箱根に来て、「箱根連山の最高峰」神山(1450m)からの眺めは「恐らく日本で、一番容易に達することのできる素晴らしい眺め」とし、相模湾島嶼、伊豆半島、駿河湾、「富士山が優しい線を画いてそびえて」いるとする(ドク・ベルツ編、菅沼竜太郎訳『ベルツの日記』第二部上、岩波文庫、昭和37年、144頁)。ベルツは、箱根にしかない卓越した風景美に感銘していた。

 箱根開発 明治39年6月には、こうした人気を背景に箱根の再開発が構想される。つまり、「函根山上に一大仙境を拓かんとする」計画が立てられ、「先づ湯本を起点とし函根を経て御殿場に達する電気鉄道を敷設し、副業としてホテル業及び電灯電力等を設け、更に芦ノ湖岸景勝の地を卜して、一大美術館を建設せんとの考案」(39年6月22日付『読売新聞』)であった。実際、明治39年11月、「伊豆箱根鉄道の前身である駿豆電気鉄道は沼津と三島を結ぶ路面電車を開業」(「写真で見る西武ヒストリー」前編)した。

 堤康次郎(西武グループ創業者)は、大正8年から「牧歌的な温泉集落にすぎなかった箱根一帯を別荘地として、さらに世界的な観光地として開発しよう」とし箱根「地元住民に対し箱根開発の必要性を熱心に説き、感銘を受けた地元の協力のもとに」箱根開発を推進し、大正9年に箱根土地株式会社を設立し、「観光地開発、競馬場設置、別荘販売、ホテル経営、など総合的な開発」へと乗り出した。湯河原・三島・伊豆半島方面の開発にも着目し、「駿豆鉄道内の紛争に介入し経営権を奪」った(伊大知綾子「堤康次郎」神奈川県立図書館)。

 富士屋ホテルの山口正造も、この箱根町も「将来有望なホテル立地になる」と見て、、仙石ゴルフ場(大正6年)をつくり、大正11年には、「岩崎小弥太、団琢磨、池田成彬など財界有力者」の協力を得て、箱根町の外国人専用旅館「はふや」(野村洋三所有、「諸大名やオランダカピタン一行が泊まった元本陣の一つ)を買収して、資本金50万円の箱根ホテル株式会社を設立した(村岡実『日本のホテル小史』109頁)。その後、山口一族は、富士ビュー・ホテル(昭和11年)を開業して、「箱根一帯に一大リゾート王国を建設」した(村岡実『日本のホテル小史』108頁)。

                            ハ 軽井沢

 軽井沢は、東照宮・大自然を擁する日光、湯治場・富士を擁する東京近場の箱根とは違って、中山道の碓氷峠の西側宿場町の軽井沢宿(旧軽井沢)であり、沓掛宿(中軽井沢)・追分宿(信濃追分)が置かれていたにすぎない単なる宿場町であった。明治16年に上野〜熊谷間、明治17年には高崎、前橋まで延長し、明治19年夏に英人宣教師A.C.ショウが布教途次に軽井沢高原に祖国スコットランドの自然に似たものを見て魅せられ、明治21年に大塚山に簡素な別荘を造り、知人宣教師らに保健と勉学によいと宣伝すると、宣教師の別荘地となり、それに釣られて一般外国人を増え始めた。明治26年に開通した碓氷新鉄道によって更にその発展の速度を速めていった(村岡実『日本のホテル小史』134頁、万平ホテルHP)。

 22年夏にに亀屋に外国人客16名が滞在し、翌明治23年23年7月、旅籠亀屋の主人佐藤国三郎は、「離れの2階を改造し4部屋の客室を追加」した。27年、「中山道沿いにあった古い旅館を改修」して、外国人専用の亀屋ホテルを開業した。「一泊三食付2円50銭という低料金が外国人客に受けて、夏季だけで800円の利益」をあげ、29年万平ホテルに改号し、35年に「軽井沢町桜の沢の地に本格的な欧風ホテル(22室)を建築」し、38年には別館17室を新築した。「日本人客も避暑にこのホテルを利用」し、大正14年に「万平ホテルは株式会社に改組」され、社長に佐藤万平、専務に佐藤太郎、支配人佐藤泰三の同族が就任した(村岡実『日本のホテル小史』134頁、万平ホテルHP)。

 昭和2年、「熱海伊豆山桃山に熱海万平ホテル(22室)を開業」し(昭和19年閉鎖)、佐藤壮六が支配人に就任した。その後も、万平は、昭和6年東京の平河町万平ホテル(82室、昭和14年閉鎖)、昭和8年名古屋市東新町万平ホテル(44室)を開業し(昭和12年譲渡)、昭和7年「東京日本橋通一丁目に八洲ホテル(65室)を開業」した(村岡実『日本のホテル小史』134頁、万平ホテルHP)。その後、軽井沢万平ホテルは「株式会社国際観光ホテルの翼下」にはいりつつも、「佐藤壮六、佐藤泰春、佐藤邦明の同族」で経営された(村岡実『日本のホテル小史』134頁)。

 軽井沢が初期の宣教師から離れて金持ち・西武資本を中心に「派手」に発展していったのに対して、北軽井沢は大学関係者や学者を中心に豊かな自然を維持して「地味」に展開していったといえる。

                           二 その他   

 海浜院ホテル 明治17年、長与専斎は、「海浜での保養を目的としたサナトリウム海浜院を鎌倉由比ガ浜に建設」し、20−22年、「横浜の中山安兵衛、原善之助、茂木惣兵衛たちの財政的援助」で、「客室20室を備える海浜院ホテル」に造り変えた。明治40年に資本金15万円の株式会社に改組し、「客室、大食堂を増築」した。「東京、横浜、横須賀からの交通の便がよかったこともあって、外国人、政財界人、海軍の高級士官の名士」で繁盛した(村岡実『日本のホテル小史』111頁)。

 葵ホテル 静岡では、内外上流階級向けホテルとして、旧徳川邸が葵ホテルに改築された。「静岡市西草深町徳川従一位公(徳川慶喜)の旧邸を譲受け資本金十五万円を募集し、株式会社葵ホテルと称する内外喜神向の高等旅館開業の計画」が、今回「熟して、明治33年11月12日「午後五時より竹川町花月に於て其の創立総会を開き、定款確定、役員選挙、創立費認定の件を決議したる由にて、愈々来廿三祭日より廿五日の日曜に渉り、静岡県下は固より京浜の有力者を招待して盛に開業式を行ふ筈」(33年11月14日付『東京日日新聞』『新聞集成明治編年史』第十一巻)となった。しかし、同ホテルは38年11月8日に焼失した。

                         C ガイド書

 外国人向けガイド・ブックは明治初年頃から刊行されている。開港場、東京については、
Dennys,N.B,"The Treaty Ports of China and Japan:a Complete Guide to the Open Ports of Those Countries",1867,
Griffis,William Elliot,"The Yokohama Guide",1874,
Griffis,William Elliot,"The Tokyo Guide",1874
があり、京都、日光については下記の案内書があった。
Yamamoto,H,"The Guide to the Celebrated Places in Kioto & the Surrounding Places",1873
Satow,Ernest Mason,"A Guide Book to Nikkou".Japan Mail Office,1875

 明治13年には広範な観光地ガイドと実用的情報の書として、下記が刊行されている。
 Keeling,W.E.L."Tourist'guide to Yokohama,Tokio,Hakone,Fijiyama,Kamakura,Yokoska,Kanozan,Narita,Nikko,Osaka,etc,etc,together with useful hints,glosary,money,distance,roads,festivals,etc,etc,",1880(長崎契那「明治初期における日本初の外国人向け旅行ガイドブック」『慶応義塾大学大学院社会学研究科紀要』69号、2010年)。

 こうして居留地を中心に、「横浜開港から居留地制度が廃止される明治32年までの約40年間」に、ホテルは大小あわせて120 軒ほど開設されたが、経営者後退による重複を調整すると、「実際は延べにして約100軒」(木村吾郎「日本のホテル産業史論」大阪商業大学、2015年3月)とされている。

 以上、明治20年代頃には、日本各地でホテルの増築・新築がなされ、外客数が漸次的に増加していった事が確認される。しかし、これでも後述の通り20年前後約1万人外客を想定したものであった。この程度のホテル数では、以後外客数が著増してゆけば、早晩ホテル不足問題は顕在化し深刻化して行くであろう。なお、この外客という用語は第二次大戦後まで使われることになるが、この外客の定義として「一定以上の期間(最も短い場合は、港で船を下りてその日に乗船)、日本に滞在した外国人を指し、日本に外貨収入を得させた人」で、「労働目的の外国人は除かれる」(中村宏「戦前における国際観光(外客誘致)政策ー喜賓会、ジャパン・ツーリスト・ビューロー、国際観光局設置」[『神戸学院法学』36−2、2006年12月])とされている。外国人観光客は、外貨をもたらし、増加させる存在として把握されており、これは井上円了、高橋是清の場合も同様であった。

                     B 国内都市観光の展開

 こうした経済発展、国内交通展開で日本諸都市で国内向けの旅館も整備され、富裕層・中産層の都市観光も行われだした。いきなり国際観光のみが先行したのではなく、それをはるかに上回る国内観光の盛行が展開していたのである。

 企業勃興後の国内鉄道網が整備が国内観光を促進したことを確認すれば、「22年の東海道線の開通と、翌23年の第三回内国勧業博覧会(来場者102万人)」は「東京の案内書及び東京観光に大きな画期をもたらし」、特に鉄道は「旅から旅行への時代の到来」をもたらした(山本光正『江戸見物と東京観光』臨川選書、平成17年、147頁)。明治23年3月14日「東京案内会社設立御届」中の主意書によると、「日本全国各地の人士 汽車の便を借りて 以て此地に来るもの実に其幾万なるを知るべからず」(山本光正『江戸見物と東京観光』156頁)とあるように、鉄道網整備は国内旅客数増加の画期的契機となった。この結果、22年、23年に発行された東京案内書、類似書は「明治期においては群を抜いて多い」(山本光正『江戸見物と東京観光』149ー151頁)ものとなったのである。

 東京の場合、江戸・明治期に馬喰町・小伝馬町(関東郡代の役宅などに用事のある人向けの公事宿だが、旅人宿には問屋街に用事のある一般旅客を宿泊できた。馬喰町・小伝馬町は江戸の一大宿泊エリアであった)、神田旅籠町(幕府・政府の関係機関に用事のある人向けの公事宿で旅人宿と百姓宿からなり、旅人宿は一般旅客を宿泊させることができた。筆者は明治2年伊那県騒擾の新政府吟味で3年に上京した農民らが公事宿に宿泊しているのを史料で見たことがあり、公事宿は地方裁判制度が整備されるまで存続したようだ)などに、江戸時代以来の旅籠が数多くあった。もちろん、明治期に龍名館(日本橋室町名倉屋四代目の分店、駿河台、明治32年。いまでも存続)等が新設されていくこともあったが、旧来旅籠がまだまだ多かった。
                       
 江戸名所の形成 江戸時代の江戸案内としては、菊岡沾涼『江戸砂子』(享保17年)、斎藤月岑編「江戸名所図会」(7巻20冊、寛政、文化、天保と書き継がれる)、安藤広重「名所江戸百景」(安政3−5年)などが数多く刊行され、「江戸市民は市内や近郊の名所への観光を活発に展開させてい」た。その名所の多くは神社仏閣である。「江戸名所図会」で取り上げられた江戸名所1043項目のうち、「寺・神社・祠・堂などの宗教施設」だけで半数以上を占めている。安藤優一郎作成「上野・浅草・両国の観光名所案内」によると、@寺社(護国寺、東本願寺、「神仏のデパート」浅草寺[169の「数多くの神仏が祀られていた」]、現空寺、「江戸出開帳のメッカ」回向院)、A神社(熊野権現、湯島天神、「江戸総鎮守」神田明神、谷中七福神[護国院、吉祥堂、天王寺、長安寺、清水堂]、下谷七福神[寿永寺、弁天堂、正宝院、熊野権現、法昌寺]、浅草七福神[今戸八幡宮、待乳山聖天、三社根現、正智院]、江戸六地蔵[東禅寺]、五色不動[永久寺])、B単独名所(昌平坂学問所、両国西広小路、浅草広小路、上野広小路、不忍池、浅草御蔵、御米蔵)であり、寺社が圧倒的に多い(安藤優一郎『観光都市 江戸の誕生』新潮社、2005年、10頁−76頁)。地域的にみると、「近世の行楽地はそのほとんが江戸城から隅田川、東京湾に向かう地域に所在」していた(山本光正『江戸見物と東京観光』臨川選書、平成17年、198頁)。

 江戸に神社仏閣が多かった理由は、@神社仏閣は「悩みや苦しみ」から逃れ、「様々な娯楽に興じ」る「観光の代表格」であり、これを見る観光旅行の正当化がはかられ、A縁日や「秘仏・秘宝の開帳」の時には、「江戸や近郊から観光客が押し寄せ」、「賽銭はもちろん、お守りやお札」の販売で「多大な収益」をあげるようになったからであった。この寺院が、浅草、両国広小路、上野広小路、回向院の「半径二キロメートル以内」に盛り場をつくりだし、寺社と盛り場は共存共栄という形で「一日かけて歩いて見て回るには、ちょうど手ごろな距離」となった。こうして「隅田川を挟んで、浅草・上野・両国そして本所・深川エリア一帯は、江戸の周遊観光、広域観光のメッカ」となり、「観光都市江戸の中核」をなした。江戸に数多くある宗教施設(寺院、神社、鎮守、稲荷、祠)は、「信仰心を満たす」のみらず、「余暇を楽しみ、癒しも得られる機会」を提供した。18世紀後半、「盛り場などの行楽施設が江戸の各所に次々と成立し、人々の行動範囲も江戸近郊にまで拡大」し、行楽の嗜好も多様・多面化」し、「江戸観光に占める開帳のウェートは相対的に低下」し、「江戸市民が享受する娯楽、即ち観光の選択幅が広がっていった」(安藤優一郎『観光都市 江戸の誕生』11−116頁)。

 江戸観光の主流は「北関東・東北方面の人々が伊勢神宮の途中東京観光をするというもの」であったが、明治以後は内国勧業博覧会(第一回明治10年8月21日―11月31日、第二回14年3月1日―6月30日、第三回23年4月1日―7月31日)や開化の象徴などの観光のために「関東以西からの東京観光は増加した」(山本光正『江戸見物と東京観光』140頁)のであった。  

 東京名所の形成 江戸時代の江戸名所案内の継承として、明治期にも東京名所案内というものが刊行されている。東京の開化の建物、乗物、西洋断髪鋪、電信局、新市街、女学校、西洋料理店、代言会社などについて記述したものとして、明治7年には服部誠一『東京新繁盛記』、高見沢茂『東京開化繁昌誌』、荻原乙彦『東京開化繁昌誌』がある。服部誠一『東京新繁盛記』は『江戸繁盛記』を模倣したもので、1万数千部が売れて、「最も好評を博した」。明治10年には、『江戸名所図会』の簡略版として、岡部啓五郎『東京名勝図会』が刊行され、「日本橋と電柱電線、駅逓局、第一国立銀行、駿河町三井店、京橋煉瓦石屋、新橋汽車待合所、工学寮、九段坂石灯篭」などの洋風建築が描写される(山本光正『江戸見物と東京観光』126−130頁)。

 大隈インフレ成長後の明治15年に刊行された「東京方角一覧地図 一名 名所案内図」(井上茂兵衛出版、定価十八銭、筆者所有)では、九段靖国神社、高輪、池上本門寺、目黒不動、愛宕山、島原新富座、新橋鉄道、銀座の煉化、日本橋、駿河町三井、万世橋、神田神社、湯島天神、不忍池、上野清水、上野東照宮、浅草金竜山、新吉原、待乳山聖天、向島、梅屋敷、亀戸天神、深川八幡、洲崎弁天、永代橋、海運橋第一国立銀行、水天宮、両国橋、浅草橋、蛎殻町米商会所、江戸橋、駅逓局、印刷局の写生画が掲載されている。しかし、写生画の位置が地図上ですぐわかるような工夫はされていない。従来の寺院、神社と文明開化の建物の混ぜ合う明治15年の東京が浮き彫りになっていて、興味深い。写生画を見て、場所を特定したり、見当をつけて、新旧「名所」を見学したのであろう。ここでは、どこを起点に何日間で東京を見物するかまでは記されていない。

 明治24年に刊行の「市郡変称 東京全図」所収の「東京名勝四日廻り順路独案内」(嵯峨野 彦太郎発行、筆者所有)では、馬喰町通り、本石町通り、常盤橋内印刷局、赤坂皇居、市ヶ谷士官学校、九段坂上靖国神社、神田神社、上野公園桜ケ岡、浅草公園金龍山、吾妻橋、鍵殻町水天宮、開運橋、日本橋、宮城二重橋、永田町陸軍参謀本部、戸塚村汽車道、幸町東京府、虎ノ門金毘羅、芝愛宕山、芝公園地紅葉館、高輪泉岳寺四十七士墓、新橋鉄道局、芝浜離宮、新富座、京橋、両国橋、永代橋、深川公園八幡社、亀戸天神、墨堤花の景の写生画が掲載されている。ここでは、小さい字で、初日、二日目、三日目、四日目の案内文が付されている。
 
 ?初日は「馬喰町より西の方」にゆくとして、呉服店下村、駿河町三井銀行、越後屋を経て大手町の官庁街(印刷局、農商務省、大蔵省、内務省)、文部省を過ぎて竹橋御門を通って吹上御庭を経て半蔵門から麹町に出ると(この頃は皇居内部に入れたようだ)、右側に英国大使館があり、陸軍病院、平河天神を経て紀尾井坂に向かい、「大久保公死跡石碑」を経て「離宮皇居」に出て、市ヶ谷士官学校、靖国神社を経て飯田橋に向かう。そこから、牛込神楽坂、小石川之砲兵工廠、伝通院、護国寺、巣鴨庚申塚を経て王子にゆく。駒込、本郷を通って、帝国大学医学部、順天堂病院、東京師範学校を経て、馬喰町に戻るとする。?第二日目は、「馬喰町より左」に行き、和泉町、佐久間町、秋葉社、旅籠町、湯島、神田神社、妻恋稲荷、湯島天神から男坂を下り、下谷黒門町、広小路、松坂屋、不忍池、上野公園、東照宮、第三回博覧会、寛永寺を経て下谷に向かう。下谷神社、東本願寺、浅草神社、日本堤、三谷町、橋場町、猿若町、吾妻橋、駒形町等を経て馬喰町に戻るとする。?「三日目」には、「馬喰町より南の方」に行き、横山町、村松町、久松町、水天宮を経て、製紙分社から西方に向かい、兜町で東京株式取引所、三井物産、第一銀行を経て、渡橋して、江戸橋郵便局、日本橋電信分局、三菱支店を過ごして西方に向かい、呉服橋、和田倉門を通って皇居下に赴く。元老院から桜田門を出て、右に行くと陸軍参謀本部があり、左方に日比谷、東京府庁を経て、内幸町のロシア公使館、ドイツ公使館、学習院、外務省に行く。永田町の清国公使館、日枝神社を経て、虎ノ門に向かい、金毘羅神社、愛宕山天徳寺、芝公園、増上寺、紅葉館等を見て、三田、高輪泉岳寺、芝大神宮、新橋に向かう。華族銀行、浜離宮、海軍省、西本願寺を経て、左方の外国人居留地、新富座、木挽町逓信省、歌舞伎座を経て新橋に戻る。尾張町の日日新聞社、銀座朝野新聞、時事新報、読売新聞社を経て、京橋、日本橋を渡り、魚河岸、人形町、小伝馬町を経て馬喰町に帰還する。?第四日目は馬喰町の右方に向かい、両国橋を経て、電信分局から元柳橋を渡り、矢の倉町湊川神社、清正公神社に行く。浜町、箱崎町を経て、永代橋を渡り、深川公園、富岡八幡、成田不動出張所、須崎弁天、木場、本所五百羅漢、亀戸天神、向島の白髭神社、木母寺(梅若寺)、梅若塚、堀切村の花菖蒲を見て、隅田川堤に戻る。秋葉社、牛島社、三囲神社、多田薬師、回向院から両国橋を渡り、馬喰町に帰って、四日間の東京観光は終了する。このように、馬喰町を軸心に、東西南北の呉服店、財閥建物、官庁建物、寺社等を四日で歩きめぐるというものである。江戸時代の宿屋の集中していた馬喰町(中央区日本橋馬喰町)には、明治20年頃にはまだ江戸の名残が濃厚に残っていて(安藤優一郎『観光都市 江戸の誕生』76頁)、そこを起点にすると、開化と旧来寺社とが混然とした東京を見学できたのであろう。「実験観光史」学の一環として、これを実際に経験することは、一定の意義はあろう。

 この「東京名勝四日廻り順路独案内」は、馬喰町を起点とした『江戸見物四日めぐり』(馬喰町が起点に、@南方[日本橋、呉服橋、西の丸、桜田門、山王社、虎ノ門、金毘羅宮、愛宕山、増上寺、目黒不動、高輪・品川、西本願寺、江戸橋を経て馬喰町]、A西方[常盤橋門、大手門、雉子橋、九段坂、昌平橋、湯島聖堂、神田明神、湯島天神、池之端、不忍弁天、寛永寺、谷中、根津権現、日暮里、王子、上野より馬喰町に戻る]、B北方[馬喰町より浅草御門、東本願寺、浅草寺、馬道、待乳山、真木稲荷、隅田川桜名所、梅若の木母寺、白髭神社、新梅屋敷、秋葉社、向島、牛の御前、三囲神社、大川橋を経て馬喰町]、C東方[馬喰町、横山町、両国、回向院、新大橋、永代橋、深川八幡、三十三間堂、洲崎弁天、五百羅漢、亀戸天神、両国に戻り馬喰町に戻る]が案内されている)などを参考にしてつくられたものであろうが(山本光正『江戸見物と東京観光』23−30頁)、日々向かう方角(西、左、南、右)は異なっている。

 明治30年頃から、大橋義三著『東京古跡誌』(明治31年)、大町桂月『東京遊行記』(大倉書店、明治39年)、『東京近傍避暑避寒案内地図』(博愛館、明治43年)など、「東京人のための東京案内書が出版される」ようになった(山本光正『江戸見物と東京観光』180頁)。そして、「日露戦争後から第一次世界大戦期にかけて、国内産業の重化学工業化が進展し、東京や大阪などの大都市圏では都市化と郊外化が進」み、幹線鉄道を補完するように「都市近郊私鉄が成長」し、39年には鉄道国有法が公布され、40年までに17私鉄が買収された(老川慶喜『日本鉄道史』中公新書、2016年、2−8頁)。

 東京名所の展開 一方、これに前後して、市内では輸送力と馬糞公害から馬車鉄道の電化が推進され、東京名所の観光形態が新しい展開を示しだした。

 明治33年6月に内相西郷従道は雨宮敬次郎ら馬車鉄道経営陣に電気鉄道敷設命令書を下付したが、馬車鉄道株の株価が暴落し、馬車から電気鉄道への移行は円滑ではなかった(33年6月16日付『国民新聞』[『新聞集成明治編年史』第十一巻])。36年に、東京馬車鉄道が「東京電車鉄道として新たに開業し、新橋―品川間を電化し」、さらに、36年11月25日に「東京電車鉄道会社 新橋上野間の動力変更工事は既に竣工し・・電車の運転を見る筈」となる。定員42人(左右座席26人、直立14人ママ)で「当分は此百台によりて品川上野間を往復せしむることとなし、一分毎に発車」する。この点、東京馬車鉄道の車両(メーカーはロンドンのスターバック社とニューヨークのジョン=ステフェンソン社)は30乗りであったから(「日本の経験を伝える」ジェトロ・アジア経済研究所)、市電の旅客運送能力は馬車鉄の1.4倍であった。これで、「浅草より新橋行のものは当分日本橋区本町三丁目の角にて電車と乗換へ、又た新橋より浅草に行く人は日本橋区本白銀三丁目角にて、馬車に乗換る都合」(36年11月25日付『日本『新聞集成明治編年史』第十二巻)となった。

 翌37年には東京市内の「全路線の電化を完了」した。これで、消費者の短時間での市内移動が可能になった。明治37年三越、明治40年白木屋が百貨店になったのは(山本光正『江戸見物と東京観光206頁)、これを一背景としていた。三越の場合、三井呉服店は資本金50万円株式会社三越呉服店に「一切の営業を譲渡」し、37年12月21日に「日比翁助氏専務取締役と為りてその業務を担任」させ、@三井呉服店の東京本店は「店舗の面目」を一新し、「商品飾付け」も「最新之改良」を加え、来客に「一層の美感」「愉快」を催させ、A「同店販売の商品は今後一層其種類を増加し、凡そ衣服装飾に関する品目は一棟の下に用辨相成る様設備」し、結局「米国に行はるるデパートメント・ストアの一部を実現すること」(明治37年12月14日付『中外商業新報』『新聞集成明治編年史』第十二巻)とした。

 40年には、三越は、@「常に流行の率先者を以て任」じ、「彼の欧米に行はるるデパートメント・ストアに倣ひて店内の売品の数を多くし、一昨日よりは新柄陳列会を開きて小切売出しを開始し」、A「同時に新に建築せし食堂、写真室をも開き、食堂にては料理一食五十銭、和菓子、珈琲、紅茶各五銭、洋菓子十銭にて商ひつつあり」、B「写真も亦実費を以て需に応じ、又陳列品内中央には北村季晴の出張を求め、常に優美なる洋室を奏して以て入場者の耳を娯しましむる事とし、宛然一の小博覧会の観を呈しつつあり」(明治40年4月2日付『東京朝日』[『新聞集成明治編年史第十三巻])となる。市電が多数の顧客を集めることを可能にしたから、こういう「小博覧会」的店舗展開が可能になったのである。

 そして、明治44年には、東京市が「路面電車を経営していた民間会社」を買収し、ここに東京市電が誕生した(電気鉄道技術変遷史編纂委員会著『電気鉄道技術変遷史』オーム社、2014年、350頁)。従って、大正期の東京市は国内蒸気鉄道網の整備に市内路面電車の整備が加わって、中産層以上の都市観光が一段と盛んになってきたようだ。

 さらに、明治45年には、東京では乗合自動車計画が構想された。既に昨年、「市会に於て、理事者より提案せられたる新橋より上野、浅草に至る本線に、乗合自動車を運転するの計画は、其後電気局に於て大体の調査を了したれば、近く市参事会に提案さるべし」ということになった。その案の内容は、「予算額二十万円を以て、約十九台の自働車を請求し、新橋、上野、浅草間を試験的に運転せしめ、成績の如何に依りて、更に他の幹線にも拡張せんとするにあり」(明治45年2月4日付『都新聞』[『新聞集成明治編年史第14巻])というものであった。大正8年に東京市街自動車が誕生し、市内の交通手段は、電車とバスで人口の移動を一層活性化した。

 この間、大正3年東京駅の完成、丸の内ビル、東京海上ビル、郵船ビルなども建設され(山本光正『江戸見物と東京観光』臨川選書、平成17年、203頁)、東京中心地は大きく変わっていた。

 こうした市内鉄道の整備の一半を物語る大正十一年「地番入東京市全図」(九段書房、筆者所有)では、朱で市電路線が記され、裏面に、「市内名所官公衙電車案内」があり、「東京見物三日案内」、「代表的市内名所案内」、「学校案内」、「病院案内」、「劇場案内」が付されている。東京観光者のみならず、定住者の利便にも配慮されている。「東京見物三日案内」では、「初めて東京の地を踏んた人が東京名所の総てを見物しようとするには是非とも順序を定めて置かねばならぬ。若しその順序を定めず漠然と無暗に歩いたのでは第一、時間がの不経済であるばかりでなく当然見物しなければならぬ所も見落とすやうなことになる」とする。元来「東京は東洋第一の大都市であるから仔細に見物」すると、十日でも二十日でも不十分だから、「目抜きの場所たけ廻れは其の目的は達せられる筈である」とする。

 @第一日目は、「東京の中心地たる馬場先門」を始点とし、東京駅、丸ビル群、帝国劇場、二重橋、参謀本部、陸軍省、大審院、海軍省、国会議事堂、日比谷公園、日比谷図書館、華族会館、帝国ホテル、愛宕山、芝公園、増上寺に向かい、そこから電車で泉岳寺、電車で新橋に戻り、逓信省、農商務省を経て銀座通りに出て、京橋に向かう。次いで、高島屋、白木屋、三越、三井銀行・三井物産・三井合名、日本銀行を過ごして、須田町で広瀬中佐銅像を見て、万世橋、小川町を経て皇居方向に向かい、印刷局、特許局、鉄道省、内務省、大蔵省、文部省、学士会館を見て、駿河台の明治大学、ニコライ堂に寄り、向こう岸の東京女子高等師範、順天堂を見る。一日目は電車と歩行での強行軍である。A二日目は靖国神社から出発して、青山行きの電車で左に近衛師団、右に英国大使館を見て、赤坂に出て、赤坂離宮、青山墓地をへて、青山御所で乗車して、築地に向い、歌舞伎座、本願寺、新富座を見学する。深川に電車でむかうと、深川八幡、亀戸天神がある。柳島停車場で乗車して、桜で有名な向島にでて、浅草橋に電車で向かい、下車して国技館を見学する。B三日目は、「残る所を全部見なければならない日」として、小石川植物園の見学から始め、そこから東京砲兵工廠を過ぎて、本郷の帝国大学を経て、切通しを上の方向に下りてゆき、湯島天神を経て、松坂屋、不忍池、弁財天、彰義隊墓を経て「西郷南洲翁の銅像」を過ぎて、「奥に入」って、小松宮銅像、大仏、東照宮、帝室博物館、動物園、美術学校、帝国図書館、寛永寺を見学する。「上野はこれくらい」にして「公園前で浅草行きの電車」にのり、雷門で下車し、仲見世、仁王門、観音堂、花屋敷、十二階、映画館などを見る。「混雑する場所を右に折れて電車道に出る」と、本願寺がある。これで「東京に存する目抜きの場所」はすべて見たということになるとする。そこには、江戸時代以来の神社仏閣が依然として大きな比重を占めている。

 大正12年関東大震災で市電復旧に一年かかり、この間に定期遊覧集合バスが登場した(山本光正『江戸見物と東京観光』205頁)。東京市内観光の交通手段として、電車についで、バスが登場したのである。観光方法は、一層多様化していった。

                                C 国際観光客の増加気運 

 明治20年頃、日本国内の都市観光者の増加のみならず、国際観光客も増加気運にあった。

 日本開国に伴い、「外交・貿易を通じた国際化の進展につれて来日、在留する外国人が漸増」して、明治7年に「外国人内地旅行允準条例」で、「病気保養」と「学術研究」の条件付きで国内の旅行制限が緩和され、明治10年には在留外国人は4,220人にも達した。うち横浜居留者が2,404人と、全国居留地外国人の57%を占め、「外国人居留者の横浜への集中が顕著」となった(木村吾郎「日本のホテル産業史論」)。

 さらに、明治12年には、政府御雇い外国人に対して国内旅行に関する大幅な自由が与えられ、この結果、明治20年頃の「我が国に来遊する外客」は、「毎年七・八千人位で、観光地域は大概北は仙台松島より南は瀬戸内海巌島まで、其滞在期間は長くて一ケ月、短かきは一週間にて、唯寄港地附近を逍遥するに止まる者もあり平均一人一千三百円位を費消するから、少なくも一千万円は我が国の現金勘定が殖える、之を座貿易(外客滞在に依る収入ということか)の収入と称してゐた」(弘岡幸作「外客誘致策の今昔所感」『竜門雑誌』第493号、昭和4年10月、『渋沢栄一伝記資料』 第25巻、460−1頁)とあり、相応の経済効果を想定していた。

 明治26年12月29日には、衆議院で陸奥宗光外相は、「昨年中内地ヲ旅行シタ所ノ外国人ノ数ハ凡ソ九千人デアル」と述べ、外国人旅行者の増加傾向が確認できる。さらに、陸奥は、この「九千人の外国人が、旅費・小遣いなどで一人約約五百円を消費した」とすれば、「殆ド四五百万円」となり、この「金額ハ我国中ノ労働者若クハ製造者ヲ知ラズ識ラズノ間ニ富マシテ居ル」(大久保利兼編『近代史史料』吉川弘文館、1984年、260頁)と、経済効果を指摘した。

                               2 井上馨・南貞助の外客増加策

 最初の外客増加策は、喜賓会以前から見られた。昭和4年10月29日、丸ノ内二十八号館内渋沢事務所で、渋沢栄一は昔を回顧して、明治20年頃に農商務省の商務局次長南貞助が外客増加論を提唱したと指摘している(『雨夜譚会談話筆記』下・第七二〇―七二三頁 昭和二年二月―昭和五年七月[『渋沢栄一伝記資料』 第25巻、450頁])。これは、井上外務卿時代の条約改正交渉と関連した外客増加論の一環としてなされた。

 井上馨・南貞助の外客増加論 この南貞助とはいかなる人物であろうか。「高杉晋作とは従兄弟の関係」で「文久元年伯父春樹の養子となってからは、常に義兄晋作と提携して、干城隊の編制に或は禁門の変に行動を共にし」たという(森谷秀亮「南貞助自伝『宏徳院醐略歴』」[国会図書館所蔵])。後に、この晋作縁故が、貞助は晋作編成した奇兵隊の幹部の山県有朋、井上馨、伊藤博文の引き立てをうけることになる。さらに、国立公文書館公文書や『井上馨関係文書』、手塚竜馬「南貞助と妻ライザ」(『英学史研究』7号、1974年9月)などによると、貞助は、明治2年外国官判事として箱館府出張になり、明治4−6年滞英して法典研究に従事し、6年8月芝でライザ夫人(日本政府公認の国際結婚第一号、16年離婚)と英学塾「南英学舎」を開いた。

 そして、6年10月には「内外用達所」(後に内外用達会社)を開業し、「運輸のほか書類等の翻訳、両替や為替手形の売買、各種保険、商品見本取寄せ等を扱った」。一株10円で一万株発行して「数百人同心協力」を得て、資本金10万円で国内外に支店を設置するとし、明治8年に店舗38となる。運輸部門では「諸国外国旅行の諸人」の「旅行を助け便利を与へ」るために、「チケットの手配や支払いの代行も業とした」。これは明らかに外客の力利便性促進をねらった外客増加策の一つである。しかし、次第に「会社は設立の目的に齟齬」し、南は本支店の機構改革をしたが、14年「各地の商業元の本支店の如く」ならず、「南はトップの座を退」(中島敬介「南貞助試考ー日本の近代観光政策を発明した男」[『日本観光研究学会全国大会学術論文集』 Proceedings of JITR annual conference 34、2019年12月])き、南の外客増加策は頓挫した。その後、明治14年8月に南は東京府御用掛から東京府一等属、小笠原島東京出張所長に任じられる。以後、明治16年11月商法講習所所長事務心得(17年3月辞任)を経て、井上外務卿のもとで18年6月25日香港領事となる。

 井上外務卿は批判の多い鹿鳴館時代に代わって、条約改正に伴う新たな日欧関係として外客拡大を検討した。井上は16年4月第9回予議会では日本法律に従う外国人には内地開放(内地雑居)を行い、列国が明治初年から繰り返し主張してきた通り、内地旅行や内地通商に関する制限を撤廃し、外国人の土地所有や企業活動の自由を認めるとした(臼井勝美「条約改正」『国史大辞典』第7巻』吉川弘文館、1986年、永井秀夫『日本の歴史」第25巻自由民権、小学館、1976年、301頁、坂本多加雄『日本の近代2 明治国家の建設』中央公論社、1998年12月、309ー310頁)。これは、南の外客の国内旅行利便性の向上と呼応するような政策だったが、南は内外用達会社から離脱していた。16年6月の第13回予議会では、井上は、新条約批准5年以内の暫定措置として、領事裁判を認めながらも、その裁判は外交官ではなく外国法律専門家によるとし、また、法律は日本国内法を適用するという案を提示した。19年7月、関税率改正についてはほぼ日本原案に近い案が合意をみたが、外国人法官の容認はやがて全国に知られだすと、屈辱的裁判制度などと批判を浴びて、20年9月に井上は外相を辞任した。

 南の商務局次長就任 21年に井上馨は農商務卿に転じると、南の外客増加策を履歴書などから知っていたかして、南貞助を商務局次長に登用し、以後南は井上腹心として外客増加策に関わってゆくことになる。南は、22年6月各国取引所の実況調査のため海外に派遣され、23年1月にパリで調査した後に帰国する。数回の訪欧で欧州観光業の実態に触れ、南貞助は、「日本は風景はよし、新しい国として、外国から眼を着けられて居るしするから、接待法をよくしさへすれば、必ず欧米人を誘致することが出来ると云ふ事を、頻りに外務関係の人へ申出」て、外客増加に着手し始めたのである。

 渋沢は、「此人は何でも長州の人だつたと思ふ。喜賓会は、その時組織されたのであつて、南氏が担当者で、私等が其世話をする事となつたのである。何でも仏蘭西や瑞西にそんな設備があつたので、日本がこれを真似たのである。当時井上さんが外務大臣(明治18年12月―20年9月)をやつて居つて、此企に同意し、自らも主張されたので、私と益田孝氏とが申合せ、費用の方の心配は主として私等がやつた」(『雨夜譚会談話筆記』下・第七二〇―七二三頁 昭和二年二月―昭和五年七月[『渋沢栄一伝記資料』 第25巻、450頁])と述べている。渋沢には、喜賓会関与に若干の記憶違いがあるようだが、これは、@当時渋沢、益田らが東京商工会の資金で組織したのは喜賓会ではなく外国人接待協会であり、A外客増加という点では井上馨、南貞助は既に19年の外務省時代からから関与していたという事を傍証している。

 つまり、外務大臣井上馨と香港領事南貞助が、在欧中の観光体験などを踏まえて、外客増加を渋沢、益田に提唱してきたので、渋沢、益田はこれに同調したということになろう。中村宏氏は、明治20年、井上馨外相の鹿鳴館時代の終り頃、東京商工会会長渋沢、副会長益田は「外客接遇のための会」を構想し始めたと指摘されているように(中村宏「戦前における国際観光(外客誘致)政策ー喜賓会、ジャパン・ツーリスト・ビューロー、国際観光局設置」[『神戸学院法学』36−2、2006年12月])、井上、南の外客増加政策は、喜賓会が具体化する前の渋沢、益田提唱の外客増加策とほぼ同じのものということになろう。『雨夜譚会談話筆記』も「井上馨ノ外務大臣タリシハ明治十八年十二月成立セル伊藤内閣ニシテ、井上ハ同二十年九月之ヲ辞任セリ。故ニ喜賓会成立ヨリ数年前ノ事ナリ。(喜賓会のような外客増加策は)当時ヨリノ企画トイフベキカ」(『雨夜譚会談話筆記』下・第七二〇―七二三頁 昭和二年二月―昭和五年七月[『渋沢栄一伝記資料』 第25巻、450頁])としている。井上、南らが条約改正交渉を有利にするために、渋沢、益田らに外客接遇の組織化を早くから指示していたのであろう。

 井上の貴賓ホテル 井上は外務卿時代にそういう外客増加策の一つとして「貴賓ホテル設置」を提唱していた。これは外相辞任後も推進された。明治14年に発行されたマレ−の『日本旅行案内 (Murray's Hand-Book Japan) 』初版に記載のある東京のホテルは、「精養軒」(新橋駅近く)だけであり(木村吾郎「日本のホテル産業史論」)、外客増加傾向に対処し、促進するには、東京に「貴賓ホテル」を建設することは必要であった。

 そこで、井上は、文久3(1863)年英国留学、明治9年には財政経済研究の官命渡欧などで、「欧米先進国の首都を飾っていた大規模のホテル(パリの「グランド・ホテル」、「オテル・ド・ル− ブル」、ロンドンの「クラ−リッジ」)などは、「王侯貴族や特権有産階級或は国家自体が、自らの権威を誇示するために投資されたもの」であるということを知り、日本もまた「国威発揚を示すためにも、社交の場としての鹿鳴館と並んで、(その隣に)首都東京に迎賓館の機能を併せ持つ本格的かつ大規模な洋式ホテル設置」が必要であるとした。そごで、井上は外相在任中に、「外来賓客・内外貴紳向けに特化したコンセプトのホテル」、即ち日本の民間迎賓館の設置を目指した(木村吾郎「日本のホテル産業史論」)。ここに、井上馨外相は、日本の国際的地位向上のために、「明治二十年ノ初メ・・本邦ノ首府ニシテ外来賓客ノ需ニ応スヘキ壮大ノ客館ナキハ国際上欠典ナリトノ意見ヲ以テ、現在ノ株主諸氏(渋沢栄一)ニ謀リ、諸氏其ノ挙ヲ賛成シテ創立ノコトヲ決定」(明治24年7月10日「第一回営業報告書」)したのである(木村吾郎「日本のホテル産業史論」)。明治20年初めには、井上らは、迎賓館ホテルと外客厚遇策を渋沢らに相談していたことになる。

 明治20年12月、当初は資本金26万円の「有限責任東京ホテル」として設立されようとしたが(武内孝夫『帝国ホテル物語』現代書館、1997年、12頁)、この東京ホテルは、日比谷の東京ホテル(前述)と同名なので、帝国ホテルに改名したという。やはり、インペリアルという修飾は必要だったのであろう。しかし、当時神田区末広町に「帝国ホテル会社」があり、設立登記されていたので、該社と事情を吐露して交渉がなったのか、「そのホテルは程なく姿を消した」。ここに、23年7月有限責任帝国ホテルが発足し、26年に帝国ホテル株式会社に改組(武内孝夫『帝国ホテル物語』13−16頁)したのである。帝国ホテルの資本金22万円は、井上、渋沢のみならず、益田も4株2万円出資し、大倉喜八郎、横山孫一郎、浅野総一郎、岩崎弥之助、西村虎四郎、川崎 八右衛門、安田善次郎、川田小一郎、原六郎らも参加して調達された。さらに、宮内省が55株(5万5千円)の最大出資者となり、侯爵蜂須賀茂韶、伯爵伊達宗城(外国官知事)等も加えて、帝国ホテル株主の「貴賓」化までも図られた。後述の通り帝国ホテル株主の蜂須賀茂韶は喜賓会の会長、渋沢栄一は幹事長、横山孫一郎、益田孝は幹事、大倉喜八郎は評議員でもあり、貴賓向けの帝国ホテルと外客歓迎の喜賓会は並行して推進された事になる。

 こうして、条約改正のために「国が迎える外国貴賓の待遇・宿泊」が目的であり(武内孝夫『帝国ホテル物語』現代書館、1997年、15頁)、宮内省を筆頭株主とする「迎賓館」ホテル(『帝国ホテル百年史』帝国ホテル、平成2年、9−10頁)が、株式会社として登場したのである。敷地4200坪は無地代で国から借用するという特典もあったが(武内孝夫『帝国ホテル物語』39頁)、採算よりも伝統で貴賓を歓迎することを重んじる、かなり特殊なホテルであった。

 帝国ホテルの概観も特殊であった。井上馨は、ドイツ人建築家エンデ・ベックマンらに、「国会議事堂、裁判所、控訴院、大審院、司法省、総理大臣官舎」の官庁集中、ホテル付設などを計画させた(武内孝夫『帝国ホテル物語』34−37頁)。この付設されるホテルについて、渋沢は「当時我々関係者の考として全然西洋の真似ばかりするのも面白くない、さりとて純粋の日本式では御客の外人が困まる事であらうと云ふ所から、基礎工事は洋式に則り、屋上は日本風、殊に古代建築を加味したらどうかと云ふので、当時政府が独逸より聘したエンデーボツクマン組合中の技術家及其部下の人々を態々京都奈良方面に旅行をさして、古社寺の建築法を研究せしめた」(大正十五年七月十三日帝国ホテル青淵先生胸像への渋沢栄一答辞[『渋沢栄一伝記資料』第53巻、538−540頁])という。しかし、「井上の官庁集中計画は中途にして潰れ」たが、「エンデの設計による東京裁判所と司法省」は続行され、ホテル設計図は「形を変えて、帝国ホテルとして陽の目を見」ることになった(武内孝夫『帝国ホテル物語』34−37頁)。

 こうして、帝国ホテルは、21年7月ベックマン設計図に基づいて着工されたが、「敷地の地盤が軟弱」で「基礎工事に不安」があるとされ、9月に中断された(武内孝夫『帝国ホテル物語』現代書館、1997年、38−9頁)。ベルツも、38年2月26日の日記で、当初はエンデ・ウント・ベックマン社のドイツ人技師が担当したが、基礎工事で二万円費消した段階で罷免されたと書いている(ドク・ベルツ編、菅沼竜太郎訳『ベルツの日記』第二部下、岩波文庫、昭和37年、104頁)。江戸時代初期、内幸町、有楽町は日比谷入り江内の海であるから、地盤は埋め立ての為に軟弱である。

 代わって、新進建築家渡辺譲が「新たに設計図を作成し直し」、3階建てを「木材を交えた構造」に転換して重量を軽減した(武内孝夫『帝国ホテル物語』現代書館、1997年、38−9頁)。ベルツは、残りは日本人が造ったので、帝国ホテルは、「宏壮な設計」で「贅沢に場所を使」い、「大きい玄関、広い廊下」や、5mと8mという「だだ広」い部屋があるだけで、ヨーロッパ的な装飾が完成されず、「あまり実用的ではない」「内部の場所配置」になったと批判する(ドク・ベルツ編、菅沼竜太郎訳『ベルツの日記』第二部下、岩波文庫、昭和37年、104頁)。本館は、ヨーロッパ人技師「設計中断」以後に日本人建築技師の「造り替え」というチグハグな合体だったのであり、ヨーロッパ人にはなじまぬ内装になったのである。

 それでも、そこには、@建坪600坪の木造洋風三層構造に、「喫煙室、舞踏室、奏楽室、大小食堂、玉突き場、談話室、新聞縦覧所」が揃い、A当時の精養軒ホテル(京橋、上野)、東京ホテル(日比谷)、メトロポールホテル(築地)の客室数「20程度かそれ以下」に比べて、客室数はその3倍の60であり、うち10室がスイートで居間付きというものだった(武内孝夫『帝国ホテル物語』1頁、10頁)。日本旅行中のフランス人E・カヴァリオンは、「日本風の宿屋に何泊かした後なので、元気を回復する必要があっ」て、「東京のインペリアル・ホテルに泊まった」が、これは、見かけは「巨大」で「豪華」ではあったが、「客が入っていない。六人だけであ」り、とても「気に入らない」(E・カヴァリオン「明治ジャポン1891−文明開化の日本」[森本英夫訳『モンブランの日本見聞記』新人物往来社、昭和62年、180頁])ものだとした。ホテルの外観は、内部の居心地の良さと適合していなければならないのである。

 その結果、前述のように、帝国ホテルの経営は容易ではなく、軌道にのるために外国人支配人登用、洋風マネッジメント導入、蓄積基盤改善など多くの努力がなされたのであった。
              
                            3 渋沢、益田の外国人接待協会
     
 前述のように、井上馨の条約改正失敗、外相辞任の後に、渋沢、益田は農商務卿井上馨、商工次長南貞助の諮問に基づいて、外国人接待厚遇を実施しようとした。

 益田の訪欧米調査 明治20年、益田孝は三井物産会社社長として、妻ゑゐを伴い、高峰譲吉農学博士とともに渡欧した(白崎秀雄『鈍翁・益田孝』新潮社、昭和56年、172頁)。8か月間滞欧して、貿易のみならず外客接待業を含めて視察して、11月に帰国した。益田は、同月25日に東京商工会(明治11年設置東京商法会議所が16年に東京商工会に改組[『東京商工会沿革始末』東京商工会残務整理委員編纂、1892年])で行なった講演「欧米商工業ノ実況ニ就キテ」で、フランスでは「観光客の扱いに長け、観光を一つの産業とみなして大事にしている」とし、「外客ヲ接遇スルニ至リテハ最も鄭重ニシテ苟モ旅客ヲシテ満足セシムルノ方法アレバ之ヲ施設スルニ決シテ財ヲ惜シマザルナリ」と外客接待施設の重要性を指摘した(石井昭夫『日本のインバウンド観光発展史』)。益田は、、@フランスでは観光は重要産業の一つだが正貨獲得産業という認識はないこと、A『鈍翁・益田孝』等では外国人接待協会はもとより後述の喜賓会などの言及は一切なく、益田にとって外国人接待協会や喜賓会は本業の三井経営から見ればはるかに副次的な行為でしかなかった事などが留意される。

 外国人接待協会の意義 明治21年1月に、益田孝は「外国人接待協会」創設意見書を東京商工会に提出した。これは、1月27日の臨時会で「相談スベキ見込ニシテ、其趣旨書ハ当時印刷シテ各員ニ配附シ置」いたが、ここでは相談すべきことなかった。それから約半年後の5月21日、東京商工会の第16定式会が29人の参加を得て開かれた。会長渋沢栄一は、延び延びになっていた「外国人接待協会」設立の件について、「敢テ本会ノ議題ト云フニハアラザレドモ、余リ日合モ経過シタル事故、都合ニヨリ只今直チニ之ヲ相談シ度旨ヲ述ベ、先ヅ書記ヲシテ其趣意書ヲ朗読シム」とした(『東京商工会議事要件録』第32号、明治21年6月[『渋沢栄一伝記資料』 第25巻、462−4頁])。

 その益田孝の議案(21年1月)とは、つぎのようなものである。つまり、益田孝は、20年11月25日の東京商工会の会議で「演説中ニモ略陳シタルガ如ク、今般府下ノ有志者ヲ団結シ、東京ヘ入府スル旅客特ニ外客ニ諸般ノ便利ヲ与ヘ、以テ都下ヲ繁昌セシムル為メ、更ニ一協会ヲ組成セン事」を討議することを提案した(『東京商工会議事要件録』第32号、明治21年6月[『渋沢栄一伝記資料』 第25巻、462−4頁])。

 彼は、まず、欧米人の訪日客が増加する勢いにあることをのべる。つまり、@日本は「数千年来ノ旧国」であり、「種々史上ノ物件ニ富」み、「気候ノ穏和ナル事及其風物ノ美麗ナル事」は世界無比であり、「世界ノ公園」と称しても誣言ではなく、A欧米人は「将来ノ富ヲ起スベキハ東洋ニ在リトテ近来頗ル東洋ニ着目」し、来遊者は漸増し、又「カナダ州ニ鉄道ヲ敷設シ、新航路ヲ開キテ、特ニ我国ト欧米トノ旅程ヲ縮メタ」ので「爾来欧米人ノ印度地方ヘ来往スル者迄モ、日本ヲ経過スル者増加スベシ」であり、Bさらに「印度・濠洲・香港・シンガポール辺ニ居住スル欧米人ハ熱帯地ニ堪ヘ兼、一ケ年中必ズ幾数日ハ転地シテ保養セザルヲ得ズ、即チ近接セル日本ヘ漫遊スル者ノ逐年増加スルハ、是レ自然ノ道理ナリ」とする。A、Bは、既存国際航路に付け加えられるべき新航路利用需要、熱帯地居住欧米人の避暑地需要といえよう。

 しかし、日本では外客厚遇の気風・施設・準備が不十分だとする。すなわち、「我国人ハ元来礼譲ノ心ニ富ムトハ申シナガラ、平素交際ヲ重ンゼザルノ気風アリテ、外客ヲ待遇スルノ道ニ於テ甚ダ冷淡ヲ極ムルガ如シ、左レバ欧米人ガ我国ヘ来遊スルニ当リ、差向相当ノ旅館ナク、又名所・旧跡ヲ探ルニ当リテモ歴史上ノ説明ヲ欠ク等、其他不便ヲ感ズル事一ニシテ足ラズ」とする。

 最後に、外客厚遇の経済効果として、「其土地ヲ繁昌セシメ、間接ニ貿易ノ拡張ヲ助クルノ効アリ」とする。この例証として、フランスをあげて、「現ニ仏国人ノ如キハ外客ノ待遇方ニ意ヲ用フル事切ニシテ、苟モ之ヲシテ満足セシムルノ道アレバ、何事ニヨラズ勉メテ之ヲ計画スルノ気風アリ、故ニ一タビ此土地ニ入ルノ外客ハ、一日モ永ク其土地ニ滞留セン事ヲ望マザル者ナク、其間不知不識其財貨ヲ費消シ、其地ノ産物ヲ賞美シ、大ニ土地ノ繁昌ヲ助クルニ至ル、是レ巴里ガ今日ノ繁華ヲ保持シ富豪ヲ以テ天下ニ雄視スル所以ナリ」とする。外客が、パリの繁昌の原因という認識があるが、正貨獲得の手段という認識はない。そして、外客厚遇はもとよりだが、「我ガ府民ヨリ云フ時ハ、内外人ハ問ハズ東京ヘ入府スル人々ハ我々ノ賓客ナレバ、是ニ向テ相当ノ待遇ヲ為スノ準備ヲ為サヽルベカラス」とした(『東京商工会議事要件録』第32号、明治21年6月[『渋沢栄一伝記資料』 第25巻、462−4頁])。外国人接待協会は、喜賓会がスイスをモデルとしていたのに対して、フランス・パリをモデルとしていた。

 外国人接待協会の設立方法 益田は、この協会設立の「趣向」(目的、手段)と「概略」(会員・役員、事務所、会費)について述べる。

 まず、目的とする所は、「我国ヘ来遊スル外国人ハ勿論、東京ヘ来ル内国人ニ可成便利ヲ与ヘ、愉快ヲ感ゼシムルノ手段ヲ為シ、随テ都下ヲ繁昌セシムル」事だとする。

 そのための手段として、「此協会ニ於テハ、此等ノ外客ヲ満足セシメンガ為メ」に、@案内書の作成(美術品の製造・販売[「銅漆器ノ如キ美術品ハ木挽町ノ起立工商会社ニテ販売シ、何品ハ何レニ於テ製造スルトカ、何様ノ事ヲ聞カント欲セバ彼所ヘ往クベシトカ云フガ如キ事]。歴史的名所の説明[丸ノ内ノ皇城ハ何百年前ノ起工ニ係レリトカ、芝ノ霊屋ハ如何ナル趣旨ニヨリテ創始シタリト云フガ如キ事ニ至ル迄、外客ノ心得トナルベキ事項ヲ丁寧ニ記載])、A特別美術品の観覧斡旋(「外客ノ中我日本ノ美術ニ熱心ナル者アリテ、或ル特別ナル美術品ノ一覧ヲ望ムガ如キ場合ニハ、此協会ヨリ其持主ニ説テ其望ニ応ゼシムル事モアルベ」シ)、B賓客希望の配慮(「其他苟モ賓客ノ便利ヲ達スベキ道アレバ、何等ニ限ラズ可成此協会ニテ之ヲ斡旋スルノ見込ナリ」)、C主要観光地への支部設置(「又小生ハ独リ当府下ニ此協会ヲ設立スルノミナラズ、京都府・栃木県ノ如キ外客ノ多ク遊観スベキ地方ニハ、追々斯ノ如キ協会ヲ起シ度見込ニテ、若シ此等地方ノ有志者ガ幸ニ斯カル協会ヲ設クルニ至ラバ、之ト通信ヲ開キ、互ニ気脈ヲ通ジテ、相応援スルノ見込ナリ」)を提案した。外国人接待協会は東京発展を主眼としていたので支部をもたず、おいおい地方観光地に支部をおくとし、この点では喜賓会も当初は支部は持たなかったが、次のジャパン・ツーリスト・ビューローは初めから支部を置いた。


 この協会の構成員として、会員(「商工会ノ会員」、「府下ノ盛衰ニ直接ノ利害ヲ有スル程」の「東京ニ住スル商工業者」)、名誉会員(「官民中名望アル人」で「間接ノ賛助ヲ乞フベキ見込」の人)、委員(「此業務ニ功者ナル人十名若クバ十五名ヲ撰ンデ委員トシ、規約ノ改正、経費負担ノ割合、役員撰挙ノ如キ事ノ重大ナルモノヲ除クノ外、通常ノ事項ハ総テ此委員ニ全任スル見込ナリ」)がある。

 協会事務所は、常設せずに、「平素別段常務トシテ取扱フベキモノアラザルニ付、事務所ハ当分ノ中商工会ヘ依頼シテ同会ノ中ニ之ヲ」き、「会員集会ノ節ハ同会ノ議場ヲ借リ受ケ」るとする。そして、「平生諸向ヘ文書ヲ往復スル事務ノ如キハ、同会書記ノ補助ヲ請フテ之ヲ弁ズルノ見込」とした。この点、喜賓会は事務所を帝国ホテル内に置き、東京駅竣工時にここに移転された。

 経費については、小額であり(@「此協会ハ会務常ニ繁忙ナルニモアラズ、又当分ノ中、大抵ノ事務ハ商工会書記ノ補助ヲ請フテ弁ズル積リナレバ、吏員給料ノ為メ別段ノ費額ヲ支出スルニモ及バズ」、A「只其要スル所ハ筆墨紙代・案内書ノ印刷代(案内書ハ相当ノ価ヲ以テ売捌カシムベシ」)等、「収益ナキ会同ナレバ、可相成費用ヲ節シ、会員ノ負担ハ極メテ小額ト為スノ見込」とした。非収益団体という点では、喜賓会と同じである。

 「申合規約ノ如キハ追テ一同協議ノ上前陳ノ旨趣ニヨリテ之ヲ定ムル見込」であり、これはあくまで暫定的なたたき台である。もし「諸君ノ御見込ニヨリテハ或ハ別段ニ之ヲ組成スルヲ要セズ、直ニ商工会ヲシテ其任ニ当ラシメ、即チ同会々員ノ中ヨリ更ニ十名若クハ十五名ノ委員ヲ撰ビ、之ヲシテ前ニ述ベタル仕事ヲ弁ゼシムルモ妨ナシ」ともした。「元来商工会ハ視程ニモ示スガ如ク府下全般商工業ノ利害得失ヲ議スルノ場所ニシテ、営利事業ニ関係スベカラザルハ勿論」だから、「此協会(外国人接待協会)ノ為スベキ仕事ノ如キハ固ヨリ営利事業ニアラズ、只都下ノ繁昌ヲ企図スルモノニ外ナラザレバ、同会ヲシテ之ヲ其本務ノ一部トシテ行ハシムルモ敢テ其創立ノ精神ニ矛盾スル事ナカルベシ」と、非営利性と「都下繁昌」振興では商工会と外国人接待協会とは抵触しないとする。

 益田は早急な実現を想定していて、「小生ノ希望スル所ハ一日モ早ク斯ノ如キ仕事ヲ実行スルノ一点ニ在リ」として、「別段ニ協会ヲ組成シテ之ヲ行ハシムルモ将タ商工会ヲシテ直ニ此仕事ニ当ラシムルモ、其辺ニ就テハ何レニテモ異議ナシ」と、外客接待主体は外国人接待協会でも東京商工会でもいずれでもいいが、「兎ニ角小生ハ此施設(外国人接待施設)ヲ以テ都下ヲ繁昌セシムルニ充分ノ成跡アルモノト信ズルニ付、?ニ一案ヲ提出シテ以テ諸君ノ御相談ヲ煩ハサントス 願ハクバ諸君ノ此挙ヲ賛成セラレン事、余ノ深ク希望スル所ナリ」とした。
  
 以上の益田議案の採決をとると、「全会一同其大体ヲ賛成」したのだが、「此協会ヲ商工会ノ附属トスベキヤ否ヤ」に関しては、「各員ノ間ニ多少ノ議論」があった。岩谷松平(二十三番)は「此協会ヲ本会ノ附属トスル時ハ諸事便利ナルベシ」と論じ、日下部三之介(四十九番)・石関利兵衛(二十六番)・雨宮綾太郎(七番)・梅浦精一(三番)は「本会ノ附属トスベカラズ」と論じ、「終ニ衆議ノ末」にこの協会は「東京商工会ノ附属トセズシテ、別ニ之ヲ設立スルモノ」とし、「猶其組織及規程類ノ調査ハ本会ノ幹事ニ委托スル」に決した(『東京商工会議事要件録』第32号、明治21年6月[『渋沢栄一伝記資料』 第25巻、462−4頁])。結局、決まったのは、事務所は外国人接待協会は東京商工会とは別に設置するということだが、外国人接待協会の組織・規定は東京商工会が決めるとしたのであった。

 しかし、明治22年になると、農商務卿井上馨は東京商工会、各地商工会に「欧米諸国の商業会議所と同一の地位」に改組するように促して商業会議所条例を起草し、22年9月に各地商工会委員の意見を徴して修正した。22年12月に井上は農商務卿を辞任したが、この東京商工会の商業会議所転換の動きは引き継がれて、23年8月、東京商工会は「全国商業者の輿論に従い、此際断然発布あらん事を望む」とし農商務卿に要請し、同年9月に商業会議所条例が発布され、10月に東京商工会閉鎖、商業会議所開設を決定した(『東京商工会沿革始末』東京商工会、明治24年)。こうして、商工会は改組された結果、商工会主導の渋沢、益田の外客増加の試みは一時中断されたようだ。

                              4 井上円了の国際観光振興論

  こうして、井上馨、南貞助の意を受けた渋沢、益田の外国人接待会構想が、東京商工会の東京商業会議所転換で「頓挫」してゆく流れとは別に、この頃井上円了が国際観光振興策を提案していた。

 井上円了は、安政5年(1858年)に越後長岡藩(佐幕)領の三島郡来迎寺村(現・新潟県長岡市来迎寺)にある慈光寺に生まれた。明治18年に東京帝国大学を卒業し「学力最優等、品行最端正」のゆえに「官費研究生」(明治18年7月29日官報)となった後、文部省への出仕を断り、東本願寺(佐幕)にも戻らなかった。そして、著述活動を通じて国家主義の立場からの仏教改革、護国愛理の思想などを唱え、迷信打破の活動を行った。また、「東西両様の哲学を兼修する」ために哲学館(本郷区龍岡町の麟祥院内)を設立する。これは、明治20年6月26日『日日新聞』で報じられ、井上円了は、安い授業料(入学束脩[入学金]1円50銭、授業料13円10銭[月謝1円、毎月館内雑費金10銭])で「世の大学講義を経過するの余資なき者の為めに、哲学速歩の階梯を設け、一年乃至三年にして論理、心理、倫理、審美、社会、宗教、教育、政理及法理の諸学、純正哲学、東洋諸学及是等と直接の関係を有する諸科を研修するの捷径を開かんとの主意」から哲学館を設立したとされた(『新聞集成明治編年史』第6巻、484頁)。明治20年9月18日付『東京日日新聞』でも、「湯島切通し上の麟祥院内に設置せし哲学館は、一昨16日仮開館式を執行したり」。外山正一、加藤弘之らの東京帝大教授が開設の辞を述べたと報道した(『新聞集成明治編年史』第6巻、513頁)。

 そして、明治20−22年頃は来日外客は少なからず増加していて、明治21年に、仏教哲学者井上円了が、米国から欧州への船上で、渋沢、益田らの東京商工会とは無関係に、外客接待増加などを論じてゆくのである。明治21年5月25日東京日日新聞は、「文学士井上円了氏は元と仏門に出でて印度哲学とは多少の縁ありたる人なるが、大学を卒業してより以来、愈々同学を好み、孜々として(熱心に)斯道の研究拡張に黽勉(びんべん、精励)せしが、尚ほ欧米に至りて其の実況を見ばやとて、来月上旬先づ米国に、向ひ、凡そ一年を期して欧州各国をも巡遊すると云ふ」と報じた(『新聞集成明治編年史』第7巻、75頁)。

 哲学館の入学者数は多くはなく、経営的に安定しなかったから、「生徒の授業料」だけでは経営は苦しく、円了は各地を旅行し「講演を行ないながら」、真宗寺院・檀家総代農家などから寄付をつのっていた(河地修「井上円了のこと」「河地修ホームページ」)。円了は、この様に苦しい経営にも拘らず、欧米先進諸国の東洋学教育の現状を視察する必要があって、洋行の途に上った(「哲学館の誕生と欧米視察の旅」『東洋大学報WEB』、針生清人「東洋大学学祖井上円了」『東洋大学校友会』)。

 堀雅通氏は、この第一回海外視察を含めて、内外「円了旅行記から円了の観光行動」を考察して、それらはいずれも「触れ合い」「学び」「遊ぶ」という「観光の3要素を備えた・・観光旅行そのもの」であり、「円了の旅行は、自由な旅行であり、そこには常に『学び』と『楽しみ』があ」り、「行く先々で多くの人と交遊(=「触れ合い」)を重ね、人的ネットワークを拡大し」、「とりわけ旅行の最大の「楽しみ」を景観美の鑑賞に措」き、「円了は行く先々で美しい自然と触れ合い、その風光を愛で」るとともに、「訪問地の民俗・風俗の情報収集に努め、著作に著わした」(堀雅通「旅行記にみる井上円了の観光行動と交通利用について」『観光学研究』15号、2016年3月)とした。自然と触れ合うことを最大の楽しみにしつつ、学びを深めていた所に仏教哲学者円了の旅の本髄を見る。

 では、どのように学ぶのか。円了は、「『理』(哲学)を愛することこそが『国』を護る道であって、これがなくなれば『国』は滅ぶ」として、護国愛理を説いた(河地修「井上円了のこと」「河地修(東洋大学教授)ホームページ」)。円了は、船中で外国人旅行者を見聞して、護国の精神で合理的に富国法を考察して、それを雑誌『日本人』に投稿したということであろう。さらに、円了は、「哲学にはひたすら真理へと向かう『向上門』(総合)と、それを応用し利民・済世に資する『向下門』(分析)のふたつが不可欠であると説」いていたというが、これは一般的・総合的法則を解明する上向法と複雑な現実を分析をする下向法とに相通じるものである。「向上するのは向下するためであり、目的は向下門であって向上門はそれを実現するための手段(方便)である、とさえ述べ」ており、「ここには、大乗仏教における『上求菩提、下化衆生(上に悟りを求め、下に衆生を教化する)』とも共通する思想を読み取ることができる」(竹村牧男「井上円了の哲学について」シンポジウム「国際人・井上円了ー其思想と行動ー」2012年9月15日)とも言えよう。一般的に、仏教は衆生教化のために極めて合理的・分析的・総合的(holistic、筆者はブータンを研究していた時、このholisticという語を目にすることが少なからずあった)な考察をするのであり、ここに学びの根幹が含まれているのである。これを考慮すると、円了の国際観光論にも、『向下門』(分析)と『向上門』(総合)とが応用されていたのである。

 円了は、第一回海外視察で、まずアメリカに向い、次いで「余が亜米利加を去りて英国に至るの際大西洋中にありて想出せし新案」(「坐ながら国を富ますの秘法」(3))として、国際観光振興論を具体的に提案したのである。まだ西欧に行ったことはなかったから、日本が参考にすべき西欧観光事情は、アメリカや船上での聞き書きによるものであろう。そして、日本の対欧米認識は、@伝聞(「余が聞く所によるに」とか「余が亜米利加人に遭ふて直接に聞く所」とか「亜米利加人の仏国に遊ぶものを見て」[「坐ながら国を富ますの秘法」2]など)、A自己判断(欧米「世間一般の風習」、「凡そ西洋に来遊せる者第一に驚くもの」、「我が無智の人民にして西洋の事情を知らず遠大の識見なきもの多く」[「坐ながら国を富ますの秘法」3]など)に基づいていた。こうした諸事実を総合的に分析して、富国の法則の一つを解き明かしてゆくのである。

 以下、井上円了は大西洋上の英国行の汽船の中で、「坐ながら国を富ますの秘法」=国際観光振興論を執筆して、これを『日本人』(第16号、17号、20号)に投稿したのである。この井上円了「坐ながら国を富ますの秘法」の全文が、堀雅通「『坐ながら国を富ますの秘法』にみる井上円了の観光立国論」(『観光学研究』16号、2017年)に付録として収録されているので、以下、これに依拠して井上国際観光振興策を考察してみよう。

                           @ 日本富国論−秘法

 従来の富国論批判 「日本国をして万国に競争し万国に対峙せしむるの方法」の最優先事項は「国を富ます」という事であり、これは「誰も喋々する所」であり、「別して欧米各国を巡観せし」者は皆「富国の急務を説」くとする。しかし、「如何なる方法によりて国を富ますべきか」になると、「各異にして未だ一定の目途立た」ない。その多様な富国論は、「遠く富国の原因を養成せん」とする「原因論」と、「近く富国の方法を実行せん」とする「実行論」とに大別できるとする(井上円了 「坐ながら国を富ますの秘法」1『日本人』第16号、明治21年11月発行)。

 前者の原因論の大要は、「我人民未だ世界の大勢を知らず、国外に如何なる強国あるか、我邦は今日如何なる地位に住するかを知らざるもの多」く、故に「我人民より富めるはなし」と安住し、「更に奮発勉励するの気力を有せず」、「更に協同団結するの精神を存せず」、これが「国の富まさる原因」とし、ここに「此気力精神を発育して富国の原因を養成すれば富国の結果立ちどころに致すべし」とする。奮発勉励の気力で会社結成などの団結精神を発揮すれば富国にいたるというのである。円了は、「其説実に可なり」だが、「我邦人をして尽く此気力精神を有せしむるに至るには」「教育と経験の二者」が必要だが、前者には費用、後者には年月がかかるとして、これは実現が困難とする(井上円了 「坐ながら国を富ますの秘法」1)。

 そこで、「実行論」が先務となるとする。この「第二の方法論」の「諸説の大意」は、@「国を富ますの方法は兵備を拡張するにあ」るという事(強兵説)、A「富国の要は製造殖産の事業を盛んにして製産物を増加する」という事(製産説)、B「商業運漕の便を開き通商貿易を盛んに」し国を富ますという事(通商説)、C「日本中の貧民を外国に出たし」働かせて送金させて富国にするという事(出稼説)になるとする。円了は、以上の諸説について、@の強兵には「非常の金を要する」とし、Aは「日本従来の製産」は「外国人の需用甚だ少なきを以て、之を拡張するも其益なきは明か」であり、一方、「米国などにて行はるる所の産業を盛ん」にするにしても数年の歳月と「夥多の費用を要する」とし、Bは貿易立国英国との競争の圧力で「実行し難きことを知るべし」とし、Cは「万止むを得ざる窮策に過きざるなり」と批判的に紹介する。さらに、この四説の難点を批判して「今日に実行すべからず」、「国を富ますの方法は他の策によらざるべからず」として、新たに「平易即時に実行すべきもの」で「世間未だ其説を主唱するものあるを見」ないものを「坐ながら国を富ますの秘法」と名づけるとする(井上円了「坐ながら国を富ますの秘法」1)。

 円了の富国秘法 この「国を富ますの秘法」は先きの三説(強兵説。製産説、通商説)に比するに「最も平易」、「即時に実行」できるものであり、その法は「唯、日本国内に壮大安逸の旅館を設立して外人の来遊を引く」だけだとする。これは、「国を富ますに足らざる様なれども決して然らず」であり、その「理由を述ぶるに当り先づ其方法を明言」すれば、@東京、横浜、大坂、京都、奈良、日光、箱根、松島など「日本国内の名所都会」に壮大の洋館旅館を設立し、A桑港、香港、薪嘉堤、等の各所に「旅行手引土地案内地図等」を配附することだとする(井上円了「坐ながら国を富ますの秘法」1)。しかし、両者を本格的に準備するとすれば、@これに呼応する民間資本が十分に存在しているのかどうかは疑わしく、A仮にいたとして、準備・設立までに数年はかかり、「即時」「平易」という訳にはゆかないであろう。

 しかし、円了は、この二つは「先きに挙ぐる所の三説に比して平易にして実行し易く且つ利益ある所以を証するには先づ先きの四点に考へて利害得失を論ずるを要す」とする。つまり、@「旅館を設け道中記を作ることは一両年の間に為し得べき」であり、「此事業は時日を費さずしてにして今日今時にも実行すべきこと」、A旅館・道中記など「此事業は資金を要すること少なくして過分の利益を得べ」き事、B「二三の洋館を設け地図を作るは今日今時より実行することを得べ」き事、「此事業は日本今日の事情に最も適」し、且つ、「我邦は此事業を実行する」に美しい山川景色、よい四季、礦泉海浴の便、多数の霊地旧跡、古代美術等があり、C「旅館を設立して外人の来遊を引く」事は平易であり、イタリア、フランスと同様に日本人は「風雅の思想に富み美術の才に長」じており、日本を「欧米各国人の来遊場となす」は困難ではないとする(井上円了「坐ながら国を富ますの秘法」1)。

                          A 富国秘法の直接的利益

 欧米旅行者の訪日誘引 これまで「国を富ますの秘法」が「平易にして実行し易き所以を述べた」ので、以下では、「秘法は果たして国を富すことを得るや否」を考察するとする。まず、日本の外国人誘引について、@旅館・食用で改善されれば、日本は香港、上海、印度、新嘉坡等の熱地にある欧米人の避暑地となりうる事、A壮大旅館が設置され、「細密の道中記」でアメリカ、カナダ、オーストラリア国民が風景・気候の良さを知れば、欧州避暑地を訪れていた「数万の米人」が訪日する事、B「精細の土地案内を作り」「本の如き良気候」を宣伝して適当の旅館を建設すれば欧州諸国民を誘引する事を提唱する(井上円了「坐ながら国を富ますの秘法」2『日本人』第17号、明治21年11月発行)。@、A、Bは、益田孝の外国人接待協会の構想でも触れられていた。こういう外客の観光需要があること、最適案内所の重要性は、円了以外にも知られていたということである。しかし、西洋風ホテルを造るといっても、誰がつくるか、どのように経営するかなど諸問題がある。簡単に単純に作れるものではない。

 次に、円了は、日本の観光上の好立地条件を詳述する。@日本は夏は避暑に適し冬はロシア、シベリの避寒地の両便ある事、A日本鉱泉などは「病客及び衰弱者の補養を求むるに適し」「歴史上の古跡多く且つ東洋の文物」は考古学者等に益があり、「千百年来発達せる一種の美術遊興」は「来遊者の歓楽を引くの便あ」る事、B日本の物価安く、外国貨幣の価値高く、「亜米利加人の英仏諸邦に遊ぶより日本に遊ぶは大に費用を節減する」事、C欧米人は旅行周遊の風習があり、特に新奇見聞を好む事、D世界周遊者には日本は欧州と米国の中継地である事、Eやがて「欧州と日本との間に一直線の航海を開くに至」れば「益来遊者の数を増加するは必然」である事、Fシベリア鉄道が完成すれば「欧州人の日本に来遊するに非常の便を興ふる」事などを考慮すると、「我が日本に適便の旅館を建設すれば毎年五千人乃至一万 の外国人を入るること、至て容易なり」とした(井上円了「坐ながら国を富ますの秘法」2)。これらは、円了の国内旅経験、船中での情報などに基づいていたが、明治20年に既に7千人の外客が来日していたから、円了施策を実行する前に外客はかなり来日していた(弘岡幸作、後述)。だとすれば、円了の外客増加策で1万人以上の外客が訪れることになろう。

 観光の通貨換算価値 円了は、外国人接待協会試算と同様にフランスをモデルにした。つまり、「仏蘭西は其国固より過多の物産ありと雖も余が聞く所によるに仏国の富は輸出物産より得るにはあらずして外人の来遊せる者より得ると云ふ」から、「其外人の来遊より得る所の金は極めて大なること明か」だから、日本も「其旅客より得る所の金は一国歳入の一部分となり国を富すの利益あるは必然」とした。そこで、円了は、「毎年千人の遊客各百円を費すときは其得る所の金十万となる」として、5000人なら250万円、1万人で千万円になるとした(井上円了「坐ながら国を富ますの秘法」2)。しかし、一人当たり消費額が、千人の旅客時は100円、5千人の旅客時は500円、1万人の旅客時は千円とする根拠は不明である。このように、円了は、外国人接待協会、喜賓会とは異なって、具体的に外客増加が富国をもたらすということを消費額=「国内に落とす正貨」額で見たのである。
   
 そして、円了は、「数百万乃至千万の金は決して少額にあらず。即ち国を富ますの必要の部分となること明かなり」とする。明治23年歳入規模は1億650万円であるから(江見康一・塩野谷祐一『長期経済統計』7、財政支出、東洋経済新報社、1966年)、確かに千万円になれば、国家財政の10%余を占めることになる。同年の輸出高5780万円、輸入高9140万円、差引2980万円の入超であるから(大川一司『長期経済統計』1、国民統計)、入超一部の補填にもなる。「今洋館を設立するも其一両年間は兎ても数千人の旅客を集め数百万の金を得ること難しと雖も、其人員次第に増加して僅々五六年の後には数百万乃至千万の金を入ることを得べ」き故に、「今仮に四五年後の予算を立てて毎年平均五千人の旅客来りて各五百円を費し其得る所二百五十万円なりと定めて然るべし」(井上円了「坐ながら国を富ますの秘法」2)とする。「毎年平均五千人の旅客」という想定は、現実的で妥当な想定である。

 また、円了は、「仏国は之れによりて大金を得るも日本は彼れが如く過分の旅客を引き過分の金円を得ること能はず」という批判に対して、「我邦は 東洋に僻在せるを以て・・香港上海印度諸方にある人民及び豪州、亜米利加、桑港、加奈陀等にある人民(毎年二三千人乃至一万人位)は容易く引き入るることを得べし」として「我邦相応の利益あること明かなり」と反論した(井上円了「坐ながら国を富ますの秘法」2)。

 且つ円了が「最も注意せざるをゑざる要点」として、@「避暑養病に漫遊する旅客は相応に富貴なる人」である事、A「 此の如き旅客は・・一ケ月若くは四五ケ月の長き時日の滞在なること」、B「此の如き人は通常の旅行人よりは余分の金を費すの傾向あること」と、消費力の大きさを指摘する。そして、円了は、「此事情によりて考ふるに毎年旅客より二百万若くは五百万位の金額を得るは決して難きにあらざるべし。故に余は旅館設立の後は五六年を待たずして毎年二百五十万の金を得べしと信ずるなり」と推定する(井上円了「坐ながら国を富ますの秘法」2)。

                             B 富国秘法の間接的利益        

 円了は、以上の「秘法によりて得る所の直接の利益」の外に「間接の利益」が甚だ多いとする。この「間接の利益」には、「間接中の直接と間接中の間接と二種ある」とする(井上円了「坐ながら国を富ますの秘法」3、『日本人』第20号、明治21年12月)。円了が、外客が来日中に日本諸物産の良さなどを知れば、それらの輸出が増加すると説く。これは経済学など知らずとも、論理的に考察すれば、判明することである。

 直接の利益 前者の「間接中の直接の利益」として、@旅客は在留費のみならず「必ず日本の物産諸品(帰国すれば「高価の品」となる)を買入れ」、「是れより得る所の利益は却て直接に得る所の利益より多かるべ」き事、A「従来西洋人の愛するもの(例へば絹、茶、陶器、漆器類)の外に」「外国人日本品の用を知るに至」り、これ等の輸出が実施される事、B日本の米、茶、酒、醤油等の味を知り、これらが西洋で飲用されれば、「日本の輸出を増加し其日本の産業を盛んにする」事、C外国人が来日中に「日本風の装飾遊興を好むに至」れば、「日本品の輸出を増すは勿論日本の職工画師技芸師楽人碁客に至る迄外国に出でて職業を嗜むに至」り、この「利益亦必ず大なるべし」とする(井上円了「坐ながら国を富ますの秘法」3)。

 間接の利益 後者の「間接中の間接の利益」として、@輸出品増加すれば、その輸出品を製造する日本在来産業従事者の利益が増加し、「下等の貧民も大に其位置を高め、遊惰の人民も随て職業を勉励するに至」り、「日本人の産業を盛んにするの益あること」、A「西洋人中既に一たび日本に来遊し実地日本の事情を見聞したるものは其開化の度遠く支那の上に位するを知り、且つ其人民の将来大に為すべき力あるを知」れば、「我が多年来企望する所の条約改正も立たちどころに実行することを得る」事をあげ、「間接中の間接の利益」も頗る多いとする(井上円了「坐ながら国を富ますの秘法」3)。日本の開化度の現状の高さと将来的発展力を知れば、外国人誘致が条約改正を有利にするとしていることも注目される。

                                C 富国秘法の総括           

 利益 「以上論じ来る所之を約言」して、「坐ながら国を富ます秘法」は「至て実行し易くして其益亦至て多きもの」であり、想定利益250万円にとどまらず、「間接より得る所の益を合算すれば毎年幾千万の利益」を得るとする。

 注意点 最後に、「此秘法を実行するに当りて要する所の注意」として、@「旅館は成るべく壮大を要し」、館内では「旅客に安逸快楽を与ふる様に注意すべし」、A「 内地の旅行はすべて車行の便を計り、案内者を設け」旅行を円滑する事、B各地旅館は共通規則を定め、「丁寧安直に旅客を接する様に注意すべし」、C案内道中記は「世界の各地に配附し欧米各所の各汽船汽車停車場旅店にも数部を配附すべし」とする(井上円了「坐ながら国を富ますの秘法」3)。国内旅行で旅慣れていた円了だからこそ、旅行者が快適に旅行できるように心配りしている。Bなどは、実際に外客増加してくると、人を見て、料金を吹っ掛けることも行われて、外客を不愉快にすることの倫理的規制である。

 一大観光会社 この方法を実施するには「世間の有志者にして西洋の事情を知り且つ財産ある者共同して一大会社を設立」し、その一会社より「各地に壮大の旅館を分設し、規則を一定し、専ら旅客の信用を失せざる様に注意する」ことが必要だとする(井上円了「坐ながら国を富ますの秘法」3)。ここで、初めて円了は株式会社で社会的資金を集めて一大観光会社を結成して、これが各地に大ホテルをつくる事を明らかにするのである。円了には経済学の知識もないのだが、当時の企業勃興期の日本では各地に国立銀行、紡績会社、鉄道会社が株式会社に依って社会的資金を集中して設立されていたことを目撃していたのである。これを踏まえて一大観光会社をつくれと提言したのである。これは、外国人接待協会、喜賓会、高橋是清建言、東京商業会議所助言などにもみられない斬新な提言である。極めて独創的でもある。

 円了は、この一大会社の設立の注意点として、@「我邦の山川の風景を保存すること」、A「我邦の旧地古跡社寺等を保存すること」、B「絵画彫刻古器物を保存すること」と自然資源・歴史資源の保護を打ち出し、C「美術を奨励」し」、D「鉄路を駕する(乗る)に成るべく風景の宜き地を揮(ふるわし)」め、E「公園遊場博物館等を修繕し且つ益之を盛大にする」と、文化的満足・充足を主眼とせよとした(井上円了「坐ながら国を富ますの秘法」3)。円了にとって、一大株式会社による国際観光振興論は、日本固有の「言語・宗教・歴史」・「風俗・習慣」を毀損することなく、その「改良保存」の手段となるように配慮するものであった。

 当時の西洋来遊者が「第一に驚くもの」は、「旅館のよく旅客の便を計り、之れに安逸快楽を与ふる様に注意の届きたる」事、「旅館の案内記道中記等のよく其客を引くの注意の至れること」だとする。そこで、日本で「一大会社を設立して此法を実行する」時は、「欧米同様の旅店及び手続を国内の各地に見ることを得るは至て容易なる事業」とする。これは、洋式工業移植により工業国になることよりは「至りて平易にして実行し易き事業なり」とする。「此方法によりて得る所の利益」は「毎年幾千万金」以上だとする。故にこれは「今日今時の急務」だとするのである(井上円了「坐ながら国を富ますの秘法」3)。

 この秘法を実行すれば、兵備拡張策、製産奨励策、通商振興策が不要になると言うのではない。「唯此等の諸事業は即今即日に実行すべからざる難事なれば、漸々に実行するの方法を取るより外なし」とする。これに反して、「余が国を富ますの秘法は即時即日より実行すべき方法なれば、此方法より始むべしと云ふの意なり」とする。円了が、この国際観光振興論の推進主体として一大観光株式会社を提唱したことを考えれば、即時という訳にはゆかないとしても、順番を辿って、論理的に着実に推進してゆけば、この国際観光振興論は短期に結果を見るものであったろう。決して机上の空論ではない。

 確かに、かように儲かるものならば自然に大株式会社形態のもとでホテルは族生したであろうが、現実には帝国ホテルなど少数にとどまるし、後述のように日露戦後にはホテル不足問題が深刻化すらしたのである。一大会社による全国ホテルチェーンが成立しなかったとすれば、そこには外国人相手のホテルには季節性や予見できない諸事情(戦争、革命など)など固有の問題があったからであろう。従って、こうした大会社のもとでホテル族生するには、円了が見落とした一定の政府保護とか工夫が必要となったかもしれない。

 さらに、中島敬介氏は、この「坐(い)ながら」とは「日常的で平和な状態」を表し、戦闘・競争的な「威(いきほひ)て〉」と対比されるものであるとする(中島敬介「明治21年の「リゾート」開発構想 ―井上円了の「坐なからにして国を富ますの秘法」を読み解く― 」『国際井上円了研究』7、2019年)。ただし、「一たび此方法を実行して利益を得るに至れば、此利益を以て或は兵備を拡張し或は器械を購求し或は製造場を設立することを得べし」として、円了は強兵を否定するものではない。これを含めて、実にこの秘法とは骨格においては一大株式会社によって「坐ながら国を富ます秘法」であったという事である(井上円了「坐ながら国を富ますの秘法」3)。

 「坐ながら」の当時一般の用法は、明治39年衆議院で議員浅羽靖が「坐して目の前に客を迎えて、続々之に供給する所のものが殖えて来たならば、日本の富は実に??植君の予想外にまで達する」(明治39年第23帝国議会「委員会議事録」[国会作成のPDF])と指摘しているように、ホテルなどの外客接遇商売が座貿易と把握されていたのである(後述)。

 それにとどまらず、このように、この「坐ながら」秘法とは武力なくしてという意味を込めていたとするならば、ここには、円了10歳の時に長岡藩軍事総督河井継之助が官軍軍監岩村精一郎と恭順談判をして戦争を余儀なくさせられた薩長藩閥政府への批判も一定度こめられていたであろう。長岡人は回避できた戦争を薩長に余儀なくされたと見ており、長岡では「子供たちに学問をさせ、中央へ出て賊軍の汚名を晴らすような活躍をさせる」ことが、「長岡の主だった人たちにとっての暗黙の了解事項」(工藤美代子『山本五十六の生涯』幻冬舎文庫、平成23年、34頁)であった。成績優秀な円了が文部省等からの誘いを断ったのも、薩長藩閥政府を嫌って継之助のように独立特行の哲学者の道を選択したのであろう。秘法としたのも、薩長藩閥政府の富国強兵策への批判的対案という意図も込められていたのであろう。円了がこれを発表する四年前に長岡に生まれた山本五十六は、薩閥海軍に入り旧朝敵として何度も苦渋を飲まされつつも隠忍自重して海軍大将・連合艦隊司令長官にまでなって旧朝敵の汚名を晴らしたが、「坐ながら」秘法ではなく、真珠湾奇襲戦法で米国太平洋艦隊に壊滅的打撃を与えて米国士気を阻喪させ短期に終戦に持ち込もうとした。円了ならば合理的判断のもとに「坐ながら」秘法に徹して日米開戦を回避したであろう。

                              D その後の円了 

 円了は、船中で旅行する欧米人を見て愛国精神から一大株式会社を基軸に合理的に観光富国論を説いて国民生活の向上を考えたのだが、帰国後に円了は本分ともいうべき哲学館の充実、諸学の基礎たる仏教哲学の発展に従事し、その後の半生は修身教会・国民道徳普及会による社会教育に携わった(佐藤厚「井上円了の社会的実践−国民道徳論の構想と実践」『日本仏教学会年報』81号、2015年)。明治22年11月1日付『郵便報知』は、「哲学館は先に館主文学士井上円了氏が欧州より帰朝せ之以来、漸次拡張して日本国学主義の私立大学となすの計画にて、予て駒込蓬莱町へ新築工事中なる館舎も既に竣工せしを以て今回移転し、愈々その規模拡張に取り掛かれり」(『新聞集成明治編年史』第七巻)と、こうした円了を報道している。そうした円了哲学人生からすれば、国際観光振興は脇役にとどまらざるを得なかったというべきであろう。円了は、喜賓会役員でもなければ、農商務省顧問でもなく、哲学館主宰であり、ここで展開した国際観光振興策は哲学館や修身教会では活かしきれなかった。それに、喜賓会という国際観光振興機関も誕生しており、円了の政策と基本的に同じような趣旨であれば、それに委ねればいいことになろう。

 円了にとって、この最初の欧米旅行で得た最重要な事とは、「欧米各国のことは日本に安座して想像するとは大いに差異なるものなり」という強い印象であり、「日本の独立のためには欧米のものを取り入れるだけでなく、固有の文化や風俗を改良保存することが必要と考えるようになり」、「後に東洋部を主とし西洋部を副とする哲学館の学科改正を行」ったのであった(東洋大学教授三浦節夫「井上円了の世界旅行」シンポジウム「国際人・井上円了ー其思想と行動ー」2012年9月15日)。

 しかし、仏教を世界最高の哲学とする井上円了の観光振興論は、観光政策史上で先駆的意義をもつ一つとして見落としてはならないであろう。
新聞、雑誌の記者、編集者の中には、この『日本人』論文を密かに保存して、政府の財政経済政策批判に援用できる日を待つ者もいたかもしれない。

                             5 喜賓会の設立

 円了が秘法を雑誌『日本人』に発表してから4年後に、この円了構想ではなく、頓挫した外国人接待協会の延長線上に喜賓会が実現をみることになる。

 明治23年5月農商務大臣に就任した陸奥宗光は、農商務省商務局次長廃止、商業会議所法案は「議了」とし、南貞助留任を否定していた。そこで、晋作門下の長州閥は貞助続投を画策する。23年8月28日、伊藤博文は芳川顕正に、「南貞助の事 陸奥え御談示の処、本人勤続之意なれば現職の儘にて差置との同大臣返答」だったが、「陸奥の口上」が「過日来」と異なるのは、「頗る訝(いぶか)しき事」だから「山県伯と篤と御示談被下度」とした。しかし、24年に貞助は「突然非職(官職地位は残るが、職務は罷免)命令」を受け(中島敬介「南貞助試考ー日本の近代観光政策を発明した男」)、農商務省の外客振興策の表舞台から消えることになる。

 喜賓会 明治25年、益田発起から約5年後に、上述の外国人接待協会が、喜賓会として実現を見た。『詩経』小雅篇にある「我有嘉賓 中心喜之」(我ニ嘉賓有リ 中心之ヲ喜プ)という一節から、会員の一人である文学博士子爵末松謙澄がつけたと言われる。王族・貴族・富裕層からなる外国貴賓を歓待するというのである。英語で表記すれば、喜賓会はThe Welcome Societyであり、外国人接待協会と概ね同じである。周知の如く、観光の語源は、『易経』の「観国之光 利用賓于王」(「国の(徳の)光を観て、用て王に賓たるに利す」)からきていて、国・地域を観察して、徳が盛んな様(光)を見たら、その王(徳高き王者・為政者)に仕えるのが良いという君臣関係をさしている。故に、喜賓会は、国の自然・歴史資源のすばらしさに触れて、賓客を満足させるくらいの意味で使われるようになったようだ。

 白幡氏は、「喜賓会が関心を持ち、熱心に尽くした」のは、「少数の外国人観光客のうち、貴顕紳士に紹介の労をとる必要のあるさらに少数の賓客」であったとする(白幡洋三郎「異人と外客ー外客誘致団体『喜賓会』の活動について」[吉田光邦編『十九世紀日本の情報と社会変動』京大人文科学研究所、1985年])。その点では、喜賓会は、「はからずも『外人の来遊を引くより外なしと考へ』た円了の提言を実現する機関となった」(堀雅通「井上円了の観光論 」International Inoue Enryo Research『国際井上円了研究』6.2018年)ものではない。喜賓会と井上円了との間には直接的脈絡はない。

 設立 外国人接待協会が日本で構想された最初の外客増加団体だったとすれば、喜賓会は、日本で実現を見た「外客誘致に取り組んだ最初の団体」(中村宏「戦前における国際観光(外客誘致)政策ー喜賓会、ジャパン・ツーリスト・ビューロー、国際観光局設置」[『神戸学院法学』36−2、2006年12月])である。

 観光モデルはスイス 明治25年10月、発起者が集まって、「我国山河風光の秀、美術工芸の妙、夙に海外の称賛する所となり、万里来遊の紳士淑女は日に月に多きを加ふるも之を待遇するの道備はらず、旅客をして失望せしむること尠からざるを遺憾とし、同志者深く之を慨し、遠来の士女を款待し、行旅の快楽観光の便利を享受せしめ間接には彼我の交際を親密にし、貿易の発達を助成するを以て目的」とし、「事務所を帝国ホテル内に設け」(「喜賓会解散報告書」同会本部編、3−7頁、大正三年三月刊 [『渋沢栄一伝記資料』 第25巻、456頁])るとした。外国人の賞賛する「山河風光」「美術工芸」などで観光客を増やし、その事によって貿易発達を助成するというのである。

 この主張が荒唐無稽でないことは、明治25年10月20日東京朝日新聞「外客の日本好き」という記事に、「目下帝国ホテルに滞在中なる米国紐育新英蘭(ニューイングランド)鉄道会社長米人チャーレス・パーソンス氏は夫妻とも至極の日本好きにて茶の湯生け花のたしなみもあり。本国に在りても常に我国の料理人を雇い置く程なれば、今度渡来を幸い、呉服町三固商会に依頼して、一両日中本所瓦町旧佐竹邸に移転し、純粋なる日本風の生活を為すよし」とあることから確認される。外客の中にはかなりの日本文化愛好者が存在していた。

 こうして、、明治25年頃から「我国で海外観光旅客を歓待することを必要とし、朝野の間に論議しはじめられ」たのである。「特に熱心な主唱者」は渋沢栄一、蜂須賀茂韶.益田孝であり、遂に同年10月に「政府の大官、有力の華族.実業家、其他欧米に於て新知識を得て帰朝したる紳士等の共鳴賛同」により、喜賓会が東京に成立した(弘岡幸作「外客誘致策の今昔所感」『竜門雑誌』第493号、昭和4年10月、『渋沢栄一伝記資料』 第25巻、460−1頁)。明治25年11月2日付『読売新聞』は、「三宮義胤・中田敬義・大倉喜八郎・横山孫一郎の諸氏が発起にて今度喜賓会なるものを設立し、協会組織として本邦漫遊之外国貴賓遊説の便利を謀るといふ」と報じた。

 もうすこし詳しく喜賓会の役員を見ると、@会長は侯爵蜂須賀茂韶、A幹事長は渋沢栄一、B幹事は横山孫一郎(大倉組、帝国ホテル支配人)、鍋島桂次郎(外交官)、益田孝(三井物産社長)、三宮義胤(宮内省式部次長)、福沢捨次郎(福沢諭吉次男、山陽鉄道技師)、侯爵木戸孝正、C評議員は井上勝之助(井上馨養嗣子、外交官)、岩下清周(三井銀行)、大倉喜八郎(貿易商社大倉組商会)、小野義真(日本鉄道社長)、若宮正音(工部省電務局長)、吉川泰次郎(郵便汽船三菱会社東京支配人)、高田慎蔵(貿易商会高田商会)、園田孝吉(横浜正金銀行頭取)、辻久米吉、(三井銀行理事)、中田敬義(榎本武揚外務大臣秘書官)、梅浦精一(石川島造船所の常任委員、渋沢知人)、矢野次郎(東京高等商業学校校長、渋沢・増田の知人、旧幕臣)、曲木如長(大審院、旧幕臣)、古沢滋(逓信省郵務局長)、荘田平五郎(三菱社)、平岡煕(汽車製造の匿名組合平岡工場)、森村市左衛門(貿易商社の森村組)、末延道成(明治生命保険・明治火災保険各取締役)、J.H.ブリンクリー(ジャパン・メイル主筆)、J.コンダー(建築家)、H.W.デニソン(外務省顧問)、ジエームス(「喜賓会解散報告書」同会本部編、3−7頁、大正三年三月刊 [『渋沢栄一伝記資料』 第25巻、456頁])である。ここから分かることは、?実業人15人(渋沢栄一、横山孫一郎、益田孝、岩下清周、大倉喜八郎、小野義真、吉川泰次郎、高田慎蔵、園田孝吉、中上川彦次郎、梅浦精一、荘田平五郎、平岡煕、森村市左衛門、末延道成)、?外交官3人(鍋島桂次郎、井上勝之助、中田敬義)、?官僚3人(若宮正音、曲木如長、古沢滋)、?華族・皇室3人(蜂須賀茂韶、木戸孝正、三宮義胤)と、役員には圧倒的に実業人が多いことである。

 明治26年5月、設立総会で、喜賓会幹事長渋沢栄一は、設立趣旨として、@汽船・汽車整備で来遊の紳士淑女は「我国山河の秀、風景の美を欣慕し、物産工業を称賛して」来日する者が「数を増し、陸続踵を接」していると、外客増加傾向に触れ、Aしかし、日本には、「之を待遇するの道」が「備わらずして来遊の意を満たしむる能わず」とし、現状の日本の受け入れ体制の不備を指摘し、B具体的に、「陳列場の整備」によって「来遊の嘉賓が千類万種の天造人製を観んと欲する」希望を満たし、博物館を充実して「精妙珍奇の美術絶品を覧んと欲する」希望を満たし、「倶楽部若くは集会所」を整備して、「朝野知名の人士に会して国情を聴かんと欲する」希望を満たし、「嚮導(案内)の書」を整備して「名山大川の勝を探り、水明山媚の秀を見んと欲する」希望を満たすべきとし、Cこれに対して、「欧洲諸国の士女」はスイスを「世界の楽園」なりとし、「交通運搬、旅舎嚮導等の如キ、凡そ来遊者の為にするもの便宜として具備せざるはな」く、「侶伴相群して漫遊する者」が常に絶えることなく、「年々歳々数万の来遊者を招致する所以」であり、この結果、「瑞西一国の富饒の実に来遊者が齎す所の資に基く者なり」と、観光富国論を説き、D日本は「山河風景の秀麗なる、遊賞行楽に適宜なる」ことは、「決して瑞西に譲ら」ないし、その区域は「寧ろ大にして更に優るあるを疑はず、其瑞西と東西相対して天与の楽園」であるのに、日本の観光客数が少ないのは、「未だ招致するに足るの便宜を備えざるが故なる耳(のみ)とし」、Eそこで「新に喜賓会を創立し、聊以て此の闕(不備)を補ふの階梯たらんと欲す」(『青淵先生六十年史』竜門社編[『渋沢栄一伝記資料』第二巻、635−638頁])とする。ここでは、フランスではなく、スイスを観光モデルとしているのは、この時点の日本の観光資源を「山河風光の秀、美術工芸の妙」にするとしたからである。パリのような都市観光をモデルとすれば、スイス型では不十分になる。

 因みに、スイスでは当時どれくらいの観光客を集めていたのであろうか。明治25年4月28日露国官報によると、@瑞西に於ける大小の旅館は6万人の宿泊に差支屁なき房室を設備」し、A昨年の「夏季中旅館に宿泊之内外旅人数は平均毎日3万1260人」で、独逸人7940人、英吉利人7503人、亜米利加人4086人、瑞西人4011人、フランス人3377人、ベルギー・オランダ人1206人、伊太利人844人、露西亜814人である(明治25年6月128日付『読売新聞』)。夏季には延べで99万人の多数観光客を集めていたことになる。設立当時の『読売新聞』に掲載されていたから、喜賓会は、スイス訪問の観光客数をこれで把握していたあろうが、とてもこういう人数を目標にすることはなく、あくまで少数の貴賓を念頭にしていたようだ。

 設立趣旨を演説したのは、蜂須賀会長ではなく、渋沢幹事長であったということに留意しなければならない。喜賓会という非営利団体が以後20年間何とか活動できたのは、商業会議所会頭を兼ねていた渋沢の支援であった。資料による限り、蜂須賀は毎回役員会に出席して、当初は京都に支部を置こうと活動したこともあったが、事実上の活動の大半はほぼ渋沢の双肩にかかっていた。

 活動方針 渋沢らは、この喜賓会の活動方針は、訪日客を満足させ、大きな経済効果を得る事にあった。つまり、@その目的は「務めて来遊者の為めに便宜を得せしめんと欲するにある而已」であり、A現在鉄道、運河は、「東西に盛にして、我国の地勢正に交通往来の咽喉たらんとす、来遊者の日を逐ひ月を経て益々其多を加ふること、弁を俟たずして明かな」るから、「若し此の来遊者をして遊賞行楽の具を充し、会合購買の便を得、世界の楽園と称せしむるに至らば、彼の瑞西を凌駕するに至るも亦決して難きに非ずして、寔に彼我の双益たり、之を奈何ぞ委棄して顧みざるべけんや」、Bかつ「物産の美」、「製作ノ妙」を一見させれば、「我国許多の産出をして広く宇内に使用せしめ、以て我利源の益々深きを計」ることになり、Cさらに、案内人を充実して、「嘉賓の来るに際し、時に或は相会して農に工に商業に殖産に、政治風俗に、文学美術に之を談し、之を話し、遊賞行楽、跋渉登臨と倶に彼の観風の資に欠遺なからしめ」ないようにすれば、嘉賓を満足させるだけでなく、「我を利益する所」は少なくないとして、喜賓会の創立主眼は貴賓を満足させることだとした(『青淵先生六十年史』竜門社編[『渋沢栄一伝記資料』第二巻635−638頁])。日本の経済的利益は副次的に把握した。

 活動内容 これに基づき、本会の綱領として、@「旅館の営業者に向て設備改善の方法を勧告すること」、A「善良なる案内業者を監督奨励すること」、B「勝地・旧蹟・公私建設物・学校・庭園・製造工場等の観覧視察上の便宜を謀ること」、C「来遊者を款待し、又我邦貴顕紳士の紹介の労を執ること」、D「完全なる案内書及案内地図類を刊行すること」(「喜賓会解散報告書」同会本部編、3−7頁、大正三年三月刊 [『渋沢栄一伝記資料』 第25巻、456頁])を定めた。

 この喜賓会は、貿易事業や大資産をもつ会員が会費を出して、賓客と言う特定外客の日本旅行を便利快適にするための業務に限定して、活動するというものであった。当会は、あくまで非営利団体であって、外客一般の日本旅行を収益対象にする私企業ではなかった。
              
                      二 条約改正(治外法権撤廃・内地開放)後の観光政策論

                          1 条約改正前後と外客増加傾向

 治26年後半、シカゴ・コロンブス博覧会(26年5月ー10月、来場者2750万人)の見学者が日本観光を組み合わせたことから、外客が増えた。つまり、「本年(明治26年)はシカゴ博覧会見物の帰途、我国に漫遊する外国人頗る多く、去る六日には帝国ホテルに八十余名の外人宿泊し、今尚三十余名止宿し居る」(明治26年10月13日付『読売新聞』)となる。なお、日本も参加し、日本庭園はシカゴ市に寄贈され、今も残っている(The Official Website of the Chicago Park District)。


 明治27−8年の日清戦争後は、「世間一般に排外思想が猛烈であり、其(国際観光)の事業の進捗は頗る困難であつた」(弘岡幸作「外客誘致策の今昔所感」『竜門雑誌』第493号、昭和4年10月、『渋沢栄一伝記資料』 第25巻、460−1頁)。

 しかし、戦勝は外客を引きつける。明治29年9月8日東京朝日新聞によると、「外客しきりに来る 近来外客の渡来する者多きを加え、已に昨日横浜に入港せしインプレス・オブ・ジャパン号にても上等客のみにて百人以上乗組み来りたりと」とある。また、明治29年12月16日東京朝日新聞「外客の外相訪問」には、ロンドン・タイムズ新聞社は、「東洋列国の通信を掌」り東邦局を新設したので、「右に関する要務を帯びて」チャード局長がジャパン・メール記者プリンクリーと一緒に大隈外相を訪問して「一時間余談話」した。これは、英国が日本を東洋の一拠点として認め始めたことを示唆する。

 30年6月には英国ヴィクトリア女王の在位60周年記念式典が挙行されると、西欧貴賓の多くはこれに参列したので、7月の訪日外客は減少した。その結果、「例年夏季には外国紳士の我邦に渡来する者多きに反し、本年は割合に少数なるを以て内地の各美術商、各地のホテル等は失望し」たのであった。しかし、「英国女皇即位60年祝典」に参加した「これ等の紳士は帰国の途につき、中には本邦に立ち寄り内地見物の考へにて出発したるも随分多数なる趣、横浜居留地グランドホテルに案内ありしと云う」(明治30年7月14日東京朝日新聞「漫遊外客」)とあり、英国ヴィクトリア女王即位式典参加者が戦勝国日本に流れ込みつつあった。

 そういう中で、明治32年に「外国人の内地旅行制限が解かれ」、外客は増加傾向を示したが、33年には北清事変(義和団事件)のため外客数は「32年に比し二割を減じ」たが、「各開港の調査によれば上等旅客のみにて二万九百人あり。これらの旅客が本邦滞在中に費消する所の費用は少なくとも一人一千ドルに下らざるべく、今仮に一人の消費高を一千ドルとせば、実に二千九十万円の巨額にして、その利益はなはだ少なしとなさず」というものだった。これを踏まえて、34年に、「或人」は「将来益々彼らの来遊を促すこと最も肝要なるが、其方法の第一着として港口、税関、交通、旅舎などの設備を完くするなど、日本の事情に通ぜざる将来の外人をして意を安んじて全国を漫遊せしむるの用意肝要なるべし」とした。「近年」の一般的趨勢として「観光外客の渡来する者著しく増加し、殊に毎年桜花の頃には便船等に多数の来遊者」が見られるようになっていたのである(明治34年6月17日付東京朝日新聞「観光の外国人」)。

 明治38年条約改正は、外国人居留地制度を廃し、国内雑居の開始、外国人の国内旅行の自由化をもたらして、ホテル開業には好機到来となり(木村吾郎「日本のホテル産業史論」)、国際観光の進展がなされようとしたかであった。しかし、まだ民間に大規模なホテル増設の動きはなく、却って深刻なホテル不足問題を引き起こすことになった。

                              2 喜賓会の活動状況

                            @ 観光業務の補完・充実

 株式会社化の提案 外客増加傾向の明治27年、南貞助は元農商省商工局次長として外客増加策に従事し、ある意味では喜賓会の「恩人」でもあったことから、「喜賓会々長侯爵蜂須賀茂韶君」から「名誉書記」を委嘱された。南の方からある計画をもって蜂須賀に接近したと思われ、実際、南は喜賓会が「資本金二万円の募集」に着手する事、つまり「喜賓会の株式会社化」を提案した。南は「僅かな会費で退会自由の組織では『継続事業を興す基礎なし』」と指摘し、公益団体の喜賓会を収益目的の私企業に転換しようとした。だが、「誰も(渋沢も益田も)『資金の集合 難からんことを恐れ』て受け容れなかった」(中島敬介「南貞助試考ー日本の近代観光政策を発明した男」)という。

 株式会社にすると、収益目的の株主も出現してきて、業務が内外旅行者の便益供与するという方向に拡大し、貴賓歓迎の当初の目的を転換することになる。いくつもの株式会社を創設してきた渋沢らは、まだここまで踏み切れず、喜賓会は創立当初の組織のままで、特定業務を遂行する非営利団体として存続しようとする。南は、株式会社を提案しようとするならば、喜賓会の株式会社化ではなく、円了提案の如く日本全国にホテルを設置する大株式会社の設置を提言した方がよかったであろう。

 以後も、南は「名誉書記」として存在したようだが、「鉄道の連絡、其他ホテルの設備等が、是非必要となつて来た」時に、「当の担当者たる南といふ人が、極くやりつぱなしで、規律の立たぬ人だつたので、接待の方法なども弁へないと云つた塩梅」であった。そこで、渋沢は、「種々心懸けて、思ひ附いた時には其都度世話をするやうにした」が、蜂須賀、南ら「首脳の人が意気地なしだつたため、そううまく行かなかつた」としている。このあたり、喜賓会から南貞助は疎遠になっていったようだ、渋沢は、「南氏のあとを弘岡幸作氏が引受けたが、弘岡氏は多少海外の有様にも通じてゐた」としている(『雨夜譚会談話筆記』下・第七二〇―七二三頁 昭和二年二月―昭和五年七月[『渋沢栄一伝記資料』 第25巻、450頁])。

 旅館・案内業者監督 貴賓会は、条約改正前後には、旅館での外客もてなし方法、案内業者の学力調査・資格検査、外客見学の斡旋等に積極的に従事した。

 つまり、@旅館に関して「全国中外客の宿泊に適せる洋風ホテルの設備なき地方に於ける枢要の旅館に対して時々注意書を発し、給仕の心得、寝具・食事・洗面所及便所の設備等、外客接待に関し改良を要する事項を掲げ、指導する」事、A案内業者に関して、「横浜・神戸・長崎・東京及京都に於て、通弁案内業を営める開誘社・東洋通弁協会員及其他より、本会の監督を希望する者百名以上ありたるを以て、本会は本人の出頭を求め、学力其他に就き相当の調査をなし、最も適当なる資格を具備すると認めたる者に、監督証及徽章を交附」する事、B観覧視察上の便を謀ることに関して、「来遊者は勝地・風景観光の外、我邦に於ける学事・商工業の実際を視察せんとする者多ければ、本会は東京及全国各地に亘りて是等の紹介を為すことに努め」、後楽園、大隈伯庭園、渋沢男庭園など「公私建物・学校・庭園・会社・製造工場等の監理者若くは所有者は大に本会の主旨を賛助せられ、紹介せる外客に対し常に厚意を以て之れが観覧の便を与へられ」る事とした(「喜賓会解散報告書」同会本部編、3−7頁、大正三年三月刊 [『渋沢栄一伝記資料』 第25巻、456頁])。

 @について補足すれば、『読売新聞』は、26年9月に、「来遊外人の便に供せんが為に標題(「喜賓会の勧誘」)の如き奇妙の会を設けたる者」が、「左の心得を全国旅宿業者に通知」した。その心得によると、訪日外国人が日本旅館で驚いたこととして、(a)個室の不備(「西洋人には一室に一人つつ宿泊し得る様可致事」、「外客の室に入るには先づ室外に入口の戸を叩き許しを得て始めて戸を開くべきこと」)、(b)短い蒲団(「敷蒲団掛蒲団共丈長きものを備へ足の露出させる様致し置くべき事」)、(c)便所の臭さ・不潔さ・プライバシー侵害(「雪隠を改良し腰掛けたる儘用を便する得せしめ、且内より鍵を掛け得る様可事」、「雪隠は臭気なき様致すべきは勿論、一度毎に水もて汚物を流かし得る様せば甚妙なり」)、(d)入浴の不潔さ・プライバシー侵害(「一人入浴する毎に必ず湯を取更むる事」、「浴室は内より鍵を掛け得る様にする事」)、(e)個室の不備(「一室ごとに左の諸道具を用意すべき事、鏡、テーブル、椅子、タウル、手水鉢、水入、入溢、櫛、石鹸、髪刷毛」)をあげて、その対策を指摘する。読売新聞記者は、「注意何ぞ周到なる。外人の来遊是より多ければ甚だ妙なり。ただし、同胞に対しては右反対の取扱をなして可なるものと知るべし」と注記している(明治26年9月15日付『読売新聞』「喜賓会の勧誘」)。

 Aについて付言すれば、既に明治十年代後期から、通弁業の書籍や学校が登場し始めていた。『読売新聞』広告でこの一半を確認すれば、「英語学速成を以 外国人と通弁学を昼夜共教授 京橋区銀座一丁目従七番地 英学速成校」(明治17年10月2日付『読売新聞』広告)、「英語通弁独稽古全一冊 郵税共金34銭右は英和対訳にして英語に片仮名を以て其音を付したるものなれば英語に志ある諸君は陸続御請求あらんことを請う」「東京神田神保町 沢屋蘇吉」(明治17年8月17日付『読売新聞』「広告)、「英人ダムソン氏閲 英語通弁会話案内 神田西福田町壱番地 伊藤誠之堂」(明治18年6月9日付『読売新聞』広告)という具合である。明治19年12月18日付『読売新聞』では、「奨業舎」では、「頗る好評」で「通弁翻訳の一課を設け、その事務は英学速成校長友常穀三郎氏が担当」しているという記事がのっている。「内地雑居も追々近きたるを以て外国人に通弁並に案内者の雇人を斡旋し、猶其他の紹介斡旋に関する万般の事を引受くる目的を以て京橋区西紺屋町八番地に招聘斡旋会なるもの」が設立された(明治31年4月30日付『読売新聞』)。外客通弁は、こうして一般通弁流行を土台に増加してゆく。

 彼らが、歴史・地理などを学んでガイドになってゆくことになる。ガイドには、上記の喜賓会独自の能力調査を経た「監督証及徽章」付与とは別に、内務省は資格審査しだした。即ち、明治36年3月第5回内国勧業博覧会で多くの外国人来朝が予想され、全国の通弁能力の向上をはかって、36年2月4日付「案内業者取締規則制定標準」を各府県に通牒し、第3条で「案内業者ハ当廰ニ於テ外國語ノ試験ヲ為シタル上之ヲ免許ス但シ中學校又ハ同等以上學校卒業ノ者ハ試験ヲ為サスシテ免許スルコトアルヘシ」とした。この制定者は府県だったと思われるが、明治40年7月27日には改めて内務省令第21号」(従ってこれは国家資格か)として「案内業者取締規則」を制定布達した。ここでは、@ガイドになるには「試験を受け、免許を取得すること」、A「免許証の携帯を義務」づけ、「雛型を示して徽章を左胸に着ける」とした。しかし、以後もガイドの無作法などがあったし、無免許の者(travelling boys)もいたようだ(上田卓爾「案内業者取締規則とガイドの活動について」 『日本観光研究学会全国大会学術論文集』25、2010年12月)。

 大正期にも、通弁、ガイドの中には、外国人は裕福とみて、高い通弁料を吹っ掛けるなどの弊習は免れなかったようだ。第一次大戦中の「経済調査会交通第四号提案決議」(大正5年9月5日)の五に、「案内業者(ガイド)は内務省令による取締と営業上の必要に依る自省心と相俟ち漸次従来の弊害を矯正せしむとする状況に在るも尚一層其の改善を図り一方には益々之が取締を厳にし其の弊風を除却すると共に、他方には可及的其の営業上の利益を図り以て彼等をして自主向上の精神を涵養せしむるに努むべきこと」(木下淑夫『国有鉄道の将来』鉄道時報局、1924年、156頁)とあって、通訳などの検査をして徽章をあたえても、弊風、向上心欠如などがやはり問題となっていた。大正8年3月10日の通弁試験では、警視庁は「通弁試験の志願者激増」し、外国人の「邦語に通ぜぬ弱点に付けこみ不当な利得を貪る通弁」も登場しているとして、「受験者の素行、履歴等を厳重に調査し、又合格者に対しては特に稠密な監督を行ふ筈である」(大正8年3月4日付『読売新聞』「悪通弁を厳重に取締る」)としている。こういう通弁がガイドに紛れ込まない保証はなかった。

 英文地図 設立翌年の明治27年1月より本年11月末に至るの間、喜賓会は、「紹介総数850件、人員2409人」を扱い、「洲別にすれば米国人1139人、欧州1114人、其他は濠洲及亜細亜に住する欧米人」であった。さらに、「同会は大いに事業を拡張するの一策として本邦現時海陸交通上一覧の英文日本地図を製して勝地名跡等を付し、尚内外と通じて会社商店の広告等をも掲載する由」であったが(29年12月23日付『読売新聞』)、以後刊行まで3年を費やした。

 明治32年には、喜賓会は先に「横文日本案内地図一万部を発刊し内外各地の同会取次所を経て寄付者に配布した」が、今回「之に大改良を加えて日本喜賓会款待帖と改称し、日本全国東京京都大阪三府図及統計表等を付し、第二版として重ねて一万部を発行した」。主な紹介地は、「鉄道及重なる都府停車場所在地、府県庁所在地、名大河、高山、温泉、瀑布、急流、噴火山、灯台、港湾等」(32年5月26日付『読売新聞』「日本喜賓会款待帖」)であった。
 
 以後も、英文地図などが弘岡幸作らによって刊行され続け、34年にも英文日本地図(Map of Japan for Tourists,1897,The Latest Map of Japan for travellers,1901)が刊行された。当時は「此種の地図皆無なりしを以て、本邦に於ける各英字新聞紙は我邦旅行上の好侶伴なりとし、何れも筆を揃へて此挙を激賞」した(「喜賓会解散報告書」同会本部編、3−7頁、大正三年三月刊 [『渋沢栄一伝記資料』 第25巻、456頁])。

 36年7月14日には、渋沢は宮内省に赴き、田中宮相を経て喜賓会へ御下賜金(千円)を受領したので(弘岡幸作「外客誘致策の今昔所感」)、「益々業務を拡張するはずにて広く公衆に向かって寄付金を募集」(36年7月19日付『読売新聞』)した。

 英文ガイドブック 38年3月に、これらの英文地図に続いて「諸種の案内書」(A Guide Book for Tourists in Japan,1905;Useful notes and itineraries for traveling in Japan)も刊行して、「右協会の出版物は、其都度明治大帝に献上し奉り御嘉納の光栄」(弘岡幸作「外客誘致策の今昔所感」『竜門雑誌』第493号、昭和4年10月、『渋沢栄一伝記資料』 第25巻、460−1頁)に浴した。ガイドブックが、地図刊行に遅れたのは、「携帯に簡便にして且つ正確なる英文日本案内地図の欠乏せるを遺憾とし、明治三十年全国各地に照会して材料を蒐集し、多大の労力と注意とを払ひ一冊を編成」して、多大な労力と時間がかかったからであるとしている(「喜賓会解散報告書」同会本部編、3−7頁、大正三年三月刊 [『渋沢栄一伝記資料』 第25巻、456頁])。換言すれば、喜賓会に調査・作成要員が少なく、地図とガイドブックを並行的に作成できなかったということである。その遅延してきたガイドブックの重要性を喜賓会に知らしめたのが、後述の通り、第五回大阪内国勧業博覧会やセントルイス博覧会であった。

 38年5月13日役員会で、蜂須賀、渋沢、益田太郎らは、「過日発行せる英文日本案内書配付之状況」、「案内業者に関する件」、「会員募集方法」などを協議した(38年5月14日付『読売新聞』)。38年7月14日には。「第五段英仏文日本案内地図を発行すること」などをも協議した(明治38年7月16日付『読売新聞』)。39年1月貴賓会役員会で、蜂須賀侯爵、渋沢、益田六郎ら出席し、「海外に配布すべき第三版日本旅行案内書、内地旅行用に供する第二版全国案内書を至急発行する件の可決」(明治39年1月19日付『読売新聞』)した。

 支部設置 明治26年9月11日、蜂須賀会長は、「京都商業会議所において京都市会議員及京都商業会議所会員を招き、東京に於ける喜賓会設立の件につき、会頭の資格を以て京都と連絡して同地に支部を設けんことを勧誘した」(明治26年9月14日付『読売新聞』)が、もちろん資金のあてもなく、この京都支部は実現することはなかった。

 29年12月に、喜賓会は、「横浜及神戸開誘社(通弁案内業)と連絡して之れを同会監督の下に置き、我国の勝地、公設物、及美術品観覧並に物品購買の便利を与へ、年を逐て盛大に赴きつつある由」であった(29年12月23日付『読売新聞』)。しかし、横浜支部はなかなか設置されず、38年5月13日役員会で「横浜に支部を設置する件」が漸く協議された(38年5月14日付『読売新聞』)。結局、38年に横浜にも支部が設置されることになったが、郵船などの事務所の一部利用とはいえ、喜賓会には相当の経費負担となる支部設置は、一定の収入実現の見込みがたつまでは迅速に推進できなかったのである。

 一方、九州支部は33年に長崎に設置された。33年6月5日、喜賓会は、長崎に「同会支部を長崎に設置するの議は熟し、同地の松田源太郎、荘田平五郎等の諸氏は目下専ら其設立に斡旋中」(33年6月7日付『読売新聞』)であった。33年10月「貴賓会は今回大いに拡張し、九州支部を長崎市日本郵船会社支店内に置」いた(33年10月7日付『読売新聞』)。この長崎支部で汽車に乗車する外客との関連から、「神戸にも関西支部を設置し会員の募集に大に努力する」(『弘岡幸作手記』[『渋沢栄一伝記資料』第25巻、465頁])ことになっている。

 また、39年1月17日の喜賓会役員会で、「枢要地に於ける日本郵船会社及び東洋汽船会社等の支店若くは出張所に、本会代務人を委嘱する件、殊に本年は来遊外賓激増の予報あれば、之を好遇する会務拡張方法に関する諸般の協議を遂げ」(『弘岡幸作手記』[『渋沢栄一伝記資料』第5巻、470頁])ている。

 割引切符 喜賓会は、団体観光を誘引する一政策として、鉄道割引切符を活用した。

 例えば、米西戦争で明治31年アメリカがフィリピン領有しはじめ、4万人を駐屯させると、この誘引策の一つとして鉄道割引切符が利用された。33年3月29日付『読売新聞』「米国マニラ守備兵の誘引」によると、「合衆国の馬韮(マニラ)守備兵四万人は三年毎の交代にて其任務を終へて帰途に就くや必ず日本に立寄る」ので、「従来横浜より上陸して首都の風物を観て遠征の土産を造りお」った。さらに彼らを「日本内地の明媚なる風光」や「東洋美島の風景」を紹介しようとして、喜賓会は今回「九州、山陽、官設、関西、参宮、日鉄の六鉄道と協議し、各線とも乗車賃二割引の遊覧連絡切符を発行し、帰休兵をして、長崎より日光までの間を適宜遊覧せしむること」として、「不日馬韮に向かって該通知を発する」予定となっていた。長崎支部は、このマニラ駐屯米兵の帰国者の便宜を考慮しれ設置されたものであった。『弘岡幸作手記』(『渋沢栄一伝記資料』第25巻、465頁)にも、渋沢栄一は「非律賓(フィリピン)駐在米国軍人満期交替帰国の際、長崎より横浜港までは軍艦によらず内地鉄道旅行希望のため」に設置したとある。

 35年4月には、「来遊外人の便利に供するため」、「内外百九十ヶ所の取次」で第三版款待帖、汽車汽船時間資金表、割引切符交換券を発行する事になる(35年4月25日付『読売新聞』「喜賓会の事業」)。

 周遊プラン 以上の旅館・案内業者監督、英文地図、英文ガイドブックなどの集大成が、鉄道主軸の周遊プランであった。

 喜賓会員特典として、「日本各地の大きな学校、病院、庭園、工場、鉱山などのリストが並び、紹介状があれば見学できるとされ」た。そして、ガイドブックおよび簡易版には、「いくつかのお薦めの旅行プラン」が示されており、横浜か神戸を起点として、@1 週間プランでは、「横浜に上陸し、東京、日光、京都、と回って神戸を出港するという旅程(神戸からの逆順もあり)を薦め」、A2週間プランでは、「横浜に上陸し、東京、日光、鎌倉、宮ノ下(箱根)、名古屋、京都、奈良、大阪、神戸出港という旅程(神戸からの逆順もあり)を薦め」、B3週間プランでは、「上記の場所に加えて、松島、山田(伊勢)、天橋立、宮島などの風光明媚な地を訪ねることを薦め」、Cもっと時間があれば、「塩原、伊香保、草津、熱海、宝塚、有馬、道後、別府、武雄、雲仙などの温泉保養地や、東京から甲府・富士川急流、甲府から軽井沢、大阪から高野山、岡山から出雲、小倉から耶馬渓、八代から鹿児島・球磨川急流を訪ねることを薦めている」(佐藤征弥「喜賓会設立における蜂須賀茂韶の存在と旅行案内書に描かれた四国 」『平成30年度総合科学部創生研究プロジェクト経費・地域創生総合科学推進経費報告書 』)。これは、前記東京市内観光の3日ー4日プランに比べれば、実に緩やかな「上流階級」向けのプランである。

 博覧会 博覧会は外客を引き寄せたから、喜賓会にとっても、博覧会は業務拡大の好機であり、宣伝広告のチャンスでもあった。

 35年11月6日の「貴賓会役員会」で、@「開会買上契約に係る博覧会案内書編纂の顛末」、A「内閣各大臣・大臣礼遇者・東京駐在各国公使及三府知事等を名誉会員に推薦せしに対しては殆ど全数の承諾を得たること」、B「内地の各所中外人の往来尤も頻繁なる地方の郡市役所に依頼書を発し、外人便所設備に関する注意事項を其管内旅館主に告示せんことを要求せし等の諸報告をなし終わって」から、「左の諸件を協議」した。

 その協議事項は、@「案内業者取締方法に係ること」、A「明年は博覧会開設のため一層漫遊者も増加すべきに付、出来得る丈け交通宿泊観察上の便宜を供し、娯楽を與へて各地を巡覧せしめ、来遊の希望を貫徹せしむべきこと」、B「大に本会会員を募集するの時機到れるを以て正副会長及び各役員共夫々分担して知人を入会せしむべきこと」であった。ABで、博覧会を機に増加すべき外客に対応使用する努力は見られるが、相変わらず紹介・案内・役員任せの会員増加である。さらに「特に大阪支部幹事藤田平太郎氏も列席して、同支部創立後の状況を報告し、併せて明年博覧会開期中は、本支店一段相応じて外賓接遇款待に勉めんことを熟議」(35年11月8日付『読売新聞』「貴賓会役員会」)しているが、対応策に具体性がない。

 第五回大阪勧業博覧会の終了するや、本会は「多年の希望に係る簡便正確の英文日本案内書の刊行を必要とし、明治三十七年鋭意之が編纂に着手し、記事の体裁は彼の「ベデカー」著欧米諸国の案内書に準拠し、距離・時間より船車・宿泊等の賃金費用等に至るまで悉く網羅して、内地各方面に亘る旅行の方法を列挙し、経費の多少を比較し、沿岸航路の便否を示し、美麗なる風景図を挿入して汎く之を頒布」せしが、大に内外の賞讚を博し、会務発展上多大の便宜を得たり」(「喜賓会解散報告書」同会本部編、3−7頁、大正三年三月刊 [『渋沢栄一伝記資料』 第25巻、456頁])とする。

 37年1月19日、役員会で「聖路易(セントルイス)博覧会に其事業を広告する方法及び英仏文を以て日本案内書を編纂する件を協議」(37年1月21日付『読売新聞』)した。セントルイス博覧会日本出品協会委員長の大谷嘉兵衛は、日露戦争の「劈頭」にあって「我が商工業者「は博覧会を「平和の戦場」として「当初千二百噸の出品予定は倍加して実に貮千百余噸」に増加したと評した。そして、日露戦争の「戦勝の報至る毎に国威益々揚り・・出品も亦大に世誉を博し」たとした(『聖路易万国博覧会日本出品協会報告』明治39年12月)。

                       A 外客増加機運への対応

                         @ 内国勧業博覧会 
                   
 勧業博覧会は、第一(明治10年、入場者45万人)、第二(明治14年、82万人)、第三勧業博覧会(明治23年、102万人)は東京上野、第四回勧業博覧会(明治28年、113万人)は京都で開催され、前三者は前述した通り、殖産興業のみならず、集客力から観光事業としての経済効果も大きかった(國雄行『博覧会の時代 : 明治政府の博覧会政策』岩田書院、2005年、國雄行, 東京都立短期大学『近代日本と博覧会・明治政府の内国勧業博覧会・万国博覧会・共進会政策』 1999−2002年、2005年、吉田光邦『万国博覧会 : 技術文明史的に』日本放送出版協会、1985年)。

                        a 第四回内国勧業博覧会

 明治29年3月京都市参事会が発行した『平安遷都紀念祭紀事』巻上(国会図書館所蔵、デジタル資料)の緒言などによると、京都市会は、明治25年に、「28年は延暦15年正月朔、桓武天皇始めて平安京大極殿の高御座に御し、百官の正賀を受け給ひしより、実に一千一百年に相当するを以て、此歳を以て紀念大祭式を挙行」し、かつ「京都の益々隆昌繁栄」することを議決した。そこで、京都市は、第四回内国勧業博覧会の招致を政府に請願し、政府はこれを容れたので、明治28年4月1日に平安遷都紀念を兼ねて第四回内国勧業博覧会が開かれたのである。開会式当日、天皇は名代山階宮晃親王を派遣して、「朕、茲に開会の典を挙げしむ。物品の精良なる、遠く前回に優るを信ず。爾等益々殖産の業を奨め、和協の基を厚くし、以て国家の隆昌を期せよ」と代読させた(明治28年4月2日付東京日日新聞[『新聞集成明治編年史』第九巻、230頁]、小松秀雄「京都の平安遷都紀念祭と内国勧業博覧会」『神戸女学院大学論集』52−1、2005年7月も参照」)。

 この開会式に合わせて、京都市は、東京を出し抜いて、日本最初の電気鉄道を七条停車場から木屋町経由で会場前まで開通させた。「珍しき事とて線路には数万の老幼男女群集して見物するもの山の如く」であった(明治28年4月4日付日本[『新聞集成明治編年史』第九巻、231頁])。

 以後7月まで、博覧会場に美術館、工業館、農林館、機械館、水産館、動物館の6館を展開し、「海内の美、各地の精、天産人造、網羅蒐集、工芸の精良、製産の富殖」を以て「人目を驚」かしたのであった。博覧会場では、「武徳会、時代品展覧会、新古美術品展覧会、帝国教育大会、実業大会、五二会、品評会、青年絵画品評会、六書会」などの各種イベントをも開催した。名社巨刹でも紀念奉告祭、各種祭典、宝物展覧を行った。京都あげての一大祭典であった。

 この結果、当初は「日清交戦の余、干戈未だ?(つとめ)をす、人心騒擾の際」だったが、開会3週間後の4月17日日清講和条約が締結されたこともあって、113万人余の内外観客が集まり、「汽車搭載するに勝え」ざるほどであり、「客館容るる所なきに至」った。これは「希世の盛事」で、以後、京都は「気色燦然、益々光華を生じ」たとする。

 ただし、明治28年4月27日付『読売新聞』が、「帝国ホテルの外人宿泊の景況」として、「今や漫遊の好時期に加へて、大博覧会の開設中なれば、外国人の来朝者などは定めて頻繁ならんと思いひの外、帝国ホテルの如き目下宿泊人は一日四十五人平均にて別段平常と異なる処なしと。尤も来月となれば例年は六十人位の宿泊者あれど、本年も来月に入らば、或いは多からんと言へり」としているように、4月はやはり日清戦争の影響でまだ例年より外客は少なかったのである。

 そういう状況下で、6月に、「現大統領クリーブランド氏の片腕」で「新聞記者として又政治家として有名なる米国人ウイリアム・エ・コルチス氏」が、令息同伴で第四回内国勧業博覧会を訪問した。彼は、「閣龍(コロンブス)大博覧会開設中、ラテン・アメリカン・デパルトメント事務長として最も尽力したる人」で、「日本事務官等に最も懇切を尽し日本人に名誉を與へたるもの多」かった(明治28年6月25日付『読売新聞』)。

 また、美術館に黒田清輝の「裸体美人」画を陳列していたことが、4月下旬には「世上の一論題」となった。事前に九鬼隆一審査総長は博覧会副総裁榎本武揚に、「必ず世上の物議を惹き起こすことは必然なれども、現に哲理上並に公務上允当に之を排却すべき理由と権衡とを見出す能はず」と伝えていた(28年5月1日付東京日日、5月2日付東京朝日新聞本[『新聞集成明治編年史』第九巻、233頁])。確かにこの裸体画は「世論を沸騰させた」が、そのまま「無事陳列され」(『日本近代美術発達史』明治篇、258−9頁)、撤去されることはなかったようだ。 

                         b 第五回勧業博覧会

                          イ 開催経緯

 第五回勧業博覧会は、当初は明治32年に開催予定だったが、33年パリ万博、34年グラスゴー万博への参加準備のために勅令で延期され、32年頃から第五回博覧会開催地をめぐって、東京と大阪が競いだした。32年2月2日、松田秀雄東京市長は東京会議所会頭渋沢栄一に、「第五回内国勧業博覧会ノ儀ニ付大阪市ハ専ラ同市ニ於テ開設センコトヲ希望シ、以テ目下種々ノ計画中ノ由ニ伝聞ス」るが、「果シテ事此ニ出ンカ本市ノ利益上ニ影響ヲ及ホス太タ大ナリ」とし、「殊ニ改正条約実施・内地雑居後ニ於ケル第一期ノ開設ニ属スルヲ以テ、我帝国ノ首府タル本市ニ於テスルノ適当ナリト認メ、曩ニ東京市会ハ満場ノ一致ヲ以テ之ヲ議決シ、爾来着々計画準備中ニ有之」ると、第五回勧業博覧会開催にかける東京市の熱意を表明した。そこで、「貴会議所ニ於テモ素ヨリ御同感ト推察致候間、本市公益ノ為メ本件ニ対シ充分御尽力相成度」と、協力を申し入れてきた。これを受けて、2月7日、13日、渋沢は委員会議を開催して「第五回内国勧業博覧会開設地の件」を審議し、20日に東京開催を決議した。翌21日、東京商業会議所は首相、農商務大臣、貴族・衆議院に請願書を提出し、「其名ハ内国勧業博覧会ナリト雖トモ、内地雑居実行セラレ且ツ東洋ノ局面一変シタル後ニ於ケル初度ノ博覧会ナレハ、外人ノ注目ヲ惹クコト従来開設セル勧業博覧会ト同一視ス可ラス」と、第五回勧業博覧会が従前四博覧会と異なることに触れ、「従テ其面目ノ刷新スヘキモノアルヘク、其規摸ノ廓恢(かいかく、広大)スヘキモノアルヘク、之カ開設地ノ如キモ、四民輻湊ノ中心ニシテ百貨聚散ノ要衝タル帝国ノ首府ニ卜定セラルヽノ外ナカルヘキ」(『東京商業会議所月報』[『渋沢栄一伝記資料』第21巻、425−6頁])と、首都東京こそが最適地とした。

 一方、大阪市は貴族・衆議院に、明治25年8月農商務次官(西村捨三氏)の京都・大阪両府知事宛書で「勧業博覧会の開設地を一定候ては勧業の本旨を全ふし能はざる」として「第四回以後の開設地に就ては三府輪環の順序に依り、開設の事に内決相成」とされていたことを踏まえ、「先づ第四回を京都に、第五回を大阪に開設し、爾後更に東京に復する」ことになっているとした。この真偽について、東京市長松田秀雄氏は農商務大臣に問うと、大臣は、「二十八年は 桓武天皇遷都千百年に相当し」た事、「今後は三府輪番に開設せらる」様な取極めない事などを答えた。さらに、「大阪に開設するときは東京に開設するよりも不経済たるべきや、第四回博覧会を京都に開設したる前例に徴して疑ふべからず」とした(『東京経済雑誌』39巻968号、32年3月4日[『渋沢栄一伝記資料』第21巻、427−8頁])。

 その後、仙台市も開催地に立候補したが、「参酌考慮の結果、大阪市を以て開催地となすに至つた」(永山定富『内外博覧会総説並に我国に於ける万国博覧会の問題』昭和8年9月[『渋沢栄一伝記資料』第21巻、619頁])のであった。

                       ロ 外客誘致の状況

 こうして、明治36年3月1日に大阪で第五回内国勧業博覧会が開催されることになり、喜賓会は、「此機会を利用して盛んに外客を誘致せんとの説が出で、博覧会事務局も大いに力を添へられたから、英文(The Fifth National Industrial Exhibition of 1903)と支那文とのパンフレットを印刷して、汎く海外に配附した」(弘岡幸作「外客誘致策の今昔所感」)。それは、「美麗なる風景画を挿入し、装釘亦意匠を凝らせ」(「喜賓会解散報告書」同会本部編、3−7頁)たものであった。 

 博覧会事務局は、「英文招待状四千三百六十五通を欧米各国に、支那文招待状四千四百十通を清・韓両国に送附し、之によつて欧米各国人二百四十二人、清・韓両国人三百六人の来観を見た」というが、招待客以外にも少なからざる外客があった。例えば、明治36年3月7日東京朝日新聞「観光外客」五日長崎特発には、「新任駐米支那公使一行、英米陸海軍将校其他上等客百余名、昨夕コレア号にて神戸に赴きたり。其の多くは神戸より大阪に出で博覧会を見物し横浜より再び同船に乗組む筈」(永山定富『内外博覧会総説並に我国に於ける万国博覧会の問題』昭和8年9月[『渋沢栄一伝記資料』第21巻、621頁])とある。新任駐米支那公使は招待客だとしても、「英米陸海軍将校其他上等客」はそうではなかろう。確実に博覧会は少なからざる外客を引きつけていた。当然、ホテル不足の懸念が出始めた。

 例えば、「米国方面から我が勧誘状に応じて渡航するが、到着の上で宿泊に困難するようなことはないかと、東京商業会議所へ照会があつた」ので、会頭中野武営は、「東京でもホテルが不足だから農商務省の建物を借受け、之を代用せんなど」と奇論を吐いた。これは、「実は窮余の窮策」であり、「果して同年は外客激増し殊に桜花爛漫の時季に於て輻輳せし外客は、ホテルがないため日本風旅館に宿泊するの辛酸を嘗め、或は上陸を見合はせ其儘船室内に閉ぢ込められる余儀なき浮目に逢つた者も沢山あつた」(弘岡幸作「外客誘致策の今昔所感」『竜門雑誌』第493号、昭和4年10月、『渋沢栄一伝記資料』 第25巻、460−1頁)。洋式ホテルの不備を露呈した。

 この第五回勧業博覧会は大阪市に莫大な経済効果をもたらし、以後、博覧会は都市活性化の方策として重視されだした。

 博覧会終了後、喜賓会は「多年の希望に係る簡便正確の英文日本案内書の刊行」を必要とし、明治37年にこの編纂に着手し、「記事の体裁は彼の「ベデカー」著欧米諸国の案内書に準拠し、距離・時間より船車・宿泊等の賃金費用等に至るまで悉く網羅して、内地各方面に亘る旅行の方法を列挙し、経費の多少を比較し、沿岸航路の便否を示し、美麗なる風景図を挿入して汎く之を頒布」した。これは、「大に内外の賞讚を博し、会務発展上多大の便宜を得た」(「喜賓会解散報告書」同会本部編、3−7頁、大正三年三月刊 [『渋沢栄一伝記資料』 第25巻、456頁])のであった。

                          A 日露戦争後

                          イ 外客減少

 一般に、戦争は、開戦前の緊張、開戦で外客が減少し、戦勝で外客は増加するが、日露戦争の場合もそうであった。

 明治37年2月日露戦争が始まったが、明治37年1月18日東京朝日新聞「観光外客の減少」によれば、開戦前から、「時局問題の影響か、例年なれば此頃より外国来遊者の郵船毎に続々上陸すべき時期なるに、却って旅客の出入を減じたる傾きにてホテル其他旅館の寂寞、非常に不景気なり」となっていた。

 そこで、37年4月19日、喜賓会役員会で「欧米濠来遊者の減少を防ぐ方法を協議」し、「目下我内地旅行観光に毫も支障なきことを此際海外に詳らかならしむるのみならず、向後も之を報道することに努め」て来遊者増加を期すこになる(37年4月21日付『読売新聞』)。しかし、喜賓会単独ではこれはできない。

 そこで、喜賓会幹事長渋沢らは東京商業会議所にはかり、全商業会議所が連帯して外客勧誘に着手することになる。37年5月に、東京・大阪・京都・横浜・神戸・名古屋・金沢の七会議所会頭らは協議の上で、「我国ヘ外国人の来遊を促す為め、英・仏文を以て勧誘書を認め」て、同月6日に「英・米・独・仏其他諸外国各要地の商業会議所ヘ発送」した。そこでは、「近年日本ニ向テ旅行ノ潮勢著シク増進スルニ従ヒ、漫遊者ノ快楽ヲ資クヘキ諸般ノ設備亦大ニ発達ヲ来シタ」とし、具体的に、@「鉄道ハ各地ニ開通シタリ、各種ノ車輛ハ其数ヲ増加シタリ」、A「各航路ノ汽船便ハ頻繁ヲ加ヘタ」リ、B「到ル処新奇ノ勝地ハ容易ニ探査シ得ルコトヽナリタリ」、C「多数ノ旅館ハ外国人ニ特別ノ便利ヲ与フルノ仕組ヲ以テ新設セラレタリ」、D「「日本ノ凡テノ美術工業ハ長足ノ進歩ヲ呈シタリ」、E「古今ノ美術品ヲ蒐集陳列セル博物館ハ各所ニ創設セラレタリ」、F「通弁案内業者ノ組合ハ各所ニ組織セラレタリ」、G「多クノ良好ナル案内書ハ纂輯出版セラレタリ」、H「(条約改正で)旅行免状ヲ携帯セサルヘカラサルカ如キ煩苛ノ制度ハ廃止セラレ、何人ト雖トモ内地ニ於テ全ク旅行及居住ノ自由ヲ享有シ得ルコトヽナリタリ」と、日本観光上の長所を全て述べ、喜賓会についても「貴顕紳士ノ保護ノ下ニ組織セラレタル喜賓会ナルモノハ、漫遊者ノ希望ニヨリテ貴重ナル助力ヲ与フルコトトナリタリ」と評価した。このように、日露戦争は、「近時此国土ハ何レノ方面ニ向テモ、一トシテ其特質ヲ発揮セサルハナク、大ニ人ノ心目ヲ誘引スルニ至リタ」と、日本国土は特質を発揮し魅力的なものになっているとした。

 そこで、彼らは、日露戦争勃発後でも、日本国民は冷静であり、この国際観光を歓迎する気運に変更はないから、是非来日してほしいとするのである。つまり、日本国民が「今ヤ大陸ノ最大軍国ト対敵シテ死活ノ争闘ニ従事シツヽアルニ拘ラス、極メテ冷静ニシテ且平穏ナル挙動」を示し、「外国ノ傍観者カ絶エス驚歎スル所ニシテ、既ニ外国新聞記者カ讃辞ヲ尽シテ記述セル所」だとする。日本が対露開戦したのは、「自由制度ノ保全ヲ図ランカ為メナリ、武断的専制主義ノ拡張ヲ拒カンカ為メ」だとする。従て、「此戦争ハ毫モ日本国民ノ欧米人ニ対スル友情ヲ害スルコトナキノミナラス、却テ一層其友情ヲ深カラシメ」、故に「時局ノ急迫ハ殆ント西洋全洲ノ日本ニ対スル同情ヲ誘致」したとする。そして、日本が、「此目的ノ遂行ニ全力ヲ尽スハ即チ彼ト西洋諸国トノ関係ヲ一層親密ナラシムル所以」であり、日本は「来遊スル凡テノ欧米人ヲ歓迎スルノ用意ヲ為シツヽア」り、「近時日本ニ向テ増進シツヽアル旅行ノ潮勢ヲ阻止スルコトナキヤヲ痛心」するとする。そこで、「日本人民カ欧米諸国ニ対シ満幅ノ熱誠ヲ以テ最モ深厚ナル友情ヲ抱持スルコト斯ノ如シ」であるから、「此友情ヲ疎隔スルカ如キコトアラン歟、是日本国民ノ永久ニ遺憾ヲ感スル所ナリ」(『東京商業会議所報告』106号、明治37年10月[『渋沢栄一伝記資料』第21巻、863−5頁])とした。これは、欧米に対する涙ぐましい日本観光懇請である。しかし、日露戦争が終結するまで、欧米人の訪日客は減少した。

                            ロ 外客増加

 「三十八年上半期は戦時中なりしを以て渡来外国旅客は最も減少せる一昨年(37年)に比し、尚減ぜるやの感あり」(明治39年1月17日付東京朝日新聞「昨年中の渡来外客」)となるが、京都は外客が多かった。38年4月13日、ベルツは、京都では「ホテルは、どの部屋も満員で、食堂では、あらゆる言葉でしゃべっているのが聴かれる」(ドク・ベルツ編、菅沼竜太郎訳『ベルツの日記』第二部下、岩波文庫、昭和37年、148頁)と、日記に記してしる。

 38年8月ポーツマス講和会議が締結され、日本勝利が日本の国際的地位を高めると、事態は一変して、全国的に外客が増加し始め、ホテル不足問題が深刻化する。明治39年1月17日付東京朝日新聞「昨年中の渡来外客」によると、38年度「下半期即ち平和克復後に至り、(外国旅客は)著しく増加し、十一月末迄の渡来外客は1万5253人に上り、前年に比し1740人の増加を示せり。最も増加したるは清国人にして英米独等之に次ぎ、其他の各国人は未だ著しき差違を見ず」とある。清国人が一番多いのは、日清戦争後に清国留学生が日本の優秀さ、強さを学ぶために増加し、38年には1万人に達し(孫倩「清国人の日本留学に関する一考察」 『社学研論集』18号、2011年9月)、日露戦勝でさらに増加機運を見せたことによる。彼らは、寮(駿河台には既に明治35年に清国留学生会館が建設)か下宿に住み、欧米人外客のようにホテルを利用しないから、ホテル問題の主因にはならない。

 この同じ39年1月17日、喜賓会新年役員会が日本倶楽部に開催され、蜂須賀侯、渋沢栄一等が参集して、「前年度中の会務の状況を総括して」、「極めて好成績にて外客の評判もよろしきにより、第三版英文旅行方案書(Useful Notes and Itineraries for Travelling in Japan)及第二版日本旅行案内書(A Guide Book for Tourists in Japan)を至急発行する件の編纂は「前版通り弘岡幸作に担任せしむること」、「米国人の申込に係る同国に本会代務人を設置する件」、「枢要地に於ける日本郵船会社及び東洋汽船会社等の支店若くは出張所に、本会代務人を委嘱する件」を確定する。喜賓会の業務を一部遂行する代務人を各国枢要地に設置している。だが、「殊に本年は来遊外賓激増の予報あれば、之を好遇する会務拡張方法に関する諸般の協議を遂げ」(「弘岡幸作手記」『渋沢栄一伝記資料』第25巻、470頁)るとするにとどまり、まだ「外賓激増」によるホテル不足問題の深刻さの認識はない。

 39年3月29日付『読売新聞』は、「外人の来遊多し」の見出しで、「近来便船ごとに横浜に来港する欧米人は非常に多数にして、山下町等の各ホテルはほとんど爪も立たぬ程なり」と報じる。その横浜「各ホテルに投宿し居る人員」は、グランド・ホテル158人、オリエンタル・ホテル71人、クラブ・ホテル46人、ライト・ホテル15人、ゼネラル・ホテル18人、パリ・ホテル26人、フヲニックス・ホテル14人、山手ホテル30人、ターレール・ホテル17人、以上385人とする。そのほか、「其他の止宿」人、知人止宿人を含めると、460人とする。

 明治39年4月30日東京朝日新聞「昨今の漫遊外客」によれば、英米人が戦勝空気の中で、例年の倍の外客が訪日したという。つまり、「米人がヂンナー(dinner)に、英人がサッパー(supper)に卓を囲んで酒杯を挙ぐれば、談話は必ず日本の戦捷に及び、日本の風物、日本の名勝、日本人の特性などに関して種々の観察を下すが常なり」という状況になる。そこで、「彼ら外人中には陽春三月より首夏(初夏)四五月の、気候温暖なる散歩期を利用しこの戦捷国を訪ひて見聞を広うせんとするもの多く、本年は例年に倍して観風外客の渡来した」のであり、「今其外客の国別を聞くに昨今京浜其他各所のホテルに滞在するものの多くは米国人にて、次には英国人なり。これに亜いでは、澳国、独逸、仏蘭西、伊太利等」であった。そして、「英国人中最も多きは武官」であり、「本年同国武官の多く渡来したるは云ふまでもなく、本日の大観兵式陪観の栄を担わんためにて、我国にても同盟国の武官のかくまで多く来航ありしを歓ぶなり」という状況であった。この大観兵式とは、東京青山練兵場で行われた日露戦勝記念の凱旋大観兵式であり、明治天皇は、将兵3万1千人余の閲兵を終えた後、諸兵指揮官元帥陸軍大将大山厳に対し「朕茲ニ凱旋軍ノ集合シテ親シク觀兵式ヲ擧ケ軍紀大ニ振ヒ隊伍克ク整フヲ認メ朕深ク之ヲ懌フ汝等々奮勵シ以テ帝國陸軍ノ發達進歩ヲ期セヨ」と勅語を与えた(明治39年5月1日付東京朝日新聞)。

 ただし、一番多かった米国人はサンフランシスコ地震(1906年4月18日早朝に起きたマグニチュード7.8の大地震)を心配して続々と帰国しはじめた。つまり、明治39年4月30日付東京朝日新聞「昨今の漫遊外客」によると、帰国する米国客船には、外客が甲板に溢れるほどだとしている。この甲板上の外客とは、大観兵式を見ようと滞在していた米国人が、「過日桑港大震災の悲報は痛く同国人の頭脳を刺激し、同地に直接の関係を有するもの、然らざるも親戚知己を有する者、商業上の利害を感ずる者等続々帰国し、太平洋汽船は毎出帆毎に満員となり、やむを得ず、乗客を謝絶すれどもかくても強て乗船を求め、甲板上に毛布を敷き、之に身をつつみて帰国する程の状況」となったことによっている。その結果、米国人は「自然滞在客の数を減じた」が、「そのほか諸国の来客は例年に比して、頗る多く、常に各所を巡覧して、風光の明眉と美術品の精巧を賞し居れり」とする。

 日本旅行の人気化の一徴表ともいうべき大規模な団体旅行も見られだした。例えば、明治39年9月18日付東京朝日新聞「観光外客の大団体」によれば、米国ロスアンゼルス新聞社の計画する「極東遊覧客141名」は本月二日シアトルを出発して、昨17日に横浜に到着した。「東京、日光等を見物し」、「陸路神戸又は長崎に下り」ここから香港、マカオに向かう。昨日、入京したが、「多勢のこととて然るべき昼食を索めえず、余儀なく食事は・・自由行動に任せ」ていた。

 大蔵省発表の実際の39年度渡来外人数は25,353人であり、前年比で8,823人の増加であった(『日本ホテル略史』76頁)。この日本旅行の盛行に対して、明治39年10月8日付東京朝日新聞社説「観光の外客」は、「日露戦争以来、日本が世界に誤解せられたる事頗る多く、或る見地よりして言へば、大戦争の起因も露国が日本を誤解したるにあり」とし、誤解とまで表現する者も現れた。ここまで、外客が想定以上に増加したということであろう。

                              ハ ホテル問題      

 こうした欧米人旅行者の著増で、明治39年頃にホテル不足問題が一挙に顕在化する。

 洋式ホテル不足 ホテル問題は、第一に洋式ホテルの絶対数の不足として現れた。

 明治39年4月16日付『東京朝日新聞』は、「漫遊外客と旅館設備」で、「漫遊外人の費消額は日露戦争前に在りても年々無慮(おおよそ)二三千万円を下らざりしが、平和克復後は観光外客頓に激増したるのみならず、各種の事業に関係して渡来するもの頗る多」くなり、「これら外客をして充分の満足を得せしむることは独り彼らに対する礼儀とのみ云うべからず。海陸交通機関を始め宿舎、娯楽等の設備を完全にし其滞留を長くし、益々来遊者を増加せしむるは非常の利益なることいふまでもなき所な」りとする。しかし、「東京に於てすら外人を宿泊せしむべき完全なるホテルの一つを有せずといふ有様にて、其他の田舎にては猶更のことなる」というホテル不足状態を述べ、「実業社会の各方面にては差当たり二三百万円を以て東京に一大旅館を新設して模範を示し、漸次全国各要地に相当の設備を為すことを切望し居」るとする。そして、「直に営利事業としては計算の取れ難き事情もあれば、出来得る範囲に於て政府又は市より相応の援助を得んとの考へあり」と公金助成をほのめかし、「具体的に公表せらるるも遠からざるべし」と推測した。

 39年4月17日付『読売新聞』は、「外人旅館の大欠乏」でホテル不足の弊害を具体的に指摘する。つまり、「市内の各ホテルは本月初めより何れも外客満員に付 入京後ホテルに入るを得ざる、これらの外人の多くは、喜賓会に至り、宿泊方法に付助力を求め、同会に於ては市内在住外人中の或向に交渉して同居せしめ、或は旅館中外客の宿泊を好む向に紹介せるも、前者は限りあり、後者は寝台便所等に不便の点多きを以て目下同会の紹介に依り、市内を遊覧する外客には横浜ホテルより毎日往復するもの多く、或は近郊(川越地方にも及べり)在住外国人方に寓居し、日々往返する者もあり。これら宿泊所の欠乏は、特に婦人旅行者を痛く失望せしめ居れり」とした。

 39年5月8日付『東京朝日新聞』は、社説「外客待遇」で、「遠人懐柔の大詔
渙発せられてより、ここに七年。其の間日本は能く遠人を懐柔し得たりとするか」と問題を提起し、「ホテルの設備の不十分にして、本年の如き観光の外客数万を以て数ふるの時に際し、その幾百をして宿するに家なく、空しく街路に彷徨せしめたるが如きは、しばらく言ふを須ひず」と、ホテルの圧倒的不足をあげる。

 ※これは、明治32年6月30日「改訂条約実施に方り戒飭の詔勅」(田山宗尭編『明治詔勅集』ともえ商会、大正元年)をさし、明治天皇は「改定条約後の国際交流進展のための遠人懐柔」を説いたものである。即ち、「朕か年来の宿望たる条約の改訂は規畫を尽し交渉を重ねて竟に締盟各国と妥協を遂くるに至る、茲に其の実施の期に?(およ)ひて、帝国の責任重きを加ふると共に、列国の和親 愈々其の基礎を鞏くしたるは朕が中心の欣栄とする所」であり、「朕は忠実 公に奉ずるに厚き臣民の深く朕か意を体して、開国の国是 是に恪遵し、億兆心を一にして善く遠人に交り、国民の品位を保ち、帝国の光輝を発揚するに努めむことを庶機ふ」とした。

 当時、「白眼子」と称する記者が、『読売新聞』で時事コラムを担当し、強い外客誘致意見を展開していた。39年5月18日付『読売新聞』「イロハ便」で、この白眼子は、「数年前より我輩が機に触れ、時に応じて幾度か論議を重ねたる所の盛に外客を誘致する為め差当りホテルを増設すべしとの説は、最初是れぞという賛成者も見当らざりしが、今年に至りて俄かに気勢を加へ、曩に阪谷大蔵大臣が経済学協会において其急を叫ぶあり、ついで中野武営氏のホテル官設論(前述の農商務省ビルのホテル転用、これは後述)を見、昨日は雨宮敬次郎氏より書を各新聞社に寄せて之に関する各社の意見を問ふに至れり」と、明治39年にホテル増設論の盛行をみた事を指摘する。この論者は、「かくの如き機運に向かひたるは畢竟日露戦役の為に日本の声名が昂騰し来りしと共に、来遊の客を増加したるに由るべきか。兎も角も我輩の宿論が実行されれんとするは深く喜ぶ所に候」とした。

 同紙はこの論者を支援すべく、続けて、一昨日「長崎着の郵船ルーン号」には「是迄なき多数の来遊外客」を乗せ、内40余名は横浜、20余名は神戸に上陸予定だが、「この客さへも止宿せしむべき完全の旅舎なきは、実以て困ったもの」とする。「されば旅宿の建築論は最早遠く論議の時代を経過して今日にも実行すべきものに候、否、既に実行にも時機を後れたりと可謂候」とする。さらに、大隈重信のホテル建設論を紹介する。つまり、大隈は、「衣食住の嗜好趣味は東西両洋人の間に著しき相違あるが故に、如何に注意するとも迚も日本人の手にて出来るものにあらず、依て是は西洋人をしてなさしむるにしかず」としつつも、「しかし単に西洋人をして日本の地内に旅舎を建築せよと言ふ訳にも行かざれば、土地を無償にて貸し与へるとか、或は無税にて営業せしむるとか、何とか特別の便宜を與ふべし」(39年5月18日付『読売新聞』)とする。

 以上は、井上円了の大株式会社のホテル論が、諸問題に直面する中、変容して再現したとも言えなくはない。

 旅館設備の不備 ホテル問題は、第二に日本旅館の洋式対応設備の不完全・不十分として現れた。なお、「設備」という用語が洋式ホテルと言う「設備」と受け取れる場合もあって、この場合は第一のホテル不足と同じとなる。第一、第二は、一つの問題を視点を代えて指摘したとも言えるから、ホテルとホテル設備は峻別はできない。

 既に明治38年9月、十五銀行頭取・前横浜正金頭取の園田孝吉(「我国民の戦後経営上必要なる五大急務」『実業之日本』第8巻第18号、明治38年9月1日)は、「外国遊覧者が我国に渡来して最も不便を感ずるものは旅宿の設備の不完全なるにあり。日本風の家屋と日本食とは、一時は以て外人の好奇心に投ずるを得べし」だが、「二日を超へ三日を過ぐれば到底其堪へ得る所に非ず。外人の宿泊を目的とする旅館は、少なくとも椅子テーブルと西洋風の寝室を備へ、洋食を供せざるべからざるなり」としていた。具体的な例として、前述の通り、一年中外客の絶えない箱根宮の下の西洋式旅館をあげる。「今や外人の遊覧者は日を追うて益々増加せんとしつつあるに拘わらず、顧みて旅館の設備如何と観れば、殆んど皆無といふも不可なきなり。現に大組の外客渡来せば、堂々たる帝都に於て、尚ほ且つ之れが宿泊に供すべき旅館の欠乏を訴へつつありしと謂うふに非ずや。若しそれ平和克復して万国博覧会帝都に開設せらるるの暁に至らば、抑も郡来せる外国遊覧客に向て如何の旅館を供せんとするか、まことに焦心に堪へざる次第なり」とする。

 また、園田は、「家族的交際を熾にせよ」とし、「外人が紹介状を抱いて遠く万里の波濤を越え、我国に来着して心窃かに期待する所のものは家族的待遇なり」とする。「儀式的待遇」ではなく、「自宅に招待して驩話(かんわ)する」ことが重要であり、「かくの如くにして始めて外人の同情を博し、其遊覧心を鼓吹すべきなり」とする。さらに、「婦人の交際を奨励」するべしとして、「日本の集会では婦人の出席は少ないが、欧米では「婦人の群来して所在、其の中心点」である。「蓋し婦人の隣席者寥々たるは決して外客を待遇する所以の途に非ず」として、「吾人は我婦人が自ら進んで外客の招待席に手を連ねて隣席するに至らんことを望むや切なり」とした。

 39年4月24日付『読売新聞』では、白眼子が、「イロハ便」で、「近頃外来の賓客次第に多きを加ふるに拘わらず、我国ホテルの設備不完全にしてこれ等の賓客に満足を与ふる能はざるは、余輩の甚だ遺憾とせし所にして、夙に屡々之が改良の必要を論ぜしは読者の記憶せらるる所」とする。しかるに「頃日、阪谷蔵相は、経済学協会の例会において、余輩と同様の説を唱へ、是が為には政府は営業者に向って特典を與ふるも差支えなきの意を漏らし、且つその実行の方法につき同協会の研究を希望致され」たが、議論ばかりするのではなく、「ホテルの改良は刻下の急務」だから早急に着手すべきであるとする。最近のメトロポール・ホテル増築は「我国ホテル改良の先鞭」となることを希望するとした。このメトロポール・ホテル増築とは、「築地の同ホテル」が「今回三十万円に増資し客室百五十間以上を有する四階造の増築をなし、三百人以上を容るるに足る大食堂と之に適当する控室とを設くべし」(39年4月23日『読売新聞』)ということである。

 この増資を画策したのは帝国ホテルだったようだ。明治39年9月28日付『読売新聞』は「帝国及メトロポールの両ホテルは昨日愈々合併することに決定せり」と報じている。39年11月20日に、帝国ホテル総会で、帝国ホテル(資本金40万円)と築地メトロホテル(資本金20万円)は資本金60万で合併し、来年1月1日より「帝国ホテルを本店として営業を開始」(明治39年11月21日付『読売新聞』)することになる。

 明治39年5月16日付東京朝日新聞は「外人旅館欠乏の一例」を報道した。そこでは、「漫遊外客増加は・・ホテルの増設を促し、横浜にてはアー、リヒテル夫人が山下町133番にイムぺリアル・ホテルなるものを開き、シュミット夫人は同町119番にメトロポール・ホテルなるものを開」き、「東京にても京橋区加賀町の桃李館には露国記者ペトロフ氏、英国女優おはなさん(デイ嬢)等投宿し」ていると報じた。外客らは、「日本人が何ゆえに至急外人旅館の設備をなさざるかを疑ひ」、「彼らは、食事はホテルにてなし、一室に臥台と便器、洗面台の設備あればそれにても可なりと迄言い居れり」とした。当時の外客は、ホテルでなくても、一室にベッド、便所、洗面台さえあれば、日本旅宿でもいいとまで言っていた。

 39年5月、鉄道関係者と思われるパーカーも「ホテル改良論」を提唱した。パーカーは「我邦鉄道談の一節としてホテル新設の必要につき」、「日本は今や世界の耳目を聳動して、東洋に於ての先進国たる上に其地理上よりしても東西交通の中心に当れば、将来漫遊客の来訪するもの益々増加すべし。予の希望する所は、鉄道に聯絡せるホテルの経営問題に付き、鉄道を経営する官庁が之を不問に措かざることなり」として、ステーション・ホテルについて論じる。欧米の駅ホテルについて、「米国に於ても及英国其他欧羅巴諸国に於ても鉄道の通過する重要なる地方に於ては鉄道会社が直接或は官設にホテルを設備に就て多大の注意を致せり。此ホテルは彼の寝台車経営の如く特別なる組織を要すべし」とする。その上で、彼は「予の観察する所に於ては今日の日本のホテル程改良の必要なるはなし。予の一行に於いても各地に於て屡々ホテルの一室を得ることを難しとせるが、蓋し他の数多の旅行者に於ても同様の困難に遭遇しつつあらん」とする。そして、「彼の横浜の如き関門に於てすら、尚外客の為にするホテルの設備、極めて不十分」であるから、「この件は、交通の便を増進せしむるに関して、鉄道と相唇歯して連結注意を要す」るとする。彼は、「日本に於ける鉄道の不完全」と「ホテルの設備の不良」という二点を除いては「何れの点に於ても最も愉快なり」とする。

 最後に、パーカーは、日本は、「礼節に長じ又応対に巧に人に接する丁寧に、洋の東西を問わず、何れの国よりもこれらの勝れり」、「何れの市府に於ても需用の物品に不十分を感ぜず。代価も低廉なり」、さらに「国内には種々の点において嘱目すべき事多」い故に「鉄道及びホテル等の設備の改良」がなされれば「漫遊旅客の為に多大なる収益をなす」とする(明治39年5月22日付『読売新聞』)。

 なお、木下淑夫も、大正9年5月「ツーリスト事業の将来と隣接諸邦との関係」において、「我が旅館が外人収容を好まぬ風あるは甚だ不合理にして非国際的」であり、「殊に外人をして田舎の隅々まで旅行せしめんとせば、今日の場合いきおい日本旅館に由らしむるより外道がない」とする。当然、その日本旅館は外客受入れやすいような改良が必要となろう。この点、小林は、ジャパン・ツーリスト・ビューロは「この問題を提唱し、差当り東京市に於ける有力なる旅館も之に同意し、今後は其収容を計るとの事」で歓迎されるとする。彼は、これを東京のみならず、「地方の旅館にもこの傾向を馴致し普及さした」いとする(木下淑夫『国有鉄道の将来』鉄道時報局、1924年、160頁)。

                       二 東京商業会議所のホテル不足問題対処

 こうしたホテル不足について、喜賓会は問題提起し、読売新聞は熱心に取り上げ、東京商業会議所はその解決に向かって立ち上がった。

 明治39年5月8日付『読売新聞』は、社説「旅館官営の趨勢」で、「完全なる旅館を設けて多数来遊の外客に遺憾あらしむる勿れとは戦後経営の急要事業として夙にわが社の主張したる所」であり、「近来実業家間に此の説を為すもの頗る多く、殊に明年開会の博覧会に際し、外人旅舎の不足をいかにして充たすべきかとは焦眉の問題として研究せられ、博覧会協賛会にては主として之が調査を為し」ている。しかし、ここは、「第一 利益の比較的多からざる事」、「第二 大建築の急速落成を見る能はざる事」の二点から「いまだ実行の機運に至らず」とする。

 この結果、「官営説に重きをおきて研究しつつあ」り、そうした官有ホテルの発端は鉄道国有論だとする。「鉄道を国有としたる今日、作業局をして旅館を兼営せしむべしとは、其の一論として提出せられ」、具体的に「関西鉄道は現に各停車場に於て旅館を兼営し居れるを以て其の鉄道を国有としたる暁に於て此の旅館営業を放棄せざる限り、現に不足を感じつつある時に於て旅館の官営の端を開くは最も機宜を得たるものなり」とするのである。

 また、「別個の説に曰く、明年の博覧会の間に合はさんには現存の建物を以て之に充てざる可らず、幸ひ農商務省の建物は最も旅館的にして其の執務の実際は決して今日の建物を必要とせざる事、既に定論あれば、農商務省を何れにか移さしめて之を官営の旅館とせしむべしとの説を立つる者あり」、「中野武営氏はこれ等の事業を説きて、博く新聞記者の研究を望」んだのであった。東京商業会議所会頭中野武営は、持論の農商省ホテル転用の検討・協力をこの外客・ホテルに関心のある読売新聞記者に要請していた。

 明治39年5月11日、喜賓会は東京商業会議所で役員会を開催し、蜂須賀侯・渋沢栄一・広沢伯・浅野総一郎・伊藤欽亮・横山孫一郎・串田万蔵・土方久徴等が参会した。まず、「四月は本会創立以来未だ類例なき多数外人の来訪せし顛末を報告」していて、外客著増を指摘した。そして、「外人宿泊ホテルの設備を整ふる方法に付種々協議を遂げ」た。ホテル問題は喜賓会も着目せざるをえなくなっていたのである(『竜門雑誌』216号、31頁[『渋沢栄一伝記資料』第25巻、470頁])。しかし、ホテル不足問題の対応は喜賓会の能力を越えており、渋沢らの考えで東京商業会議所で取り上げることになったようだ。

 明治39年5月29日、東京商業会議所は臨時総会を開き、「日露戦後外客の本邦に来遊するもの非常に増加したるにかかわらず、これが宿泊に充つべき旅舎甚だ少数にして、到底其需要を満足せしむる能はざるのみならず、往々旅舎なきの故を以て本邦を去るの止むを得ざるに至るものあり」と現状を把握し、「多くの来遊外客は戦勝国を観光し、且つ本邦商工業に多大の注意を払ひつつあるものなれば、これらに対し先づ旅舎設備の完備を図ると共に外客の嗜好に適したる娯楽的事業をも起し、其旅情を慰め、其滞留を便宜にし以て来遊の目的を満足せしむるは最も時宜に適したる要務なりと信ず」と決議した。そこで、15人の委員を選出し、外客宿舎の拡張、娯楽を調査し、「各方面に交渉しその施設実行を努める」とした(明治39年5月30日付東京朝日新聞「外客歓待の決議」)。これは、明治39年5月31日付『読売新聞』も報道した。「渋沢栄一詳細年譜」(渋沢栄一記念財団作成)からは、この臨時総会に渋沢栄一が参加したか否かは確認できない。

 6月1日、東京商業会議所の「外客款待問題委員会」は井上角五郎(北海道炭坑鉄道社長、外資導入論者)を委員長にして、「東京市、喜賓会、其他外国人組織の各団体、東京府及び市選出の衆議院議員等に交渉してホテル建設方法の攻究を託し、これを取捨し、一の方法を具し、さらに協議を遂ぐることに決定」した。喜賓会は、東京商業会議所の「外客款待問題委員会」の諮問団体の一つに指定された。農商務省を司法大臣官舎に移し、「差当り農商務省建物を利用せんとの旨趣は期せずして一致」した(明治39年6月3日付東京朝日新聞「ホテル問題」)。6月4日、「外客款待問題委員会」は第二回委員会を開催し、東京会議所発起となって「市内各団体に交渉して聯合協議会を開き、一致の運動を採る方針なり」と言う(明治39年6月5日付東京朝日新聞、明治39年6月5日付『読売新聞』)。

 この「農商務省ビルのホテル転用論」は既に明治36年第五回内国勧業会でのホテル不足対応の中で東京商業会議所会頭中野武営が案出したものだが、次に項を改めてその推移を見てみよう。

                     ホ 農商務省ビルのホテル転用論

 政府との交渉 明治39年6月8日午後四時より、商業会議所、実業組合連合会、市及府会、喜賓会の五団体が「代表者協議会を催し、井上角五郎、大倉喜八郎、大岡育造、中野武営以下二十余名出席、農商務省(京橋区木挽町)の家屋を旅館とし、鉄道作業局の付属事業として経営せしむるの予定案を主題として協議」し、「一人の異議者」なかったが、「その実行如何に就て多少危惧を抱くものあ」った。結局、「右五団体より二名づつの実行委員を選び、政府に対して交渉せしめ」る事、「他の外人接遇方法を考究せしむる事」を決めて散会した(明治39年6月9日付『読売新聞』)。

 翌9日午前八時から、各団体委員は西園寺首相、阪谷蔵相、林外相を訪問し、「農商務省を鉄道付属のホテルに宛て、政府自ら之を経営するか、若しくは建造物を貸渡すかに就き交渉した」が、「各相何(いづ)れも農商務省の立退場所はありや」と反問し、委員は「さしづめ司法大臣官舎、農相官舎を以て之に宛釣れば十分なるべし」と答えた。各大臣から「熟考し置くべしとの挨拶を得て」、引き取った(明治39年6月10日付『読売新聞』)。

 6月11日昨日東京商業会議所で、「訪問委員たる中野、井上、大岡」が三大臣への訪問経過を報告し、三人は本日午後から松岡康毅農商務相を訪問するとして、散会した(39年6月12日付『読売新聞』)。

 翌12日午後一時半、訪問委員中野武営、井上角五郎、大岡育造、廣澤金次郎は、松岡農商務相を訪問した。松岡は、外国人向けホテルの必要には賛成するが、建坪4千坪の農商務省に勤務する官吏600人を「司法大臣官舎等」に移転することは困難であり、事務分散は「事務の統一上、並びに執務の執行上到底服する能はざる議論」と一蹴した。これに対して、委員は、我々の真意は「強ち農商務省を移転せしめて之れに充当せざるべからずと云ふ」のではなく、「外国人の滞足を贖ふに足るべき旅館の速成」にあるのであり、「貴下に於ても其の趣旨に賛同せらるる以上は、仮令農商務省はこれ等の理由に依り移転を難とせば、啻にこの問題を民間の経営のみに放任せず、堂々たる日本の首都として外国人を容るるに足る旅館に不足を告ぐるが如きは、之を国家の体面上より見るも決して閑却すべき事件にあらねば、旁々(かたがた)農商工を主管せらるる貴省自ら之れが主動者となり然るべく方策を構ぜられ度く、ここに本問題を宿題として充分講究の上、何分の回答を與経られんことを望む」とする(明治39年6月13日付『読売新聞』)。大臣に対して堂々たる反論であり、彼らの農商務省転用論の真意が的確に述べられている。

 39年6月13日付『読売新聞』は、「大旅館設立計画」において、農商務省ホテル論は、「来年春季には東京市において勧業博覧会の開設せらるるあり。諸外国人の来遊するものも甚だ多かるべきに、現在のままにてさへ非常に不足を告げ居れる旅館の到底之れが需用に応ずべくもあらず。さればとて、今日民間に於て新に旅館の設立を為さんとするも、この短日月間に希望通りのものを建築することは是亦た不可能事たるを以て、一先づ農商務省をしてこの応急策を解決せしめ、然る後、民間に於ても充分完全なる計画を立て、さらに大規模の旅館を建築セントするにありて、此点についても目下該委員諸氏は夫々研究中なり」と報じた。

 新規ホテル速成論 翌14日の『読売新聞』では、白眼子は「「イロハ便」で、農商務相反対は当然としつつも、政府は「類稀なる英断を以て」外国人に旅館を提供するように懇願するとするが、これが無理ならば、「商業会議所及び其他のホテル増設論者」は「最後の窮策として例の日本流の早業」で「博覧会の間に合ひ候、瞬く間にに三のホテルを急設するの決心」をせよと主張した。敷地は、「三菱に交渉して暫時丸の内を借るも可、政府に交渉して虎ノ門外の空地を借るも可」とした。

 6月18日付『読売新聞』は、「ホテル問題」で、新しい候補を報道した。つまり、「農商務省の建物をホテルに充用せんとの議あるも、適当の建物を見出さざる限りは、其明け渡しはも先づ見込みなければ、華族会館、勧業銀行、内務大臣の官舎を充用せば頗る妙なるべしと説くものあり」と報じた。いずれも現在活動中の建物であり、少なくとも華族会館、勧業銀行は一顧だにしないであろう。

 農商務省ホテル論の消滅 6月20日午後4時、「商業会議所、喜賓会、東京市会、同府会及び実業組合等の各委員は、過日来総理、大蔵、外務、農商務等の各大臣に対し、其希望を述べ置」いたが、「今日迄何等の回答なきを以て」、「委員会を開き、更に政府の意向を確むるに決定した」(39年6月21日付『読売新聞』[『新聞集成明治編年史第十三巻])。

 しかし、以後、農商省ホテルの報道は新聞紙上から消えた。『日本ホテル略史』(76頁)は、松岡農商務大臣は「計画には賛成」だが、「省員6百人、建坪4千余坪の農商務省の適当なる立退先なし」との事由にて「交渉終に纏らず」とする。

 39年11月30日付『読売新聞』は、社説「ホテル問題」で、「曾て農商務大臣をその官省より駆逐してなりとも、一大ホテルを建築せんと主張したる紳士諸君が、今日沈黙、殆ど議論を忘却したるが如くなるは何の故ぞ」と問題提起し、大臣放逐してまで建てるべきとするほどの緊要事が困難とならば、「私財を募集してなりとも、ホテルを建築すべき道徳的義務を負うものなるを忘却したるか」と批判する。

 この「名物」記者は、「明春三月の東京博覧会より桜花、紫藤、菖蒲、躑躅、納涼観楓の季節にかけて、日本に遊びて、以て平年の疲労を医(いや)さんとする外国人少なからざるは、今より想像すべし」。「況や四十五年には大博覧会の開設あらんとするをや」とし、「我儕(わなみ)は、富豪が新会社の設立に熱中するがごとく、合資にても一個人にても、速やかに一大ホテルを建設あらんことを切望す」と提案した。

 あるいは、「欧米の市府、至る所にある」10−20人収容のプライヴェット・ホテルをつくるのも一方法だとする。これが「二三十軒も開業せんには、優に二三の大ホテルと同一の外人を宿泊せしむるを得んか」とする。あるいは「活動心ある婦人等が、資を集めて此類のホテルを経営し、其信ずる外国婦人を支配人として営業し、堂々たる紳士等が、多言して一事実なき間に実効を挙げて、以て其力を示すも一策ならんか」と、多様な中小ホテルの多数新設を提案した。

                       へ ホテル期成会のホテル設立論

 以上の大実業家らの農商務省ホテル転用論などとは別に、中小旅館・料理屋がホテル期成会を結成し、東京市でホテルを設立し、民間で営業するという構想もあった。

 39年6月初め、「東京旅館団体、及び和洋料理店団体の有志連合してホテル新設の計画を立て、既に場所建物も相当なるものを選定し、政府部内及東京市会其他都下有力者の賛成を得」(39年6月2日付『読売新聞』)た。彼らはホテル期成会を結成した。39年7月4日、この「ホテル期成会」が、「ホテルの設備を市の施設に待ち其営業を当業有志に於て経営せんとする」構想を発表した。読売新聞は、「市当局者中にも頗る機宜に適したるものなりとの意見を袍持せる向少なからざる由なれば、同問題の解決期も蓋し近きにあるべし」と報じている(39年7月5日付『読売新聞』)。

 7月21日、中野武営東京商業会議所会頭はこのホテル期成会委員諸氏と会議所で会見し、「ホテル新設の件に関し種々協議」し、「速やかに一大旅館を新設し、以て外人款待に尽くすべき方法を講じ、其の進行を計るべし」との事で一致した(39年7月23日付『読売新聞』)。東京商業会議所は政府から農商務省ホテル転用の返事もないまま推移していたから、中野武営は代替案として支持したとも言えよう。

 その後、これは市営ではなく、株式会社による民営の方向で具体化していったようである。つまり、「ホテル期成会は、予定の計画に基づき、愈々明年開催さるべき博覧会までに一切の建築設備を整へ来遊外人をして宿舎の不足若しくは不完全を嘆ぜしめざらむことを期し、夫々専門大家に協議したる末、和洋折衷の優雅なる木造家屋を建築すること」となり、8月13日「実行委員協議会を開き、常務委員十名を選定して、会社組織の準備に着手し、資本金を五十万円となすことに決定して、仮事務所を京橋区仲橋和泉町六番地興行仲介所内に設け」た。8月16日には、「第一回常務委員会を開きて設立上の打合せをなす」(39年8月15日付『読売新聞』)予定だとした。

 39年9月2日付『読売新聞』の「ホテル会社設立進捗」記事によると、純然たる民営ではなく、資本金50万円の「内三十万円は東京市より借受け、これに対し年六朱の利子を支払う」というものである。4日、東京市は審査会を開く。「市参事会員及び諸官省側に於いても賛成者少なからずと」。結局、ホテル期成会の方針は、市の補助を不可欠とするものに戻った。

 40年3月26日付『読売新聞』の「ホテル開設に関する建議案委員会」に、「昨日午前十一時開会、委員長に守田勲、理事に楠目正氏を互選せり」とある。これが、期成会関係記事か否かは確認できないが、以後、このホテル期成会の記事は見られなくなる。

                             ト ホテル補助論

 こうしたホテル補助は『読売新聞』の説く所でもあった。

 既に明治39年4月26日に、『読売新聞』は、社説「ホテル補助案」でこれを提唱していた。つまり、この「名物」記者は、「山水の秀麗なる我が日本を世界の公園と為し、以て大いに万邦の遊覧者を招致し、国家富強の源を作るべしとは、我輩が久しき以前より屡々論議を重ねたる所」である。後述の通り、この記者は明治35年に井上円了・高橋是清に共鳴した読売新聞社説「国富論」の執筆者でもあったのである。

 彼は、こうした外人招致には「多数の外人を宿泊せしむる」ホテルは不可欠であるから、ホテルに「一定の資格条件を定めて其資格に適合する旅舎を建築する者に向て、一定の保護金を下付」すべしとする。

 明治39年5月21日には、『読売新聞』は、社説「ホテル問題余論」で、読売新聞持論のホテル補助金支給論を進めて、「近頃毎日新聞はさらに一歩を進めて、ホテル新設の数より其の資本及び補給利子等を打算して、之ガ詳細の論議を為した」事に対して、「我輩はこの問題が既に世上一般の輿論と為り来れるを見てひそかに悦ばずんば非らず」とした。

 しかし、ホテル増築の国家補助に対しては、「多少の疑惑を抱」く者、あるいは「外国に其の例なきをを以て之を非」とする者、「自由に放任せば自ら必要に応じて之が増設を見るべき」とする者、「政府がホテルの設立にまで補助するが如きは国家の体面上如何あらん」と批判する者などがいるが、「目下の事実はこれ等の理論に拘泥するを許さざる者あり」と反駁する。ホテル論不足問題はそれだけ切迫しているというのである。

 この論説記者は、ホテル補助は外国に例がないとする批判に対しては、@「旅館の欠乏そのものが外国に於て例を見ざること」であり、A「我国の如く内外其の俗を異にし、国人の為めに設けられたる旅館は以て外人の需要に応じ難きの事情ある」事に「特に注意すべし」とし、B「外来の旅客を目的としてホテルを設けんこと」は国内旅客需要を満たさないから「特に我国に於て利益の見込甚だ不確実にして、事頗る危険なる」事などを指摘して、「ホテルの補助が外国に例なきの故を以て之を非なりとするの説は、我輩の一概に賛成し能はざる所」とする。つまり、ホテル問題は「普通一般の問題と甚しく其事情を異にするものありて、之が応急の策として我輩は政府の補助を唱へざる可らざる理由あり」とする。

 これまで国内ホテル不足問題で、万国東洋大会(イタリアで発議)、万国赤十字大会(ロシアで発議)、東洋万国博覧会(日本人発議)などの国際大会議・博覧会の日本開催が辞退されて、日本は国家的面子を失ってきたとする。また、ホテル補助が国家体面上で問題とすることに対して、「ホテルの欠乏そのものが、より大なる不体裁」だと反駁する。故に、ホテルへの国家補助は「此の際の窮策として万已むを得ざるの政策」だと主張する。「ホテルの欠乏は眼前の事実にして、之が増設は目下の急務」だから「ただ之が応急の窮策として政府の補助を主唱」するとした。

 外客の利益としては、「経済上における直接の利益」のみならず、@「外人が本邦特産の貨物を購買して之を郷里に持ちかえる」事は「我が国産の広告を為せると等し」い事、A日本人が外人と接触して「智見を開発」するなど「無形の利益」もある事とする。そして、概して、「遊覧を目的とせる旅客は、労働を目的として来れる移住民と異なり、富の点に於て、又智識の点において、上流に位するもの多きが故に、彼等の来訪は盛んに歓迎すべきものにして、軽々に看過すべからざる也」とする。外客の利益を直接・間接にわけて考察するところは、井上円了の影響であろう。

 最後に、この記者は「雨宮(敬次郎)氏の新遊覧地経営論」を評価した。即ち、「頃日雨宮氏は我国遊覧地の規模の狭小なるを慨嘆し、新たに富士山麓の原野を拓いてここに二十五哩(マイル)の遊覧鉄道を設け、以て一大遊覧地をこの地に経営すべきの論をたつ」が、「此の如きは、大いに我輩の意を得たるもの」であり、「我輩は更に進んで琵琶湖畔、瀬戸内海を始めとして、到る処の有志が盛に此の類の経営を為んことを希望す」と、政府は「努めて妨害を為さざるのみならず、進んでは、弊害なくして出来得る限り、之が経営を助成せんこと、我輩の希望に耐えざる所なり」とする。この記者は依然として日本「公園」論、「遊覧地」論を堅持していた。

 こうしたホテル補助論は大正5年にも木下淑夫によって提唱されている。即ち、木下は、第一次大戦中の「経済調査会交通第四号提案決議」(大正5年9月5日)の三で、ホテルは「今後益々之が発達を期するの要あ」るが、現在は「収支の関係上其の改善を望むべからざるのみならず、概ね経営困難の状態にあり」、故に、「政府及地方公共団体は之に相当の保護奨励を与え其の経営を便ならしむると共に国有鉄道及び地方団体は必要の地にホテルを建設し之を直営するか、又は低廉なる料金を以て確実なる営業者に貸付けるにより漫遊外客の便利を図るべきこと」(木下淑夫『国有鉄道の将来』鉄道時報局、1924年、155−6頁)としている。この時に至っても、外客相手のホテル経営には外客固有の問題があったのであり、国有鉄道・地方公共団体の直営・貸付のホテルも提唱されていた。

                               チ ホテル同盟

 大日本ホテル業同盟会 39年1月29日に、富士屋ホテル山口仙之助は、「日露戦後の国勢進展に伴ひ日夜外客を接遇するホテル事業の一大発奮を要するに鑑み、同業者の会合懇談を図り、帝国ホテル外23ホテルに左の書面を発し」(運輸省鉄道総局業務局観光課編『日本ホテル略史』運輸省観光課、1946年、61頁)た。即ち、そこでは、仙之助は、「戦後の国勢は一躍して擬古未曾有の大発展を諸般の事物に喚起すべき隆運に際会し来り、誠に御同慶の至りに不堪候。就中ホテル事業は日常外資に?近する恐らく他事業の比に無之候へば、邦家の風光名物を直接諸外国に紹介する緊要なる機関なりと曰ふも敢て溢美の言にあらず」であると、日露戦後の状況のもとでホテル事業の他事業とは異なる対外的重要性が指摘される。そこで、「此際尚一層の発奮を要するは必然の儀に可有之故に、徒らに旧態を踏襲せず更に進んで共に改良の計を講ずるは聊か報国の一端とも愚考仕候」として、「互いに営業の経験及び新趣向を披歴研究」し、「待賓の便宜及び業務の連絡を協定」し、「将来外賓をして恰も其母国内に嬉遊(楽しみ遊ぶ事)するが如き便宜」を得て遺憾なからしめんが為め、「来る2月11日正午紀元節の佳展を卜し愛知県名古屋市名古屋ホテル内に同業者懇親会開会仕り度・・・御臨の有無、折返し名古屋ホテル迄御筆労被成下度」とした(『日本ホテル略史』62頁)。

 
39年2月11日、「山口仙之助の主唱により名古屋ホテルに同業者懇親会を開催し」、軽井沢、京都ホテル、也阿彌、大東館、大阪、、軽井沢万平、名古屋、山陽、都、金谷、山田五二会館、菊水(奈良市)、鎌倉、富士屋以上14ホテル代表が参加して、「大日本ホテル同盟会(会長山口仙之助)を組織」した(『日本ホテル略史』63頁)。

 その時の大日本ホテル業同盟会趣意書によると、外客増加するなか、「我ホテル業・・頗る幼稚」で「改善を要する物、枚挙に不遑」であり、そこで、同業者14人出席して、「満場一致を以て大日本ホテル業同盟会なる精神的一団体を組織するの議を決」し、とりあえず同盟会で、外国ホテル備品・特産品などの半額を「直輸入」で共同仕入れすれば、、通常輸入より節約利益がでるので、ここから同盟会費」を除去した残余を積み立てれば、「同盟会将来の活動上に要する資金」を確保できるとする(『日本ホテル略史』64頁)。ここでは、大日本ホテル業同盟会の差しあたっての共通課題として共同仕入れについて具体的に絞り込んだのである。追伸で「本年度に限り、11月を期し臨時総会を一定の場所に開会仕度候に付、諸君の御賛否、予め御通報願上」げ、また、「仮事務所は当分宮ノ下富士屋ホテル内に設け置候間、此段御承知置き願上」(『日本ホテル略史』65頁)るとする。これについて、意見聴取を要望したのである。

 なお、「大日本ホテル業同盟会規約」では、組織規約に終始し、ほとんど業務目的の規定はない。つまり、第5条で「本会は会員組織相互の親睦を旨とし智識の交歓をなし、営業上諸種の弊害を矯正し、而して斯道の発達と福利を増進するを以て目的とする」とあるぐらであり、第41条はで会費として一ヶ月「2円以上3円以下」とし、「定時総会に持参する」(『日本ホテル略史』65−70頁)とさだめていた。

 なぜ、富士屋ホテルという地方リゾートホテルの一社長が全国同業者にホテル同盟結成を呼びかけたのか。既に和洋折衷5館客室50室に水力発電装置を備え、明治39年春には、55歳の山口仙之助は、さらに「木造二階建てで、左右を八角形に突出」させた二つの西洋館(「カムフ・ロッジ」、「レスト
フル・コテ−ジ」)を完成させ(山口由美『箱根富士屋ホテル物語』千早書房、2007年、88頁)、富士屋は外客向けホテル設備では当時の日本では最先端にあったのである。これが、仙之助を日本の有力ホテルに大日本ホテル業同盟会結成に呼びかけ、外客増加、ホテル弊害是正に乗り出さしめたのである。

 四大ホテル同盟 明治39年2月大日本ホテル業同盟会結成以後、外客増加に基づくホテル不足問題を論じてきたのは、以上見たように、ホテル同盟提案者やホテル経営当事者ではなかった。大日本ホテル業同盟会には各地ホテル業者からの意見書の提出もなく、これではホテル問題は解決しないとして、当初の11月臨時会を待たずに、農商務省ホテル転用論が下火となった明治39年9月初め、ついに四大ホテル業者が再び立ち上がったのである。これに関して、村岡実氏は、39年9月、会長山口仙之助、帝国ホテル横山孫一郎、都ホテル西村仁兵衛、金谷ホテル金谷真一が共同出資して東洋観光株式会社を設立しようとしたとしている。そして、「全国各地にホテル網をめぐらす」と、「各地で会員との間で摩擦が生じるおそれがある」として、大日本ホテル業同盟会を退会したというが(村岡実『日本のホテル小史』212頁)、果してこの東洋観光株式会社とはホテル網を全国にはぐめぐらすものだったのだろうか。

 確かに『日本ホテル略史』は、39年9月「帝国ホテル、都ホテル、金谷ホテル、富士屋ホテル、東洋観光株式会社組織を協議したるも実現に至らず」(74頁)とあるが、あくまで東洋観光株式会社であって、東洋観光ホテルとまでは言っていないのである。しかも、次述のように、前会員らをも含めて続々新ホテル同盟に参加を表明したことを見ると、必ずしも不信感を与えるような「裏切り」的退会というものではなかったようだ。この東洋観光株式会社とは、実はホテルではなくて、仙之助が大日本ホテル業同盟会で具体的に提唱していたホテル備品などの共同購入をする機関だったのではなかろうか。

 この東洋観光株式会社の業務を考える上で重要な指摘が、明治39年9月4日付『朝日新聞』でなされている。つまり、そこでは、四大ホテル代表は「帝国ホテルに会合して同盟規約を締結し」、「今後は一切の需用品を海外より直輸入し、又四ホテル共通の切符を発行して随時随所に宿泊せしむるの便を与へ、更に進んで海外のホテルと連絡を通ずるため欧米各国重要の地に特派員を派遣すべし、猶ほ四ホテル発起人となりて、東洋観光株式会社なるものを設立する筈なり」とあって、この四大ホテルは外国備品の輸入や外客受入れの調整などを図り、外国重要都市に紹介・歓迎の特派員を派遣し、それとの絡みで東洋観光株式会社を設立するとしているのである。東洋観光株式会社で「全国各地にホテル網」をはりめぐらすなどとは言っていない。全国各地にホテル網を張り巡らせば、四大ホテルの存立基盤をも蚕食しかねない。東洋観光株式会社は、あくまで外客向けホテルへの備品供給・外客誘致情報提供などの観光総合商社なのである。

 こうした積極的な外国対応策は四人が提唱したというよりは、義父山口粂蔵・仙之助の外国対峙し改革しようとする「志士」的姿勢から考えて(山口由美『箱根富士屋ホテル物語』千早書房、2007年、26−30頁)、山口仙之助が率先して提唱したものと思われる。仙之助が名古屋の大会開催日を紀元節の日に設定している所にも、彼の「志士」的精神の発現がある。その東洋観光株式会社とは、あくまで日本ホテル業の刷新・是正の一手段であるに過ぎず、他の三人がその創設を了承したが、具体的な中身を検討した上での了承ではなかったようだ。会長も山口仙之助から西村仁兵衛に交代している。あくまで、この四大ホテルが軸となって同盟結束の実績をあげるということが主眼になりつつあり、それを確固たるものにするために、今回はわざわざ大蔵省にも届け出たり、読売新聞記者にも連絡して、全国的記事にしたりしたのである。

 つまり、39年9月13日付『読売新聞』では、まずは「連絡を通じて外賓優待の実をあぐべし」として、京都の都ホテル、箱根の富士屋ホテル、日光の金谷ホテル、東京の帝国ホテルがまず四大ホテル同盟を締結したとされているのである。ここに、大日本ホテル業同盟会は「自然解消」(『日本ホテル略史』63頁)したことになる。決して「裏切り」的退会などではない。そして、「四大ホテルの同盟代表者」である都ホテルの西村仁兵衛は蔵相官邸に阪谷蔵相を訪問し、「該協定に関する報告」をなし、阪谷蔵相のホテル改良への尽力への謝辞を述べる。これに対して、阪谷蔵相は、「斯業発展の先駆となりて同盟協定を成立した」事を評価し、「さらにホテル業の将来が益々国家と密接なる関係を生ずべき事」、「ガイドの弊風矯正に関しては政府に於いても相当の考案を有するに付、当業者も時々之に関する意見を具陳せられたい」事、「政府も十分なる助力を与ふべき」事などを約した。西村委員は「進んで海辺遊覧の設備、港湾鉄道等の改良意見などを鏤述した」(39年9月5日付『読売新聞』)のである。ここでは東洋観光株式会社の話は見られないが、共同仕入れを否定したのでもなく、ただ西村と山口ではホテル同盟の力点の置き所が違っているということであろう。

 この記事を見て、地方のホテル業者が参加を表明した。9月7日には、まず、大阪ホテルが四大ホテル同盟に参加することが承認された(39年9月8日
付『読売新聞』)。その後も、地方各地のホテルの同盟参加希望が相次いで、「旅館同盟の拡張」が見られた。「帝国、都、富士屋、金谷、大阪の五ホテルの外、今回新たにオリエンターパレス(横浜)、東京ホテル、レーキホート(中禅寺)、南間ホテル(日光)、軽井沢ホテル、鎌倉ホテル、佐野ホテル(東海道佐野)、五二会ホテル(伊勢山田)等同盟に加わ」って、11月20日午後5時、ホテル同盟主管者が帝国ホテルに集合し、「大倉喜八郎氏を議長となし、時世の進運に伴うべきホテル事業の改善及び拡張方法につき、協議会を開き十八ヶ条の規約を決議」(39年11月22日付『読売新聞』)した。

 明治39年11月20日付『朝日新聞』の「ホテル同盟と合併」記事によると、「帝国ホテル、大阪ホテル、富士屋ホテル及び金谷ホテルの発起により本日午後五時より帝国ホテルに於て全国四十ヶ所大ホテル大同盟会を開き、建造物の改良、接客方法の改善を図り、各ホテル互に相連絡して相互の便に備へん為め同盟規約を設定する」としている。東洋株式会社の前記諸機能が、同盟規約の中に一部盛り込まれているのである。そして、同盟参加ホテルは40ヵ所以上としている。五大ホテル以外、その多くが大日本ホテル業同盟会と同じであるが、同日「帝国ホテル及び築地メトロポールホテル合併に関する株主総会を開く由」となって、メトロポリス・ホテルが消えて、オリエンタルパレスが新規入会している。横浜グランドホテル社長ホールがオリエンタル・パレス・ホテルに入会を打診させ、日本ホテル同盟の外資ホテルへの動向を探らせたのかもしれない。四十ケ所ホテルと倍増した一因は外資系ホテルの参加があったからであろうか。

 大日本ホテル業同盟会及びその付属たる東洋観光株式会社は「自然解消」したのではなく、四大ホテル同盟を軸とした全国的ホテル同盟に発展的に解消していったと見るべきであろう。しかし、次述のように外資系ホテルが参加する過程で「東洋観光株式会社」的機能は後退せしめられ、「一般的」なホテル同盟になっていったのである。元来、外商に対抗するホテル備品の直輸入会社は、各ホテルで外国備品の輸入程度は異なるから、この四社が起点となったとしても、全国の各ホテルの利害を調整して公平な直輸入施策を打ち出すのは容易ではなかったであろう。元々この直輸入会社の公平なる実現可能性は低かったかもしれない


 外資系ホテルの参加 外資系ホテルは、こうした日本偏重のホテル同盟には快く思わなかったであろう。例えば、支配人は外国人である帝国ホテルでは、帝国ホテル好業績の功労者とも言うべき支配人エミリー・フレーグの急死で急遽交代した兄カール・フライクは、外資系ホテルの同盟参加を避けていた事に抵抗して上記四大ホテル同盟から脱退しようとしたらしい。帝国ホテルの現支配人「シーフレーグ」氏が「横山孫一郎氏の勢力を奪はんと計りし結果、右同盟より脱せん」としたのだが、「シーフレーグ氏に対する同業者並びに株主の非難甚し」(39年9月13日付『読売新聞』)くなって、帝国ホテルの同盟脱退は回避されたようだ。しかし、外資ホテルを排除したこのホテル同盟に、外資ホテルの雄ともいうべき横浜グランドホテルは批判的であったろう。因みに、兄カール・フライクも「一年後の1907(明治40年)年8月、東京で死亡」した(武内孝夫『帝国ホテル物語』現代書館、1997年、56頁)。

  渋沢栄一は、帝国ホテル支配人フレーグフレーグ死去を受けて、9月1日「宮ノ下富士屋に抵り、山口仙之助氏に面会し、帝国ホテルのことに関し要務を談」じている。支配人について、適当な人物がいないかなどの話であろう。9月2日渋沢は帝国ホテル重役会を開き、次の支配人人選を協議する。山口は上京し、9月18日帝国ホテルで渋沢と面会し、「ホテル事業に付談話」している(『渋沢栄一日記』『渋沢栄一伝記資料』第14巻、403頁)。この「ホテル事業」とは、山口が提唱した外国ホテル備品の直輸入などかもしれない。

 それから約二年後、結局四大同盟が実を挙げていないことを踏まえて、横浜グランドホテルは「四大同盟」の日本ホテル基軸体制への反撃に着手し、日本・外国ホテル業者の同盟を提唱したのである。即ち、明治42年6月、横浜グランドホテル社長ホール(C.H.Hall)は「日本ホテル組合の結成」を呼びかけ、これに応じて、@日本側は、帝国ホテル(大倉喜八郎、横山孫一郎)、富士屋ホテル(山口仙之助)、都ホテル(西村仁兵衛)、京都ホテル(井上喜太郎)、日光金谷ホテル(金谷真一)、日光ホテル(新井秀夫)、軽井沢ホテル(佐藤熊六)、軽井沢万平ホテル(佐藤国三郎)、海浜院ホテル(青山和三郎)の9ホテル、A外国側から、グランドホテル(C.H.H.ホール、横浜)、オリエンタル・ホテル(ジョージ・アダムズ、神戸)、オリエンタル・パレス・ホテル(ゼー・ミュラオー[Muraour]、横浜)、クラブ・ホテル(イー・ウイリアム、横浜)の4ホテル、B員外として、帝国ホテル支配人(モーゼル)、グランドホテル支配人(マンワリング)、喜賓会(鏑木)が帝国ホテルに集まった(『帝国ホテル百年史』124−5頁)。

 ホールは、「組合設立の趣旨」として、@「現今日本におけるホテル、鉄道その他一般の設備、待遇はまだ漫遊外国人を満足させるには十分でないばかりか、往々にして外客に不快の念を与えるような実例を見聞するのは、実に残念でならない」ので、「我々はホテル業者は宜しく協力一致して改善の方策を講じ、外国人客の誘致に努める必要がある」と、当時の日本人ホテルの設備問題を指摘し、A世界的な外客の財源効果として、「海外においては、漫遊外客の事業は国家としても最も有利な財源となるために、各国とも競って巨費を投じ外国人客誘致の方法を講じつつあ」りと、日本ホテル業者に求められ、期待されていることを述べ、B従って「いやしくもホテル業者たるものが相互の一致を欠き、あるいは漫遊客に不利益な行為をあえてするようなことがあるならば、外国人客誘致之目的はまったく水泡に帰してしまう」として、「各位が、同業組合の設立に協賛せられ、われわれ相提携し、外客優待之実をあげることを熱望してやまないものである」(『帝国ホテル百年史』125頁)とした。ホールは、外資系ホテルも、日本人ホテル業者と問題意識が同じであること明確にしたのである。

 そして、この会議で、「これまで日本人ホテル経営者の間に設けられていた諸種の会合はすべて解散し、新しく内外人共同の同業組合を設立する」事(ここで日本人偏重の従来の組合路線が否定された)、「組合の名称を日本ホテル組合(Japan Hptel Associaiton)とする」事とし、会長大倉喜八郎、副会長ホール、幹事山口仙之助、西村仁兵衛、ジョージ・アダム、ゼー・ミュラオー、新井秀夫の役員が決められた(『帝国ホテル百年史』126頁)。ここに、外資系ホテル抜きの各種ホテル同盟は解散される事になったのである。これは、42年6月18日付『読売新聞』で、17日午後二時帝国ホテルで、グランドホテルのホール発議で、ジャパン・ホテル・アソシエーション(「日本ホテル協会」)を組織したと報じられた。
 
 明治42年9月14日に、加盟社は、中禅寺湖(レーキサイドホテル)、日光(南間)、軽井沢(三笠)、東京(築地精養軒ホテル、上野精養軒ホテル)、横浜(ホテルフェニックス、プレザントン・ホテル)、熱海(樋口ホテル)、静岡(大東館ホテル)、名古屋(名古屋ホテル)、敦賀(敦賀ホテル)、大阪(日本ホテル、大阪ホテル)、神戸(トーアホテル)、大連(ヤマトホテル)の14ホテルが加わって、28ホテルとなった(『帝国ホテル百年史』126−7頁)。

 日本ホテル協会に改称 42年10月、早速日本ホテル組合は動き始めた。以前の動かない同盟とは違う所を示そうとした。当時、「普通の日本旅館にしてホテルの名義を用ふるもの次第に多く、中には欧文の広告紙を作り、建札などを立つるもの」が見られ始めた。その結果、「漫遊の外人が相当の設備あるものと思ひ、宿泊して非常の不便を感じ、日本来遊の不便不都合を鳴らすもの多く、自然外人専門のホテルまでが誤解と迷惑を蒙ること」があった。そこで、日本ホテル組合代表者大倉喜八郎は内務省に「相当取締の方法を講ぜられたき旨」を出願した。内務省はこれを「理由ある出願」として、「二十七日各府県知事に向かって、それぞれ内意を発した」(明治42年10月28日付『大阪朝日新聞』(『新聞集成明治編年史第14巻)。

 関西では、奈良県には、「警第9003号」を以て「ホテルの名称に関し次の如き指示を為し」、「本邦在来の宿屋営業者にして『ホテル』の呼称を用ひ、或は欧文を以て、之を公示する者あるより、外人向に於ては欧米の所謂『ホテル』と同様諸設備と体裁を有するものと誤解し、之に投宿したる後、頗る不便を感ずる者有之候趣二付、右等宿屋業者に対しては濫りに『ホテル』等の称号を付せしめざる様相当注意せらるべし」(『日本ホテル略史』97頁)とした。大阪警察本部では、実際に「相当取締をなし、如何わしきものは改称せしむべき」(明治42年10月28日付『大阪朝日新聞』(『新聞集成明治編年史第14巻))とした。

 しかし、こうして「ホテルの名称」について通達する過程で、ホテルの定義が問題となり、日本ホテル組合は内務省に、「十室以上の客室を持ち、食堂、談話室等の設備あるものをして『ホテル』と認められ、普通旅館より分離せられたき」旨を願出た。日本ホテル組合は、宿泊という同業施設としてホテルと旅館の峻別を求めたことになる。これに対して、内務省は、「組合の設立は同業組合準則による」のだが、省令の主旨により「全国旅館総数の四分の三以上の同意を得たる組合」は認められるが、「ホテルなる特種の業者のみの組合」は認められないとした。ここに、日本ホテル組合は名義改称を余儀なくされ、日本ホテル協会と改称されたのである(『日本ホテル略史』96頁)。以後は、この日本ホテル協会は「ホテル業が抱える様々な問題の解決するために、国や行政へ様々な提言や要望活動を行う」としたようだ。

 明治43年12月、「会員ホテル数も36社となり、新たに名誉会長と幹事長をもうけること」になり、名誉会長渋沢栄一、会長大倉喜八郎、副会長ジョージ・アダム(神戸オリエンタルホテル)、幹事長山口仙之助に改められた」(村岡実『日本のホテル小史』215頁)。名誉会長に財界重鎮渋沢栄一、幹事長に山口仙之助を据えて、日本側指導陣の強化をはかったのであろう。

                           リ 「高値売付」問題

 外客が増加してくると、日本人が外客から不当に高い料金を要求するという問題もでてきた。

 十五銀行頭取・前横浜正金頭取で喜賓会評議員の園田孝吉(「我国民の戦後経営上必要なる五大急務」『実業之日本』第8巻第18号、明治38年9月1日)は、「商人の悪徳矯正」が必要だとして、「外国遊覧者を誘致」するに排除すべき一大弊害は、「我商人が外人を観れば奇貨措くべしとなし、物品を高値に売り付くる事」であるとする。この旧弊が是正されなければ、「外人の信を失して遂に遊覧者の足跡を減ずるに至らん」とする。また、「欧米諸国の案内者は主として名所旧跡の案内者にして、商品の売買には関係せざれども」、日本に案内者は「両者を兼ぬるを以て遂に悪事醜行を営むに至る」と、商品販売に不当な高料金を請求する案内者をも批判する。

 明治39年には、ジャパン・クロニクル(Japan Chronicle )が、外国旅行者の投稿を掲載した。彼によると、京都から神戸に行く途中、友人指定の玉屋ホテルに一泊しようとして宿料を聞くと、「並八十銭、上等一円」というので、ここへの宿泊を決めたが、「次に出でたる女中は外人の故を以て一円半乃至二円の宿料を請求」してきたので、ここを去って、「京都に行き一円にて上等のホテルに宿せり」と言うのであった(39年4月24日白眼子「イロハ便」)。

 明治39年5月8日付付東京朝日新聞は社説「外客待遇」で、外国人に高い値段をふっかける弊害を取り上げる。「吾人は前日某国の某将軍より日本において何等の不快を感ぜざりしかど、唯物価の甚だ不廉なるを憾(うらみ)とすとの言を聞けり」として、「日本では外国人に高価にものを売り付ける弊害がある}と批判する。具体的に、@西洋食料品商には、使用する西洋人コックらに「ひそかに手数料」をおくるために、「一種のお屋敷値段」があり、A日本の案内業者には、高料金をとれる新来外人を歓迎して、あまり利益のとれない在留期間の長い外人を「地種」として敬遠する悪習があると指摘する。この結果、外人は「高価と冷遇とを嘆じる」事になる。故に内外人の区別などをたてずに、「外客をしてなるべくだけ自由自在に内地を旅行せしめ遊覧せしめ、また何の懸念もなく買物せしめ用弁を足さしめて、なおその上に出来うる限り便宜を感ぜしめてこそ、文明国の面目とも名誉ともなすべけれ」と主張する。

 これに触発されたか、『読売新聞』は、39年7月18日付記事「外人対商人」で、「市井の商人中には今尚外国人から唯モウ無茶苦茶に金さへ巻上ぐればいいものと心得、凡百の手段を用いて一恣自己の懐を肥やすに汲々としているものが多い模様だ」とする。そこで、この記者は、知人外人を連れてこれを検証しようとして、まず、商店で買物をすると、「途方もなく高い」価格をいうので、理由を聞くと、「貴君に差上げる額が含まれている」からとする。次に、英国人を芝居見物に連れてゆくと、桟敷料は規定の二倍になっているので、その理由を尋ねると、「帳場の命令」だという。そこで、帳場に文句を言うと、「外国人が隣席に来ると、お客が嫌う上に、外国人は身体が大きいからだ」、「外国人は金にケチケチしないから、貴方も沢山取っておやりなさい」とする。

 この時期の日本「高値売付」問題発生の背景には、外国人が定価のほかにチップを与えるという慣習の影響があったかもしれない。外国人には「チップ」は一般的な慣習であったのだが、それを知らない日本人が金持ち外国人の「気前の良さ」「羽振りの良さ」と思い込んで、それが「途方もなく高い」価格を生み出したのかもしれない。

 さらに、当時日本旅館では茶代というものがあって、これが外国人が日本旅館に泊まった場合の高値問題になった可能性がある。即ち、当時、茶代として、上等旅館では5−3円、「番頭女中などへ」の祝義2、3円、中等旅館ならば1円、「女中への心付」などが加わっていた。下等旅館は「其の半額」であった。なお、「目下茶代廃止会」などというものでてくるが、「これらの多くは不思議なる座敷代とか亦は種々の必要品の代価を徴収」(津田利八郎編『最近東京明覧』伝信館、明治40年4月、230頁)していた。日本人宿泊者も、この花代には不愉快な思いをしていたようだ。 
                     
                          3 高橋是清の国際観光振興論

 明治、大正、昭和期の財政金融の「大家」ともいうべき高橋是清も、明治30年頃から正貨獲得政策の一つとして外客増加策を提案してゆく。井上円了に遅れる事10年だが、是清は円了に劣らぬ倫理感を持つ人物であった。ただし、円了が西洋哲学を考察して仏教哲学を学問的に最高の哲学という境地に達したのとは異なり、高橋是清は経験的に精神的に救済してくれるものならすべての宗教を受け入れるという態度であった。まず、この点から確認しておこう。

 倫理 是清は生れながら宗教心に厚かったが、生粋の仏教徒というわけではなかった。5、6歳の頃に、観音を信仰していた祖母が是清を浅草観音に毎月18日に参詣していた事にも深く影響され(昭和9年3月「時勢一家言」[『随想録』443頁])、さらに、是清のこの「敬虔な信仰心」は11歳の頃に壽昌寺に寺小姓として奉公して、一層深められる。その後、大学南校時代に住み込んでいたフルベッキ邸でキリスト教に触れる。放蕩の極で聖書が是清の魂の救いとなる。この様に、是清は、仏教・キリスト教などの宗教は、「現世の苦難を救ふ為に説」(「仏像と私」[昭和4年2月])かれたものとみて、宗教一般に敬虔であった。そして、「『神の教』」は「唯一つの『正しい』」ものであり(「正しい道に立つ」)、その「神の心」は人間にもあり、故にそれを曇らす「我欲や煩悩」を克服し、神の心が輝けば人間も神になるとする(「神の心・人の心」)。彼は、「心の修養」の大切さを説き、「精神的の安心立命の霊境に到達」する事こそが「出世」であり、「名利を達成」する事は出世ではないとする(「名利の満足か心の満足か」)。

 大正10年頃の意見(「どうすれば一国の生産力は能く延びるか」)で、是清は、宗教(人道教)と実業(経済教)との媒介環を仏教の四分法に求めて、実業であがる利益を「仕事の改良拡張」、「生活費」、「不時の準備」、「布施」(仏教的行為)に配分する事を説いている。是清は、実業による利益の配分を通して経済と仏教を統一させている。ここには、資本家の利潤への強慾への批判が込められている。是清は、利欲追求に齷齪する実業人を早くから宗教的観点より批判している。是清が昭和2年に金融恐慌対策を終えて辞任する際、朝日新聞記者は「微くんを帯びた親しみ深い」童顔は「悟道に入った禅師の感じ」だと評した。是清は、国際財政金融家として時代の諸問題の必要に応じて活躍したが、稀にみる純粋な精神・倫理の人でもあったのである。

 特許整備 井上円了が国際観光振興論を提唱していた頃、是清は専売商標保護の制定に専念していた。つまり、是清は、農商務省から専売商標保護の欧米視察のために明治18年12月から19年11月迄欧米に派遣されていた。そして、是清は20年1月に商標条例、意匠条例、特許条例の起草に着手し、12月に特許局長に任命され、21年12月に黒田内閣の井上馨農商務大臣のもとで商標、特許、意匠の三条例の公布に尽力した。井上円了との接点はないし、21年11月刊、12月刊の雑誌『日本人』に接する機会はなかったであろうし、渋沢栄一、益田孝との接点もまだなかった。ただし、農商務省特許局長時代(20年12月28日ー22年10月31日非職)の農商務大臣は井上馨であるから、是清は、井上らの国際観光振興論に触れる機会はあったかもしれない。

 ペルー鉱山経営 しかし、この頃には、是清は、外客に依る正貨獲得ではなく、ペルー銀山開発による銀確保に専念していた。彼は、22年11月16日に日秘鉱業会社の日本側代表としてペルーに赴いたが、この銀鉱山が貧鉱であることが判明して、23年6月5日に帰国した。

 この是清のペルー鉱山進出については、新聞などで広く報道された。例えば、明治22年11月2日時事新報では、「今度非職となりたる特許局長高橋是清氏は、愈々白露銀山に関する用を帯びて同地に赴く由」(『新聞集成明治編年史』第七巻、334頁)とされる。明治23年2月4日中外商業「欺さるると知らず。高橋是清=恐悦。秘露鉱山見込十二分」で、高橋一行は無事到着し「此程日秘鉱業会社へ万事頗る都合宜敷、且つ鉱業も十二分の望み有せる旨」を電報してきたと報道した(『新聞集成明治編年史』第七巻)。失敗して帰国した後にも、善後措置、騒擾が興味本位に報じられた。明治23年6月7日毎日新聞では、是清は「白露鉱業実況調済の上、昨日午前横浜へ帰着」したと報じた(『新聞集成明治編年史』第七巻)。明治23年6月20日朝野では、「秘露鉱山事業ペテン暴露前特許局長高橋是清窮地に」とされた(『新聞集成明治編年史』第七巻)。以後も、明治23年9月11日付時事新報、「日秘鉱業解散 高橋是清に関する悪声とその弁明」(『新聞集成明治編年史』第七巻、487頁)、明治23年10月24日付東京日日新聞「日秘鉱業で名を売った高橋是清 又上州で鉱山買入」(『新聞集成明治編年史』第七巻、510頁)、明治23年11月15日付時事新報「高橋是清ー鉱山で又味噌」をつけ、栃木県か鉱山で紛擾(『新聞集成明治編年史』第七巻、519頁)と報じられた。

 正貨獲得のためのペルー銀山開発に失敗して以来、その後始末や次の職業の模索に翻弄されて、是清には正貨獲得のための国際観光振興を提唱するいとまはいささかもなかった。つまり、彼は、25年6月1日日銀建築事務所主任、26年9月1日日銀支配役・西部支店長、28年8月横浜正金銀行本店支配人、29年3月横浜正金取締役、30年2月横浜正金副頭取に就任し、31年1月から8月まで正金銀行在外支店事務視察及び欧米金融事情調査のため欧米出張して、32年2月日銀副総裁となる。このように、円了秘法、外国人接待協会、喜賓会等で国際観光振興が提唱・画策・推進されていた頃、是清は、特許・ペルー銀山・銀行幹部に専念していて、まだ国際観光振興を提唱する機会はなかったのである。

 「外資導入の世界的工業化」論批判  しかし、日清戦後経営の政策として、農商務次官金子堅太郎らが外資導入による世界的工業化論を提唱し始めた頃から、国際観光振興に着眼しはじめる。。

 金子堅太郎は、第二次伊藤内閣(明治27年1月31日ー30年4月19日)の農商務次官、第三次伊藤内閣(31年4月ー6月)の農商務大臣をつとめ、「日清戦争後、イギリスを将来的な目標とする『工業立国構想』を主張し」、「清国新開港場視察団派遣を契機に、工業品を清国に輸出し、清国における諸権益を積極的に獲得する『清国市場進出論』を提出した」(中村崇智「日清戦後における経済構想ー金子堅太郎の『工業立国構想』と外資輸入論の展開ー」『史林』91巻3号、2008年5月)。

 金子の「『工業立国構想』が外資輸入論と結合し、興業銀行を設立してインフラ整備、外国貿易や器械工業の大規模化を目指す『世界的工業』建設へと大きく発展した」のである。しかし、金子の経済政策は、「それは当該期の大蔵省主流とは異なる、積極的な外資導入により『世界的工業』への発展を目指し」たものであった。

 この結果、金子は、興業銀行に政府保証で外資輸入を構想したが、大蔵省、日銀の反対でこれは認められず、興銀は「植民地への資本輸出を重視する銀行」になり、積極的な外資導入による『世界的工業』化策は抑えられた(中村崇智「日清戦後における経済構想ー金子堅太郎の『工業立国構想』と外資輸入論の展開ー」)。

 以下の是清の国際観光振興論は、日清戦後経営期に、こうした金子「世界的工業化論」への大蔵省、日銀批判の過程で打ち出されたものである。

                       @ 宇都宮実業人向け国際観光演説

 是清が最初に国際観光振興に言及したのは、日清戦後の外客増加傾向を背景に、宇都宮実業人向けに行なった演説である。つまり、明治32年9月に日銀副総裁として、栃木県の「実業同志者」の「実業懇話会」の第一回総会に招聘されて、是清は、栃木県宇都宮で、同地の実業人を相手に次の如き演説(『高橋是清文書』239号文書[国会図書館憲政資料室所蔵])をしたのである。

 欧米生産力増進 まず、是清は、一国の盛衰は、人口の多寡ではなく、「生産力の消長」に基づくとする。そして、欧米の生産力の特徴について概観する。

 即ち、「近時に至り欧米諸国の生産力は著しく増進した」所の「原因は蒸気力応用の発明が愈々増進した為」だとして、「千八百七十年までは毎年平均の増加高が54万馬力、以後近時までの処では毎年平均の増加高が150万馬力に下らない」とし、「此の増進の結果」は、「農業、森林業、漁業、製造業、礦山業、海陸運輸業及国際貿易の上に著しき変化を来して、従って宇内の生産力を増し富を進めたこと、実に驚くばかりの有様であ」り、「其の蒸気力の各種の生産上に応用せられたる所の統計の概数を見るに、六割は鉄道に、二割は工業に、又二割は船舶に使用せられてある」と具体的に述べる。

 世界的産業振興論 次に、是清は、下野実業人に、「業の何たることを問はす、総て世界的に発達すること」に努めよと要請する。是清は、「本邦人は兎角封建鎖国時代の風習が脱し兼ねて、其の眼光は只近傍の小利害を見るに止まり、世界全体の関係は愚か日本全国の事の着目するものも稀なと云ふ有様であるのは、誠に遺憾の次第」だと、現状を批判する。

 そして、後述の通り農業の重要性を認識しつつも、是清は、「本邦商工業の幼稚なる実證」として、「本邦では農業が商工業より安全であるとして居る一事」を挙げて、これを世界的観点から批判する。

 国際比較 その上で、是清は、「今後の商工業者は全世界を一商工区として十分此の区域内の事情に通暁し、世界競争場裏に立て鋭進するの区域内の覚悟が無くては叶はぬ」と主張して、労働生産性、貿易高、農業の国際比較を行なう。そして、工業労働者の生産性の向上、直輸出入の増加による貿易増加、農業の進歩の重要性を指摘する。

さらに、農業の進歩を図る手段として、「世界的商品たるへき物産を産出するのが肝要」だとし、また、農業生産性の低さ(農民一人の生産力は「英国では五十八石、米国では九十七石、魯国では十七石」だが、日本は「五石余に過ぎない」事)に対しては、「種々の器械を応用」する事を提案する。

 正貨獲得の観光業 以上を踏まえて、最後に、「我が国是」は「工業貿易の発達」であるとして、「此の道で富国の基を立てると云ふは最適当なことである」と主張する。 是清は、既に32年3月1日より副総裁として日銀に出勤し、「正貨準備の増加」に努める事を日銀の一貫して追求すべき方針としていたする(『高橋是清自伝」』596頁)。

 そこで、演説の場所が観光地日光を擁する栃木県であった事からも、貿易で金銀を吸収する方法は「貨物貿易のみには限らない」として、是清は、「沢山遊覧の外人を引き寄せて夫等に金員を支消せしむるも亦富国の一大源である。現に巴里、伯林等に於ては種々の手段方法を盡して外人の尚好に適する様な設備を為し、それで外人を引寄せて是から吸収する金額は中々の巨額である。仮に将来の一ヶ年に来遊する外人を五万人として一人が千円を消費するものとすれは、其の金額は五千万円で我国の現今の貿易の有様では容易に得難い所の金額である」と、観光収入の重要性も指摘した。訪日外客数は32年2万5千人(東京朝日新聞)だったが、この時期には将来外客数を2倍の5万人を想定していることが注目されよう。因みに、訪日外国人は昭和10年4.2万人で、戦前には5万人に達することはなかったが、是清はその外客数限界を的確に見通していた。

 その上で、具体的に、外国人観光施設の貧弱な中で、日光のみは現状でも外国観光に利用しうる場所だと指摘して、下野実業人を鼓舞するのである。これが、是清の国際観光振興論の初見である。

 こうして、是清は、農商務時代の『興業意見』を作成した際の調査経験をも活かして、在来産業中心の富国論を提唱した。ただ、ペルー銀山開発以来、是清は、外債などによらずに外国正貨を国内に導入して、資本を豊かにする事を主張しており、正貨蓄積を重視する日銀副総裁として世界的観点より輸出向けの在来産業を発展させて、それによる外貨獲得を提唱し、それとの関連で国際観光振興が提唱されたといえよう。

                        A 「我国経済上の国是」      
 
 前述の通り、明治34年6月17日付東京朝日新聞が「外客しきりに来る」などと報道したように、花見目的の外客増加傾向を背景に、明治35年、日銀副総裁高橋是清は、「我国経済上の国是」(『高橋是清文書』240号文書[国会図書館憲政資料室所蔵])において、当時盛んに提唱された外資導入・世界的工業国論を批判して、日本では民間では「工業は古来より寧ろ手工に属する者が多いので、大資本を用いて文明の利器を応用するに足る性質のものが至て少ない」として、「我国の運命は世界的資本国の地位に立つべきもの」だとした。

 日本の世界的工業化論批判 まず、是清は、外資を中心として最近の「経済問題」の「雑多の説」として「日本をして世界的工業国となさしむべし」、「支那や朝鮮に資本を投じて彼国の鉱山鉄道其他の事業に従事すべし」、或は「政府事業にても相当の利殖にあたれば外債を募って其事を遂行しても差支えないとか」などの諸説があるが、これらは核心をついているものが少なく、且つ「支那に投資すべしと唱えられるものと内国資本の欠乏を訴えるものとは全然矛盾を来して居」ると批判する。

 そして、外資導入事業に「相当に利殖があれば外債を起こして差支えないとの説」に対しても、是清は「賛成が出来ない」と批判する。次に、是清は、「我国を世界的工業国とすべしとの説」に対しても、米国との比較から、「米国の如く工芸品が沢山に生産せられ、且廉価に製造が出来て世界市場に於て十分他国と競争し得る地位に進んで居るならば格別、さもなくて我国の如く其国情が到底之を許されぬとしたら寧ろ空論に近いと云はなければなりませぬ」と、批判する。これは、井上円了が、米国のように「富国の要は製造殖産の事業を盛んにして製産物を増加する」だとする事(製産説)は時間・費用がかかるとして批判した事と相通じる。

 こうして、種々の説が提唱されるのは、「殖産興業に於ける大方針が我国に確立せぬからである」と、ある意味では、農商務省で『興業意見』作成に関与して以来の是清持論を述べる。

 世界的資本国 そこで、是清は、「対外的見地から観察して我国の国是として執るべき生業の途」を建言する。

 まず、「我国を世界的工業国となさしめ輸出貿易を盛んならしめ」るという説に対して、「此説を唱ふる者は我国の欠陥は唯資本の一点のみにして、若し低利の外資が輸入せられた時には我国は忽ち有望なる工業国に進化しまして世界各国から富を自由に獲得することも至て容易であると、斯ふ云ふ風に確信を持って居りますから、何故此好望なる国に外資が入って来ないかと怪しむものが多い」と批判する。

 しかし、是清は、「我国の工業は古来より寧ろ手工に属すべきものが多いので、大資本を用いて文明の利器を応用するに足る性質のものが至て少い」として、「我国が世界的工業国となる見込みがないと云ふことは自ら明かで、私の所存では寧ろ我国の運命は世界的資本国の地位に立つべきものではあるまいか」とする。ここには、農商務省時代以来の是清の殖産興業論の基調、つまり「我国の工業は古来より手工に属す」るからとして、機械制大工業の移植・経営には批判的で、在来産業を重視する基調が貫かれている。こうした原始的蓄積期の機械制大工業移植の批判基調から、是清は日本は「世界的資本国」になる事を提唱していると言えよう。

 そして、特許局時代の経験を踏まえて、是清は、「原料の有無の如きは深く憂ふるに及ばぬ、我国民をして米国人の如くに各種の創意究明を奨励して真に立派なる工業的国民たらしむる様努めればよいと斯ふ云ふ議論」に対して、「(これは)未だ発明の歴史・・を深く究めないで唯漫然米国の現況を見て我国にも移し植えることが出来ると想像したる一種の感情談に過ぎないのである」と批判する。

 また、「原料供給者の地位に立ちたる米国印度等の国々は人口と富との増加に伴って次第に工業国となって来た」事を考えれば、「原料がなくても世界的工業国たるに差支えないとの説は今日では一場の旧夢に属すること」と批判し、「今日原料のない国が世界的工業国となり得る筈がないことは明々白々であると思ふ」と、資源に乏しい日本が「世界的工業国」になる事はあり得ぬと批判する。つまり、是清は、資源国米国の工業化を例として、資源小国の日本は米国の如き「世界的工業国」にはなれないと主張するのである。

 その上で、是清は、日本の特色を活かして「国是」を設定せよと提唱する。是清は、「我国の特色」として、@「先づ巨額の資本を投じて文明の利器を応用すべき事業としては鉱山、炭坑、鉄道、山林の事業であ」る事、A「又製作業としては元より我国は東洋一の美術国であって手芸上に於ける技術と高雅なる智能とは相待て千有余年来の蘊蓄と歴史を備へて居」り、「これは我国民が先天的に有する特色の大なるものであって、此特色を発揮すれば我国は美術国として世界に冠たることを得るは間違いない」事、B「殊に我国の位置が一の特色を有して居ることで、即ち世界の東西南北何れからも貿易の通路に当りまして、通商の仲継場たるに適合し居る」事、C「景勝に富める好山水は我国の特色であって、恰も他国人を招来する為めに設けられた有力なる自然の招牌である力のやうに思はれ」る事などの四つを挙げている。A、Cにおいて、是清は国是として国際観光振興を提唱したのである。

 国際観光振興論 そして、是清は、この四つの特色を活用して「発達に努めまする時には終には他国より資財を吸収することが出来て我国は世界的資本国たるの名誉を博することが容易であります」と、提唱する。その理由として、彼は、「以上の特色を十分に発達させて之を利用することが出来たならば、我国は始めて諸外国と資財取得の競争上に於まして、我に収むる所、彼に与ふるものよりも常に多きを致し、其資財は内国にて資本と共に労働者をも他国に移し用ゆる国ともならんと考へられる」としている。

 そして、是清はこの世界的資本国を「国是」として、「刻下の急を要する」「重大」な事として、@「大局の利害から打算して最も重要なる港湾二三を撰定しまして、外債を起し、国費以て速に之か築港を完成せしめ、水陸上の接続及び之に対する設備等を整ひ以て苟も東洋方面を通過する世界の船舶をして我商港に立寄らしめ、貨物の集散船舶の修繕等に便ならしめ、其他一切のもの、彼の需要に応ずるやう計策をなす」事、A「我国の景勝を利用して外人の来遊を促すの目的を以て諸般の必要なる設備をなす」事(この具体的内容は次を参照)、B「我貿易中 多額廉価とを目的として製造する品物と価格数量よりは寧ろ気韻雅致を備ふる精巧の美術工芸品との区別を立てまして、我国で多額に廉価に製造し得らるる貿易品は益々之が粗製濫造を防ぎ取締を厳重に致しまして、一には輸出を十分に奨励保護して買入れるに最も便利なる設備をなす等所謂座貿易の円満なる発達を為さしめる」事などの三点を挙げる。これは前記「特色」を急務策として改めて指摘したものである。

 @では、是清は、起債金の使途を限定しつつも外債の起債を提唱している事が留意される。彼の慎重な外債論や国際観光振興に養る正貨蓄積を考慮する時、この外債起債の主張には矛盾があるように思われるが、早急な国際的流通網との連結の構築を重視したからであろう。

 このように、是清は、外客増加傾向を踏まえつつ、日銀副総裁として正貨蓄積を目指して、日本の自然を生かした観光振興論を本格的に提唱したのである。この頃、喜賓会の外客増加策が推進されていたが、是清がこれに言及していないということは、これは満足すべき成果を挙げていないとみたか、喜賓会の存在そのものをよく知らなかったからであろう。

                        B 「東洋の巴里としての日本」       

 是清の国際観光振興論のモデルはフランス観光事業であった。井上円了以来、フランス観光業は日本観光業推進のモデルとしてしばしば指摘されてきた。貴賓会のようにスイスをモデルに設定する場合もあった。そういう中で、是清は、「東洋の巴里としての日本」(『経済評論』第二巻第六号、明治35年3月)において、まず、「余の見る所に依れば、我国富を発達し、我民福を増進するの急務唯一つあるのみ、曰く、我日本をして東洋に於ける巴里たらしむるにあるのみ」と、最も明確にフランス、それもその首都パリ・モデルを提唱したのであった。

 その理由は、是清によれば、@「見よ、欧州諸国中に於て国富の増進せるもの今や仏京巴里に若く者なかるべし。其金貨の所有額と云ひ、其資本の豊富と云ひ、未だ以て仏国の如きはあらざるべし」、A「而して斯くの如き金貨、斯くの如き資本、斯くの如き金利、之れ果して商工業の発達に依って得たるか、之れ果して外国貿易の消長によって得たるか、余の見る所に依れば決して然からざるなり。現に仏国に於ける資本の豊富なる其金利の低廉なる、今や仏国内に於てのみ運用し切れざるが故に、頻りに海外諸邦に輸出しつつあるのみならず、彼の英国の如きも既に両三年来より巨額の仏国資本を流入して以て之を使用せり。而して英蘭銀行の如きも其金利の昇降専ら仏国資本家の肩息を伺ふて左右せらるるに至れり。蓋し仏国の経済的位地茲に至れる所以のもの畢竟孰れの原因に基づくものなるか。曩きにも一言せるが如く、之れ決して商工業に依って得たるにあらず。亦外国貿易に依って得たるにあらず。全く仏京巴里が世界の公園として世界の覇客を茲に引着するの結果として、驚くべき夥多の貨幣は巴里の市場に散乱せらるるを常とす。而して其外客が年々歳々巴里の市場に散乱する所の費額極めて多大なるは実に予想の限りにあらずと云ふ」と、仏国では、外国貿易・商工業の発展ではなくて、パリの観光資源が世界資金をパリ市場に誘引し、それを海外に資本輸出していると指摘する。

 是清は、「巴里の人士に至っては質素勤倹毫も遊逸に耽けるが如きことなく、毫も花美の風習に感染するが如きことなく、只管其外客をして快楽を得せしむることにのみ汲々とし、種々の設備を完全して専ら外国資金の吸収に力を致せるものの如し。之れによりて以って仏国民が多額の貨幣を蓄積し、巨額の資本を貯蔵するに至れるは実に驚くべき次第にあらずや」と、仏国民が観光で稼いだ資金を貯蓄し、資本輸出の源資を蓄積しているとみる。

 そして、是清は、「我日本をして第二の仏国たらしめんことを希望して止まず。而して我国富を発達し我民需を増進するの途、蓋し此方法を措きて亦他に好手段あるを発見する能はざるなり」と、仏国を日本の発達モデルに設定する。そこで、是清は、@日本は「風光の上よりすれば世界屈指の騰品にして、之れに人工の設備を加へて外人の来遊に便ぜば、彼ら覇客の遊意を引着せんこと決して難しとせざる」ものであり、「例えば、我東京の中央停車場の如き又は京都、大阪、神戸、馬関の如き主要の停車場には鉄道自身の経営に依るか、又は其監督の下に完全なるホテルを建て、其他瀬戸内若くは避暑避寒に適当せる各地の島嶼にも同じホテルを建設して、来遊外人の宿泊に便じ同時に演劇遊戯其他外人に愉快を与ふるに足るべき諸般の設備をなすに至」るならば、世界の遊客を招致して、日本の利益は「鮮少ならざるべきな」ると、日本全国の交通要衝地に外人宿泊用のホテル・劇場・遊技場などを建設し、A欧米諸国は外人待遇は「甚だ厚く」、「来往には道を譲り、款待(歓待)厚遇甚だ務むる」のだが、日本人は「品性の粗鄙」から「之れと正反対の行動に出」るから、「斯かる悪風を一掃すると同時に盛に外客を歓迎するの設備をなさざる可から」ざると、日本人の外国人「冷遇」を批判して、欧米の様に来訪外国人を「厚遇」し、B観光設備を国家的大計画として、まず主要港湾建設から着手し、C外客が増加すれば、「其消費する所決して尠からず・・来遊客が消耗する所の金額は実に予想外の多額に達す」と、主要停車場・避暑避寒島嶼へのホテル建設、外国人厚遇、観光施設整備の国家主導などで訪日観光客の消費の経済効果の増大を提唱するのである(以上は、拙著『国際財政金融家高橋是清』教育総合出版、平成10年に依る)。是清は、パリの如き首都庭園のみならず、日本各地の自然資源を活用しようとしている点では、スイス・モデルも包み込んでいる。

 なお、是清は、明治26年9月に日銀支配役に就任し、西部(馬関=下関)支店長を任命されていたから、この頃から瀬戸内の観光・交通事情をかなり知っていたようだ。実際に是清が支店長を務めた下関では後に鉄道会社によるホテル経営も行われ、明治35年10月には「山陽鉄道下関停車場構内に予て建設中なりし山陽ホテルは営業上の諸準備整頓したるを以て本日より営業を開始」した(明治35年11月1日付『読売新聞』。山陽鉄道は、「他に先んじて鉄道会社としては初めてホテル経営に乗り出した」(村岡実『日本のホテル小史』145頁)のである。

 こうして、是清は、喜賓会のスイスモデルを包含したフランス・モデルを提案して、「今後日本をして世界の公園たらしむると同時に、外国貨物の集散地たらしむるに於ては其間に得る所の利益却って天然の産物に依頼するより大なるべきものあらん」と主張するのである。

 最後に、是清は、「余は盛に外客を茲に引集するの政策を講ずると共に、外国貨物の集散市場たらしむるの方針を執るを以て我国第一の国是となさざる可からず。此以外に我国をして大に発達進歩せしむるの途 尠なきを信じて疑はざるなり。之れ実に東洋に於ける第二の巴里を作出するもの。果して此方針を以て進まんか、今後我国富を増進し、金貨を増加し、資本を豊富にし金利を低廉ならしむる、彼の仏国と異なるなきに至らん」と、外客、外国貨物の増加で第二のパリになることを主張する。

                               C 読売新聞「国富論」

 この約半年後に、『読売新聞』が、国民への大衆課税で軍備拡張、世界的工業化をはかることを批判して、以上の高橋是清の国際観光振興論と井上円了富国論の影響を受けたような論説を社説として提唱した。両者の間の直接の影響は実証できないが、雑誌『日本人』で15年前に公にされた国際観光振興論たる富国論を覚えていて(或いは保存していて)、今回高橋是清のパリ・モデルの国際観光振興論、世界的工業化批判に触れて、ここに両者を「合体」して桂内閣の富国強兵世策の批判を新聞一面で公にしたとも推測される。外客で国を富ますと言う発想は円了の編み出したものであり、パリ・モデルは半年前に是清が公表したものである。読売新聞「国富論」が、円了と是清の影響を受けていないというには、あまりに状況証拠が揃いすぎているとはいえないか。

 明治35年10月2日付『読売新聞』は社説「国を富ますの一方法」(上)において、「地租の復旧と否とに依りて、国民の負担の増減せらるること果たして幾何なるべき、曰く一千余万円のみ」と、地租増徴を皮肉くる。確かに、日清戦後経営期に「地主層は地租増徴を受け入れて体制内化を最終的に完成させ」、「政党(ことに憲政党→立憲政友会)を媒介として地方的利益の供与を引き出し」、地方補助金が1000万円弱から4000万台へと急膨張してはいる。しかし、農民の負担は大きく、明治34年、@生産国民所得の割合は農林44.8%業、商工業の割合53.1%であるが、A国税負担割合は農林業34,6%、商工業11%と、農民の負担が大きいのである。さらに、「消費税(間接税)優位の税体系」は「地方税における戸数割負担の維持・強化とともに細民を直撃」し、「逆進的な大衆課税を基盤」としたのである(勝部真人「日清戦後経営と国家財政」『史学研究』179号、1988年6月、木村晴壽「蚕網をめぐる織物消費税問題 ?松本網への課税をめぐって?」『地域総合研究』第18号、藤原隆男「日清戦後の増税と酒造業」『歴史と文化』1981年2月)。

 さらに「海軍拡張によりて軍艦の増加せらるべき者果たして幾頓なるべき、曰く現内閣到底今日の頓数を二三倍するの壮挙に出づる能はざるべきを以て、所謂拡張なるものは現在の頓数にその幾分を加ふるにすぎざるべし」と揶揄する。日露開戦を想定した海軍拡張策については、明治35年11月佐藤鉄太郎は、「帝国国防の目的は防主自衛を旨」とし、「最も強大なる海軍を東洋に派遣し得べき露国を以て我軍備の最小限」として、露国が東洋に派遣しうる艦隊をも想定して、戦闘艦・装甲巡洋艦を増加させてゆくとする(『帝国国防論』274頁)。そして、「海主陸従の輿論」の勃興と相前後して、露国を仮想敵国として、既に30年8月から35年3月に戦艦(富士、八島、朝日、初瀬、三笠)、一等装甲巡洋艦(浅間、常盤、出雲、磐手など)が英国から到着して、「海軍の威容を一新」(『戦史叢書 海軍軍戦備<1>』112頁)した。日本海軍は、「日清戦争の教訓を基に、挙国一致して財政的、技術的の困難を克服し、最も新鋭な海軍を建設」(『戦史叢書 海軍軍戦備<1>』291頁)したのであった。桂内閣は、財政的に現状海軍を二三倍にはできないというのである。

 このように、「貧困に処する之術のみを講じて一転して富有と為すの道を講ぜざるが如きは、決して策の得たるものにあらず」と指摘する。そこで、この記者は、「財政のために悩殺せらるる者は当局者たる政府と、議政者たる議員のみに止め」、「他の多数の国民」はこれから「超脱し悠然として致富の術を講じ、漸次に国の財源を培養し為政者をして復煩悶苦慮なからしむるに至らんことを希望せざるを得ず。国を挙げて財政上の小問題に熱中し他を顧みる之遑なきが如きは、決して邦家の慶福にあらざるのみならず、抑亦陋なりと謂わざる可らず」として、超脱的富国論を提唱する。超脱的な致富論とは、仏教哲学者円了の「坐ながら国を富ますの秘法」をおいては他には考えられないではないか。

 明治35年10月5日付『読売新聞』は社説「国を富ますの一方法」(下)を掲載して、パリ・モデル論を提唱する。パリ・モデルの国際観光振興論は半年前に是清が『経済評論』で公表したばりのものである。つまり、「巴里を飾りて世界の客を招き、その財嚢を傾倒せしめ、以て国の富源となさんとし、その公園を壮麗にし、其並木を鬱蒼たらしめ、其劇場を華美にし、且つ其他の遊楽場を宏大にし、為に巨万の資を投ずるを辞せざるのみならず、市街に厳密なる取締り規約を設け、家屋の建築は勿論、窓、壁等の色彩に至るまで、各戸随意に変更することを許さず・・又大いに旅館を改良して其設備を全くし、単に什器を整頓せしむるに至らば、風光の美を利用して五洲の人を招くの一事は則ち成効すべし」とする。

 スイスについても言及する。「彼の瑞西の如く年々歳々一億円の収益を得るに至るは、容易の業にあらざるべしと雖も、今日にても、外人の我国に来る者既に一万人の多きに達し、東京、横浜、日光、伊香保、熱海、箱根、静岡、名古屋、京都、大阪、神戸、厳島、馬関、長崎等の各地を巡覧する者と、我国の沿岸を航海せる外国軍艦の乗組員等の各地に寄港せる者とが遊興其の他の爲めに消費せる金額を合算せば、概算二千万円の多きに達せりといえば、外客の誘引を目的とせる我国の設備にして之を万国に吹聴せば、外来の客愈々多きを加ふるに至るべきは疑を容れざる所なり」。

 現在の所、「単に風光を目的とせず、傍ら我風俗(芸妓など)を観んとする者少なからず」であるが、これは「瑞西に欠如し我国に現存せる特点」として、遠方などの「位置の不利」は「此一事で控除される」とする。満州のロシア人、膠州湾のドイツ人、インドシナのフランス人、香港などのイギリス人などが増加すれば、「彼らが明媚なる山川と温和なる気候とを慕ふて我日本に来り、我六十余州(律令制の導入以後の日本)が自然に東洋の大公園たるに至るべきは期して待つべき所なり」とする。六十余州の「花月の美」を利用して「東洋の遊園と為し以て大に富を作るの方法に想到せずして官民共に財政上の遣り繰り算段のみに齷齪たるは迂も亦甚だしと謂ふ可し」とする。

 以上、読売新聞が、超脱的富国論の形は井上円了から引き継ぎ、パリモデル論は是清を受け継いだかの如き論説を紙上で公表したのである。円了「秘法」は是清「巴里」論で一般的「方法」になり、読売新聞でより「一般化」したとも言えよう。こういう基調は、日露戦後の正貨流出を国際観光振興で対処する人が出てくれば、彼に一定の影響を与えるであろう。

 なお、この頃の読売新聞の主筆らを見ておこう。明治35年3月1日付で新主筆に石井勇、編集長に永田新之助が就任し、「同時に足立荒人と五来欣造が入社」した。しかし、石井と足立が対立し、35年末石井は退社して『実業之日本』に移る。36年1月足立荒人が主筆に就任し、36年1月ー43年3月は、足立の主筆時代であった(『読売新聞百年史』215−7頁)。読売新聞が、非藩閥系の富国策に傾斜し、ホテル問題に切り込み、国際観光振興にかかわってゆくのは、この足立主筆を中心とした論説記者らであったと思われる。

                             D 外客正貨蓄積批判論

 こうした是清らの外客に依る正貨蓄積は、以前からかなり優勢な議論であったが、当然これに対する批判もあった。

 明治41年1月、社会政策・都市計画学者の関一(東京高商教授、1898−1901年ヨーロッパ遊学)は、@フランスは10億の観光収入を得るが「風俗頽廃」をもたらし、A小売商の外国人向け売り込みは「国際的貿易の観念を薄からしめ」、B観光正貨獲得論は「重商主義の謬説」などと批判する。「借金苦の苦し紛れとは云へ、一国民の品性風教に有害なる原因に依る正貨の受入は、奨励すべからず」(「国際貸借の原因と一種の謬見」『実業世界 太平洋』第7巻第2号、明治41年1月15日)と批判した。

 なお、@のフランス観光収入額については、是清は指摘していない。ただし、明治39年に東京商業会議所会頭中野武営は、「日本銀行副総裁高橋是清氏は曩に帰朝後(この帰朝とは、是清が38年9月ポーツマス条約締結以降の明治39年2月の帰国であろう)語って曰く、仏国が外客より得る所の金額は年々実に八十億円を算す」(「ホテル完備は戦後経営の急務なり」『雑誌』[『日本ホテル略史』77頁])としている。ホテル問題の渦中にあった中野が、何らかの機会にフランス観光モデルの提唱者高橋是清と日本観光振興などについて語りあった際に出てきた数値であろう。

 観光業の「負」の側面の一つが「都市労働者の生活改良」などをも一課題とする社会政策・都市計画学者によって指摘されていたともいえよう。因みに、関は大正12年大阪市長となって、昭和初期にかけて大阪市を人口・面積・工業出荷額で日本一たらしめ、昭和3年には東京商大に匹敵せしめんと大阪商大(今の大阪市大)をも創設して、「大大阪時代」を実現した人物であった。そして、その過程で、関は、大阪市を、「御堂筋や地下鉄の建設、大阪港の拡充、中央卸売市場の開設など先進的な都市政策」のみならず、「社会事業や教育・文化事業などソフトの面」でも「住み心地良い」近代都市にしようとして、5年1月14日、関は大蔵大臣井上準之助に、「国際貸借の要ある今日」、外人誘致、宿泊施設完備は急務」なので、「低利資金350万円(年利五分)の御融通を受け之を建築費用に充当」(大阪市公文書館蔵資料[278頁])したいとして(木村吾郎『日本のホテル産業百年史」』275−8頁)、国際貸借上から国際観光収入を評価していた。

                             E 日露戦争と是清

 是清は、以後、この国際観光振興論を提唱しなくなった。それは、日露戦争(明治37年2月ー38年9月)という「非常事態」に直面するや、A日清戦後経営期固有の世界的工業化・世界的資本国化という論点が希薄化し、A是清は日本戦勝を可能にするための軍事費確保のために、国際観光振興論を抑制させて、批判的であった外債の起債などに従事せざるを得なくなったからである。是清が国際観光振興による正貨蓄積論を提唱しなくなったのは、まずは日露戦争による深刻な正貨事情、戦争遂行には是清が警戒していた外債の起債に頼らざるをえなくなったからであった。

 さらに、日露戦後、是清は外客増加では対応できない正貨問題に直面する。つまり、是清が日銀総裁に就任した44年度末の正貨額は2億千7百万円余であり、これに対して、44年度内の正貨支払い額は1億6千9百万円余と推定されるから、44年度末の正貨高は4千8百万円余に過ぎないものとなる。しかも、この外に、「政府の収支に於て仕払の超過は年々八千万円前後を要するの計算」となって、「来年度より直に正貨準備の現在額を維持すること能はざる」深刻な事態が想定されていたのである(明治44年7月付高橋是清「正貨準備維持に関する意見」[「井上馨関係文書」61冊、677−26号文書])。他方、44年12月30日の兌換銀行券の発行高は4億3500万円という「未曾有」の巨額に達し、制限外発行高も8600万円余に達していた(『日本銀行百年史』第2巻、260頁)。そこで、内閣総辞職前の44年5月29日に、桂太郎首相兼蔵相、勝田主計局長や高橋是清日銀副総裁(総裁に昇任するのは6月1日)らは、正貨対策会議を開催し、「外 低利の資本を輸入し、内 産業の発達を図るにあらざれば、正貨準備維持の目的は終に之を達すべからず」(日銀所蔵「正貨事項会議覚書」44年8月[「日本銀行百年史」第2巻、278頁])と、低利の外資導入論をとったのである。この低利外資導入論の前に、是清は、中長期的な外客正貨獲得策として積極的に国際観光振興を再び提唱する事は不可能になったのである。外客増加により正貨蓄積を国是とまで提唱していた是清が、日露戦争勝利のために戦時外債を起債し、戦後は低利正貨の導入を主張するに及んで、国際観光振興、外客増加論を提唱するわけにはゆかなくなったのである。

 しかし、この日露戦争は、日本勝利で終わったことから、皮肉な事に一大国際観光ブームを引き起こすことになった。上述のように、喜賓会が解散し、是清が、一方で高い利子の日露戦時外債を低利に借り換える整理公債に従事している中、日本には外客がどっと訪れて、正貨を日本に落としたのである。

                              F 是清と喜賓会

 筆者は、是清は新聞報道などで喜賓会の存在は知っていたとしても、国際外客増加思想・政策などの点では喜賓会とは一切関わりはないと思っていた。是清の国際観光振論と喜賓会の事業とは無縁とすら思っていた。

 しかし、筆者は『時事新報』で、これに再考を促す資料を発見したのである。それは、明治39年6月15日付『時事新報』「貴賓会の活動」(『新聞集成明治編年史第十三巻)という記事である。そこでは、明治39年6月12日午後5時より喜賓会役員会が開会され、「内地旅行用第二版英文日本案内書を発行せし件」、「外国人の通知に係る不正案内業者中、不正行為の明確なる者数名を当該監督庁に告知したる件」、「海外配布用第四版英文日本旅行方案書一万部発行の件」を可決し、「相当身分ある外国人にて宮内省處轄離宮拝観願出に対し従来の許可手続を一層簡易ならしむるため、宮内省に交渉を開く方法に付協議」をし、「常務委員及幹事互選の議は、会長の指令に一任する事」に決した事が報じられたのみならず、「前役員は客月任期満了に付会長より左の諸氏(30人)に評議員を委嘱し何れも就任承諾の件を報告」も報じられていた。実際には、旧役員6人(蜂須賀正韶、横山孫一郎、益田孝、大倉喜八郎、園田孝吉、プリンクリー)が含まれているが、この新評議員の一人として高橋是清が含まれていたのである。

 彼は、この時は日銀副総裁、横浜正金頭取を兼任し、整理外債起債中間報告で39年2月13日帰国し、9月6日外債借換えのために訪英する途中であり、この間隙に喜賓会評議員への承諾要請書が舞い込んだことになるのである。「左の諸氏(30人)に評議員を委嘱し何れも就任承諾」とあるから、喜賓会の実態を分かって役員を引き受けたというより、「何れ」の候補も断りきれない。あるいは断るまでもない委嘱状(例えば、国際理解の重要性、従来の役員、名誉会員、歓待した貴賓者などの列挙や、皇室に献本し下賜金があった事など)だったから、断りをいれぬままに自然に承諾するというものとなったのであろう。

 この時に評議員委嘱された人々は、@実業人ー小川鋪吉(日本郵船取締役)、高橋義雄(三越重役)、田中銀之助(田中銀行頭取)、串田万蔵(三菱銀行)、近藤廉平(日本郵船社長)、浅野総一郎(渋沢関連の実業家)、桐島像一(三菱合資)、三井守之助(三井物産社長)、志村源太郎(日本勧業銀行副総裁)、土方久徴(日本銀行幹部、父は子爵)、森田茂吉(大日本セルロイド社長 )、A出版・ジャーナリストー伊藤欽亮(日本新聞社長)、大橋新太郎(博文堂、共同印刷)、大岡力(ジャーナリスト)、B現・元官僚・議員ー渡辺勘十郎(東京市助役)、添田寿一(元大蔵次官)、目賀田種太郎(元大蔵官僚、貴族院議員)、執行弘道(農商務省嘱託の各万博事務官)、廣澤金次郎(伯爵、貴族院議員)、C学者ー高楠順次郎(東京帝大教授、仏教学者)、D縁故ー益田英作(益田孝弟)、益田太郎(益田孝長男)、渋沢篤二(栄一長男、渋沢倉庫社長)である。大実業家にして儒教信奉者の渋沢に委嘱されれば、@の実業人などは断れないであろう。ただし、注目すべきことは、Dで渋沢、益田の縁故者を当てていることである。これは、ここまでしなければ、30人の評議員候補の選定に苦労したことを示唆している。この時の評議員は、員数合わせの傾向が看取される。喜賓会側で、高橋是清の国際観光振興論を知った上で評議員就任を要請したのではなく、日銀副総裁、横浜正金頭取という役職で要請したに過ぎぬものであったろう。

                           
                           4 新外客増加策の推進

                       @ 東京勧業博覧会とホテル対応状況
                          
                           @ 東京勧業博覧会

 府営博覧会 明治23年第三回内国勧業博覧会開設以来、17年間も内国勧業博覧会は東京で開催されなかった。東京勧業協会(「実業家の指導者」を自認)は、その間、日本は日清戦争、日露戦争勝利で「世界の一等国」となったにも拘わらず、戦後経営の課題として「益々産業を発展し熾に製作品を改良して海外貿易を盛大ならしめ以て世界の商戦に奇利を博せざるべからざる時運に迫」っているとする。この時に、「此種の会を開設して其進歩発達を比較し其功労を表彰し其改良を奨励するは誠に時機に適したる企図」であるとした(『東京勧業博覧会事業報告』東京府庁、明治42年、3頁)。

 そこで、明治38年12月11日、東京府会は「東京府下に製作品大共進会を開設するの意見書」を決議し、ほぼ同時に東京勧業協会、東京実業組合聯合会が「一つの建議案」を提出した。これを受けて、東京府庁は、40年3月20日から7月31日まで上野公園に東京勧業博覧会を開催することにしたのである(『東京博覧会案内』東京市役所、明治40年4月、5−6頁)。

 最新博覧会の意義 尾崎行雄東京市長は、「博覧会について」で、「これまでは博覧会は学校の成績等の如く出来うる限り立派なものを特別に製作して架上に陳列し、観覧人もそれを見ること宛も招待者が生徒の作品を見るが如き観念」であり、「共進会の目的は単に目の保養に過ぎざるの感」があったが、「近来この弊を脱して博覧会は進歩せる製作界の代表陳列場たると同時に大なる勧工場(府営の共同店舗)にして、これによりて出品者は営業し、観覧者の中には需要を充たし得ることを承知するに至れる」とする(『東京勧業博覧会案内』93頁)。

 大博覧会との関連 松岡康毅農商務大臣は、政府ではなく、東京府が、巨費を投じていて、「大小設備の精粗」、「列品の精良」、「点数の多少」、外国製品の出品の諸点では、「既往の内国博覧会」に比較しても「優るとも劣らない」とする。そして、松岡は、「東京府民は、今日の博覧会を以て他日の大博覧会の準備行為となし、其時に及んで更に大成功を奏せられんこと」を期待するとした(『東京勧業博覧会案内』95頁)。

 審査総長の元蔵相曽祢荒助は、審査部長会で、「今回の博覧会は府の計画に属するも」、規模では「第五回内国勧業博覧会に劣らざるもの」があり、「今回の審査授賞の効果は次回の大博覧会に於ける産業界の準備なるべきをもって公平厳正に博覧会開設の主旨に副んことを望む」とした(『東京勧業博覧会案内』19−20頁)。

 巨大観客誘引理由 この博覧会の「観覧人六百余万の多きに上り、満都の人気を此会に吸収し」、「殆んど博覧会の東京たるの観あらしめ、一地方の施設としては実に未曽有の盛況を極めた」(『東京勧業博覧会事業報告』東京府庁、明治42年、4頁)。なぜこれだけの観客を呼び寄せることができたのであろうか。

 東京勧業博覧会がこれまでの博覧会史上で最大の観覧客を集め得たのは、会場の規模・魅力と交通の便利向上の故であった。会場の魅力・便宜とは、@135万円の経費で「大小16棟の陳列館及奏楽堂、演芸場等」を建設し(『東京博覧会案内』東京市役所、明治40年4月、6頁)、A各会場が趣向をこらして、特に「船すべり」(ウォーターシュート)、「回転観覧車」(大観覧車)の二大余興を設け、B「博覧会の開設中」には付近「各所の観物(みせもの)」も魅力的であり、40年3月下旬頃には、浅草公園の各観物場がかなり集客し(花屋敷2252人、電気館1450人、浪花踊1500、子供芝居652、青木玉乗450、珍世界120、木場館200人[40年3月28日付『読売新聞』])、D入場料は平日大人一人10銭、子供5銭と安く、5歳未満は無料であり、内外軍人も入場無料であったなどである(『東京勧業博覧会事業報告』)。

 空中回転車とウォーターシュートという二大魅力をもう少し見てみよう。所謂大観覧車は、「米国セントルイス博覧会(1904年)に設けられしものを模し車体(鉄骨製)の周囲は約二百尺(60m)、直径五十尺(15m)という大形の回転車に周囲12尺毎の支柱に客室十八個(一箱に八人乗り)取付け、これに乗客を収容し、徐々空中に回転し、地を抜くこと七十五尺(不忍池面)の高き所に至りて止む仕掛となり居るより、一度之れに搭乗すれば、東京全市を一眸に収め得るのみならず、関東の原野、山獄は煙霞縹渺之間に見渡すを得べ」(『東京勧業博覧会案内』精行社出版部、明治40年6月、40頁)きものであった。

 「舟滑遊戯」(ウォーターシュート)は、「第二会場不忍池の東方」に「曾て英国グラスゴー博覧会(1901年、入場者1149万人)に設けられし型を標準」として、「高さ約五十尺(15m)、傾斜面二百尺(60m)」である。『グラスゴー万国博覧会出品同盟会報告』(窪田勘六編、明治35年、73頁)によれば、カナダ人キラルフイーがこれを創始し、1900年米国サンフランシスコで建設され、「其の壮快なるが為乗客日に三千乃至五千人」に及び、老若男女「何れも嬉々として快を呼べり」とある。ここに着目したのであろう。

 さらに、夜間イルミ―ネーションも大いに注目を集めた。これは、「日曜日、大祭日、又は一日、十五日と夜間開場をなし、昼間同様公衆の観覧を予定にて全館(3万5084燈、点火料は一夜1300円)イルミネーションを点火する」のである。この電灯数は、大阪の第五回勧業博覧会での点火イルミネーション電灯数6700台余の5倍である(『東京勧業博覧会案内』63ー56頁)。月数回のイルミ―ネーションの夕べだが、これも話題となって相応に集客したであろう。

 大観覧車とウオーターシュートは子供を含む家族らに人気があったとすれば、このイルミネーションは大人の男女の関心を集めたようだ。だから、明治40年6月23日から10月29日まで朝日新聞に連載された『虞美人草』で、夏目漱石は、博覧会でのイルミネーションに少なからず触れている。漱石の博覧会・イルミネーション論は文明批判である。「文明を刺激の袋の底に篩(ふる)い寄せると博覧会になる。博覧会を鈍き夜の砂に漉(こ)せば燦(さん)たるイルミネーションになる。いやしくも生きてあらば、生きたる証拠を求めんがためにイルミネーションを見て、あっと驚かざるべからず。文明に麻痺したる文明の民は、あっと驚く時、始めて生きているなと気がつく」と書いている。相当集客したようだ。

 だから、漱石は、博覧会、イルミネーションは「当世」(今時風)だとする。「博覧会は当世である。イルミネーションはもっとも当世である。驚ろかんとしてここにあつまる者は皆当世的の男と女である。ただあっと云って、当世的に生存の自覚を強くするためである。御互に御互の顔を見て、御互の世は当世だと黙契して、自己の勢力を多数と認識したる後、家に帰って安眠するためである」。博覧会、イルミネーションは開明化をひた走る日本を象徴するとする。東京博覧会は漱石文学にも「痕跡」を残していたのである。

 それだけではない。演芸館もあり、「中村芝翫、川上音次郎の新旧俳優交る交る出演し、其他能狂言、芸妓手踊等もあ」(『東京勧業博覧会案内』42頁)った。教育水族館は、「設計は米国セントルイス博覧会の水族館を模」したもので、「水槽は大小47個」あり、「いるか、おっとせい、かはうそ」等は放し飼いである(『東京勧業博覧会案内』58頁)。それ以外にも、博覧会の見ものが44個もあり、七宝装飾の陳列棚、鰹節の陳列、大灯篭、馬車、「世界第一の小時計」、二円の装飾足袋、石炭の大塊(「高さ九尺と八尺」)、「十万円の真珠」、「一万円余の銀器」、「芝生の献茶」、「五千円の雌牛」(『東京勧業博覧会案内』65ー76頁)などであるとする。

 今回の博覧会は「一府庁の経営」だが、台湾館、朝鮮館、外国館が加わり、大阪の第五回内国勧業博覧会に比して「優るとも劣ることなき大発展」であり、「戦捷国の首都が、来る四十五年都下に開かる金石となりし所以」とする(『東京勧業博覧会案内』精行社出版部、明治40年6月、1頁)。

 交通の便 この観覧魅力に交通の便の飛躍的向上が加わった。

 すでに、明治36年11月25日、新橋─上野間に運賃三銭均一で市街電車が開通し、この市街電車が全国鉄道と連結する事によって、上野博覧会場への交通が格段に便利になった。

 この点を掘り下げれば、「第一第二第三回共に此地(上野)を以て敷地に充てられた」が、「今や遠近交通に機関、大に発達し、市内交通機関としては東京鉄道会社に属する電車は市内孰れよりするも、公園前に至るを得べく」、又「鉄道は上野線に依る旅客は直に会場前に輸送するを得べく」、又「関西地方よるする者は新橋、若しくは品川駅に下車すれば、是又直に電車を以て瞬時にして会場に至るを得べ」く、「其他甲武、総武線等の各鉄道は皆東鉄電車に聯絡の便を得べく実に四通八達の要地と云ふべし」(『東京勧業博覧会案内』精行社出版部、明治40年6月、1頁)となったのである。

 つまり、東海道線利用者は品川、新橋に下車すれば、「上野行直通電車」に乗ればいいだけである。旧甲武線利用者は、新宿からは「神田、両国行の電車」で須田町乗換で上野に行き、「雑踏」を避けたいものは「多少賃銭を余分に要すが四谷から乗車がよく」、御茶ノ水下車者は「小川町東明館前」で上野行に乗り換えるとする。「房総、成田、東武、総武の鉄道線」の利用者は両国で下車して、上野広小路への直通便に乗るとする。『東京勧業博覧会案内』の広告でも、Tukimi Hotel(月見旅館、東京市芝区愛宕町2丁目十四番地)は「上野公園博覧会及各方面へは電車の便利至てよろし」(『東京勧業博覧会案内』精行社出版部、明治40年6月、89−90頁)と、市電の便をも強調していた。

 さらに、汽車汽船運賃の割引がなされた。つまり、「帝国鉄道庁にては四月十五日より七月三十一日まで東京勧業博覧会観覧人の便を計り、東海、山陽、北陸、中央西線各駅より新橋迄及び中央東線信越日本線の内、山手線各駅より飯田町及び上野駅に至る往復一割引乗車券を発売」した。総武鉄道は、「帰路のみ四割引」と破格である(『東京勧業博覧会案内』85−88頁)。『虞美人草』で、夏目漱石は、小野清三宛井上孤堂書簡に「博覧会にて御地は定めて雑沓の事と存候」と、博覧会で全国の人々が東京に集中している事に触れている。

 こうした各種の交通至便化もあって、博覧会場で何か気に入ったものがあれば、少なからざるリピーターを生んであろう。例えば、『虞美人草』で、漱石は、宗近一は既に博覧会場に三回来て、イルミ―ネーションが点くと、「これは奇観だ。ざっと竜宮だね」と発言させている。漱石自身も、このイルミネーションを見るために、何度か博覧会場に足を運んだのであろう。
 
 また、全体を見ようとすれば、最低三回の見学は必要であったろう。例えば、裕仁、雍仁親王も三回来ている。つまり、明治40年5月17日午後、裕仁親王(後の昭和天皇)、雍仁(やすひと)親王らが、初めて「上野公園において開催中の東京勧業博覧会」に赴いた。「会頭東京府知事千家尊福等の先導により、第一会場の諸物品展示を巡覧され」、「特に観覧車や大砲、孔雀玩具模型などを熱心に御覧になる」。21日午後には、裕仁、雍仁、宜仁三親王がお揃いで博覧会を訪れ、第三会場の体育館で運動機会、不忍池脇の第二会場で台湾館・水族館・瓦斯館・外国館・機械館を見学した。6月2日夜には、三親王が「第一会場のイルミネーション、第二会場の花火、会場全体の夜景」等を観覧したのである(『昭和天皇実録』第一(明治34年ー)、東京書籍株式会社、平成27年、217−8頁)。一般庶民は、彼らほどではないにしても、三回見学を容易にする交通の便を享受できたであろう。

 終了 この博覧会では、事件などもなく40年7月31日に無事終了した。ただし、40年5月22日付『読売新聞』では、読売楼主人は「いろは便」で、「初めに躊躇して手遅れし、最後に慌忙(あわ)つるがため、百事紛乱、失態続出なるは目下の東京博覧会」と、いかにも問題続出のように書いている。実に壮大な視野で、多くの事物・テーマを扱ったから、細部では少なからず問題が起きたのであろうか。

 閉会式の状況は、「東京博覧会は31日午後七時より場内演芸場に於て閉会式を挙げたるが、今その次第を記せば、第一号館にて来賓一同式場に参集し、第一奏楽を行ひて、千家(尊福東京府知事)会長式弾に立ち前項の式辞を朗読せり。終わりて第二奏楽を行ひ、次で農商務大臣、東京府会議長、東京市長、協賛会副会長、出品人総代各祝辞を述べ、第三奏楽を以て式を了り、それより一同喜賓館に入りて、茶菓の饗応に応じ散会せり」というものだった。

 さらに、「又余興として博覧会及び同協賛会及び同協賛会事務員、新聞記者等の仮装行列ありて、第一会場の夜間開場は殊の外賑」( 明治40年8月1日中外商業[『明治編年史』296頁])ったのである。
      
                         A 東京でのホテル対応状況

 東京の旅館 『東京勧業博覧会案内』付録の『東京遊覧の栞』では、東京で外客の宿泊が多い大ホテルは、帝国ホテル、メトロポール・ホテルであるとされる。帝国ホテルは「洋風の三層楼」で「宏壮なるは東京のホテル中第一位」である。「本邦に観光の外客は概ね此に投宿」した事は言うまでもない。築地メトロポール・ホテルは横浜クラブホテルが元米国公使館の土地借地権と建物を購入して建てたものであり、「建築は二層楼にして美ならざるも、設備は完全」であった。「一般外人の投宿に便とす」とされた。その他、愛宕ホテルは「位地は高燥にして眺望之絶勝なるは都下第一」(129頁)とし、ろせったホテルもあげられている(『東京勧業博覧会案内』付録の『東京遊覧の栞』128−9頁)。

 ろせったホテルは後述するが、愛宕ホテルは前述した通りである。

 この他、内客用として、数百の旅宿があり、「有名なるもの」254館が掲出されている(『東京勧業博覧会案内』付録の『東京遊覧の栞』129ー136頁)。この中には、『東京勧業博覧会案内』の広告で、月見旅館(東京市芝区愛宕町2丁目十四番地)が英語名Tukimi Hotelでも紹介されていたように、和風旅館もホテルを称して外客受入れを図るものもあった。そこでは、明らかに外客を意識して、「寝具、食器類は衛生上専ら清潔に注意せり」、「茶代は堅く謝絶し実直親切を主とす」、「御逗留には低廉軽便なる月極の御相談に応ず」(『東京勧業博覧会案内』精行社出版部、明治40年6月)ともある。

 宿泊料を見ると、帝国ホテルは、一泊7−20円、食料は一日4円(136頁)、メトロポールホテルは一等8−10円、2等6円、3等5円、朝食一円、昼晩食1円50銭である。内客も宿泊できるが、この高い宿泊料を負担できる内客は限られてこよう。

 因みに、内客の旅人宿では、上等旅人宿は3−2円、食費は85銭、1円、中等旅人宿は1円50銭ー75銭、食費40銭、並等旅人宿は55銭ー45銭、食費20銭である(『東京勧業博覧会案内』付録の『東京遊覧の栞』136頁)。

 これ等は、国内旅客を受け入れるに十分であったろう。問題は外客であり、帝国ホテル、メトロポールホテル、愛宕ホテル、ろせったホテルなどで十分であったろうか。

 ろせったホテル ろせったホテルは、外客ホテル不足の打開策の一つとして提案された汽船ホテルである。これは明治39年まで現役の客船として活躍していた。明治39年には、朝日新聞はこのロセッタ丸で会員を募って満州、韓国を巡遊している。この事は、明治39年9月4日付『朝日新聞』社告で、東京朝日新聞、大阪朝日新聞が満韓巡遊各地、歓迎団体及諸君に、「ろせった丸巡遊の節は、炎暑の侯多人数に拘わらず、各処非常の御歓待を蒙り、深謝の至りに候。会員一同の満足は勿論、本社の任務も遺憾なく全うするを得、茲に謹んで謝意を表し候」としている事から確認される。ホテル不足の深刻化する過程で、これをホテルとしても活用することが検討されていった。

 『東京勧業博覧会案内』付録の『東京遊覧の栞』によると、ろせったホテルは、東京芝浦海岸にあり、「汽船ろせった丸を品海に投錨し陸上本館と接続しあり。以て旅客の覧に供したるもの。夏季殊に宜し」(129頁)とある。これだとすぐに使えるように見える。しかし、これはまだ改修過程にあった。

 東京博覧会の終わった40年9月18日付『読売新聞』の「汽船ホテル」記事では、「芝浜旧大光館前面に繋留せられるべきホテル用汽船ロセッタ丸は過般来、旧台場沖俗称軍艦泊に於て船内各部の装飾工事中なりしが、愈々来る二十二日の高潮とともに、予定繋留地に引入るる予定なり」とある。

 40年9月26日付『読売新聞』「海上のホテル ロセッタを見る」では、これは「尾城某等が計画」したもので、ロセッタ号は建造費185万円で「二十年前英国で出来た客船で総噸数3700噸」であり、「長さ60間、幅14、5間、船底から甲板まで五階になって居て階毎に料理や室風が異なっている」とする。

 「五階の内甲板を遊技場又は運動場に充て」、「今の処では玉突き、台湾喫茶店、ビーヤホール位しか計画はしていない」。「四階が西洋料理で上等室ばかり、五六十室」あり、「三階は日本料理で360畳敷、230畳敷、50畳、40畳などの大広間」、「他に寝室も多人数を収容」するとし、「二階は支那料理」とする。そして、「化粧室は各国人に適する様に世界各国で使用して居る器具用品を備え付け」、「寝具は毎日取り替え」ると、明らかに外客仕様である。そして、来月下旬に竣工予定とする。

 40年10月10日付『読売新聞』は、株主向け広告で、「予て曳入中なるろせつた号、本日無事許可地に曳入据付相済候間、此段株主諸君に広告す」と報じる。40年12月13日付『読売新聞』で、ろせつたホテル開業広告を出し、「今春来建築中の処、此程 陸上並びに海上四層楼の内最下層の外、悉皆落成板致候」、「来る十七日より御料理御宿泊共開業」するが、「開業式の儀は最下層竣成の上、明春草々執行可致」とする。上記『東京勧業博覧会案内』広告は、陸上本館の利用が主であり、汽船ろせったホテルはまだ利用には至らなかった段階でのものだったことになる。

 以後、ここで、43年には東京実演博覧会が開催されたりしている。43年4月27日付『読売新聞』の「ロセッタ博覧会」によると、「芝浦の不景気挽回策として考出されたる東京実演博覧会(総裁柳原伯、会頭千家男)はロセッタホテルを中心として五月一日より六月三十日迄二ヶ月間開催される」とある。

 芝浦工業地帯のメーカーらがロゼッタ・ホテルでこれを企画したようだ。「会場はロセッタホテルを本館とし、更にこれを二つに分けて第一、二甲板を第一会場、第三層甲板を第二会場」とし、「教育学芸、美術工芸、内外工業製品、発明品、水産六部船舶、運輸、通信、農業、園芸、採鉱、冶金、機械土木、衛生救済、織物、玩具、漆器、書画骨董、電機、陸海軍用品及武器」を扱うとする。そして、「此博覧会の特徴は、技術者・職工の製造・仕上げ・販売にある」とする。さらに、売店、活動写真三棟、夜間イルミネーション、二千基のガス灯をも備え、手品、軽業の余興もあるという。

 この結果を見て、7月1日から10月15日にも、「さらに大規模及び新趣向にて第二回を開会する計画なりという」。ロゼッタ・ホテルは、地元の特徴を生かして、多様に活用された。

 小括 明治39年あれだけ東京博覧会でのホテル不足を懸念されていながら、深刻な事態(多数の外客がホテル不足で宿舎発見できないなど)に直面することはほとんどなかった。宿泊所を見つけられなかった外客は、どうにか「友人の家」、「公使館、領事館」、「船舶」に泊まったりしていたようだ(明治40年3月23日第23回帝国議会の衆議院議事速記録第20号[明治40年3月24日『官報号外』])。チェンバレンなども、既に明治20年代に、東京のホテルには、「帝国ホテル、東京ホテル、クラブ・ホテル、精養軒ホテル」がありとしつつも、「宿泊代がいらず邪魔者もいない友人の家に宿泊するとよい」(B.H.チェンバレン、楠家重敏訳『日本旅行案内』新人物往来社、昭和63年、32頁)としていた。

 ただし、明治40年3月衆議院で坂谷芳郎蔵相が指摘するように、「中には夕方に神戸なり、横浜に着いて宿る所がなくて波止場に一晩立って居たと云ふやうな人」(第23帝国議会「委員会議事録」[国会作成のPDF])もいたようだが、あくまでこれは居留地ホテルの収用規模の問題であり、そういう深刻事態が日本側の責任として大きく騒がれることはなかった。だから、阪谷も国会でこれを指摘したのであろう。

 こうして、基本的には、日本側は、東京では帝国ホテル、メトロポールホテルを基軸に既存ホテルをフル活用し、「友人の家」、「公使館、領事館」、「船舶」を補完的に利用しつつ、横浜では居留地ホテルが受容能力増加で対応し。外客増加に対応していたということであろう。以下、これを見てみよう。

                          B 居留地ホテルの増設

 居留地は、日英通商条約の27年調印、32年発効で、32年に領事裁判権廃止、日本国内の外国人解放などが法律的には実現され、法律的には居留地は消滅するが、以後も借地権は存続し居留地特徴は暫らく残存する。従って、明治32年以後は旧居留地と表現すべきだが、外国企業、外国住宅等は変わらず存続するという点で、ここでは居留地と表現している。

 横浜居留地ホテル まず、明治30年「The Yokohama Directory[The Japan Directory,1897]」(国立公文書館所蔵)からみると、@5-B番ーClub Hotel,Limited(H.C.Litchfield,Chairman,;Capt.A.Bougouin,T.L.Brower,H.N.Arnold.A.Coye.E.Knaff.R.Ward.ら6人がDirector)、A11番ーOriental Hotel(in consyruction建設中)、B18,19,20番ーThe Grand Hotel Ltd.(J.F.Lowder,Chairman,James Walter,B.C.Howard,C.K.M.Martin,Dr.C.H.H.HallがDirector)、C26番ーClarendon Hotel(F.Staniland.Mrs.F.Stanilad),D40番ーWright's Hotel(W.N.Wright,Proprietor,Mrs.W.N.Wright,H.L.Ling,Chef de Cuisine,T,Okazaki,Hall Porter and Interpretar,19 Japanese),E97番ーOriental Hotel(S.E.Pratt)、F133番ーHotel Du Commerce(O.Saldaigne,Proorietor,L.Sardaigne,Chief Cook,M.Sardaigne,Secretary,Otto,Steward),G136番ーCosmopolitan Hotel(Joseph Brown)、H149番ーEurope Hotel(S.Bernstein)、I164番ーThe Globe Hotel(Mrs.Hornstein,J188番ーInternational Hotel(Mrs.Barman)と、グランド・ホテル、クラブ・ホテルを頂点に九つの中小ホテルが族生した。

 40番の旧Occidental Hotel、Club Hotel Annexは、Wright's Hotelになる。97番Falcon Hotel(L.Hauestien)が消えてオリエンタル・ホテルが登場し、149番のChinese schoolが買収されて、Europe Hotel(S.Bernstein)が新設された。前述25年ホテル群に比べて、中小ホテルが群生し始め、これが39年ホテル危機迄持続し、危機を緩和していたのである。

 11番オリエンタル・ホテルは、フランス人経営者ムラオ―ルが、明治6年頃、「規模小さく家庭的」で「食事がおいしい」ホテルを開業した事に淵源するというが(村岡実『日本のホテル小史』73−4頁)、まずこのムラオ―ルは6年9月に開業したグランド・ホテルの料理長となり(村岡実『日本のホテル小史』65頁)、そこで腕をますます磨き、資金も貯えたのであろう。11番はもともとオリエンタル・バンクがあった場所であり、明治25年に該行が倒産した後に、ムラオ―ルがここにオリエンタル・ホテルを開設しようとしたようだ。明治30年にはまだ建設中であり、これが既存オリエンタル・ホテルと区分するために、オリエンタル・パレス・ホテルになったようだ。

 次に、明治39年「The Yokohama Directory[The Japan Directory,1906]」(国立公文書館所蔵)によると、
@5番ーClub Hotel,Ltd(H.C.Litchfield,Chairman,;A.Weston,M.Russel,D.H.Blakje,H.J.Nevilleら4人がDirector)、A11番ーOriental Palace Hotel(Muraour & Dewette,Proprietors共同所有、L.Muraour,Managing Proprietor,L.Dewette,Managing Proprietor.J.Muraour,Secretary,A Duron,Chef,W.H.Parkinson,Agent,C,Nagamine,Chief Steward)、B18,19,20番ーThe Grand Hotel Ltd.(Dr.C.H.H.HallがChaiman,C.K.Marshall Wartin,B.C.Howard.L.MottetがDirector)、20番にはGrand Hotel Barber Saloon設立,B26番ーHotel,De Geneve(Jules Dubois,Proprioter,Mme.Jules Dubois),Cave de L'hotel De Genevawp併設、C32番ーThe Windsor Hotel(Mrs.Lydia Gonzales,Miss Lizzie Gonzales,Mrs.Isaac Gonzales.Mrs.Martha Keefe,Miss C.Peace)、D40番ーWright's Hotel(W.N.Wright,Proprietor,Mrs.W.N.Wright,W.M.Senior,Steward and Agent,,H,Saito,Hall Porter and Interpretar,19 Japanese),E87番ーPhenix Hotel(C.B.Clausen,Mrs.C.B.Clause,)、F88番B-"The Beresford"Hotel(A.E.Fisher,Propriety,T.Tamanan[玉名か],Manager)、
G97番(French Hatoba Street)では、Oriental Hotel(S.E.Pratt)が消えて、4ホテルが族生、Criterion Hotel(G.F.Heeney,Proprirtor),Britania Hotel(Karl Lewis,Geo.H.Tuckey),Europe Hotel,American Hotel、H126番ーCosmopolitan Hotel(Mrs.Rosa Goldenberg)、I133番ーHotel Du Commerceは消えて、Imperial Hotel(A.Richter,Proprietor)が設立、J136番ーGolden Eagle Hotel(Mrs.R.LebVity)、KShamrock Hotel(J.Ortiz & Son)が登場し,149番ーEurope Hotel(S.Bernstein)は消え、164番ーThe Globe Hotel(Mrs.Hornstein,も消え、LHotel de Paris(L.Cotte,Proprietor)、MRed,White & Blue Hotelが登場し、
N188番ーInternational Hotel(経営者をMrs.Hornstein,C.Hongtonに変更しつつ存続)と、中小ホテルが6つ増加し、グランド・ホテルは理髪店を新設して、設備を拡充している。

 この中小ホテルの経営者の一部が夫人によって担われていたことが注目される。朝日新聞は、「漫遊外客増加は・・ホテルの増設を促し、横浜にてはアー、リヒテル夫人が山下町133番にイムぺリアル・ホテルなるものを開き、シュミット夫人は同町119番にメトロポール・ホテルなるものを開けり」(明治39年5月16日東京朝日新聞「」外人旅館欠乏の一例」)と報道している。その他、32番The Windsor Hotelは女性陣によっ経営され(Mrs.Lydia Gonzales,Miss Lizzie Gonzales,Mrs.Isaac Gonzales.Mrs.Martha Keefe,Miss C.Peace)、126番Cosmopolitan Hotelはローザ夫人(Mrs.Rosa Goldenberg)が経営し、188番International Hotelは経営者をMrs.Hornstein,C.Hongtonに変更しつつ存続し、87番Phenix Hotelはクロウゼン夫婦(C.B.Clausen,Mrs.C.B.Clause,)が経営していたのである。

 また、11番のオリエンタル・ホテルが、オリエンタル・パレス・ホテルになり、MuraourとDewetteの共同経営となり、スタッフ陣から見ても相応の規模のホテルであり、42年6月の横浜グランドホテル社長ホール(C.H.Hall)の呼びかけた「日本ホテル組合の結成」メンバーにクラブ・ホテルとともに加わっている。

 こうした横浜居留地の中小ホテル増加などが、39年ホテル危機緩和の一因であったのである。グランド・ホテル会長のホール(Dr.C.H.H.Hall)が、前述のように明治42年に「日本ホテル組合の結成」を提唱し、日本ホテル協会副会長に就任した背景には、こういう居留地ホテルの外客受入れ拡大の実績があったのであろう。つまり、ホールは、横浜居留地の個人住宅に外客受入れを打診し、そのいくつかがホテル、インを名乗るようになり、それらが居留地での外客受入れの基盤をなしていたと思われる。

 翌40年の横浜居留地ホテルの外客受入れ状況を確認してみよう。40年3月下旬、「横浜のホテルに外客充満」し、「横浜山下町二十番グランドホテルヲ始め十一番ヲリエンタルホテル其他のホテルは目下観光来遊の客充満し、尚26日米国より横浜に入港せし米国郵船モンゴリヤ号にて143人も一時に渡来せしかば、二十番の如きは百六十余の客室皆塞がりたり」(40年3月28日付『読売新聞』)と、横浜居留地の大中小ホテル群が外客を迎え入れていたことが確認される。

 40年4月上旬には、「横浜山下町各ホテルの賑わい」が顕著になり、「本邦観光の為め渡来せる外人甚だ多くして横浜山下町の各ホテルは何づれも満員の有様なるが、実は博覧会の整頓するを待つ者多きが為に追々状況の暁に至りては多分閑散に赴くならん」(40年4月12日付『読売新聞』)とする。博覧会観光の外客で「飽和」状況に達した。しかし、翌41年3月1日には、「横浜市山下町の各ホテルは毎年今頃は閑散の時節」で、20番グランドホテル40余人、11番オリエンタル・ホテル24人、17番プレサンド・ホテル20人、5番クラブ・ホテル60余人(興行師の子供30人余)となる(41年3月2日付『読売新聞』)。興行師がクラブ・ホテルを出発すれば、外客は著減するのである。

 このように、横浜居留地ホテル群が40年に博覧会で増加する外客の一部を吸収していたのである。居留地実業家らは、日本は外客増加でホテル不足が深刻化しそうだという情報を既に入手していて、大ホテルは規模・設備を拡張し、中小ホテルが増設されたのではないかと推定される。
 
 なお、獅子文六は、『横浜今昔』(昭和32年刊)で、明治40年頃の横浜海岸通りについて、二大外国人ホテルとして、イギリス人経営のグランドホテル、フランス人経営のオリエンタル(パレス)ホテルとしている(村岡実『日本のホテル小史』67−8頁)。

 明治45年5月初めの横浜各ホテルの外客数を確認すると、「例年春暖の候に向へば諸外国より本邦への観光客漸次多きを加へ来るが、本年もその例に洩れず、目下横浜に逗留中なる外客はグランドホテルの74人を筆頭とし、オリエンタルホテル70人、ローヤルホテル26人、クラブホテル46人、ベルモットホテル11人、ファンス・ホテル16人、ブラフホテル(山手通2番)31人、ライトホテル(40番)15人等にて合計290人の多きに達し、横浜のホテルが狭隘なるため東京、鎌倉、日光等にも赴き居るものの数も二百余名に及べり」(明治45年5月2日付『読売新聞』)としている。僅か6年後でも中小ホテルの興廃があったようで、ベルモットホテル、ファンス・ホテル、ブラフホテル(これは山手通2番)などが登場している。ここでは、「横浜のホテルが狭隘なるため東京、鎌倉、日光等にも赴き居る」と、横浜居留地ホテル群が日本の東京ホテル群を補完しているとしている。それだけ東京、鎌倉、日光等の日本側の外客受容にまだ限界があるということであろう。

 その後、グランド・ホテルは関東大震災で壊滅し、「震災保険を株主に分配して解散」したが、横浜市と横浜商業会議所が「建物を市が建設し、経営を新会社に委託」することになり、昭和2年12月ホテル・ニューグランドが開業した(村岡実『日本のホテル小史』70頁)。オリエンタル・パレス・ホテルは、明治34年に延焼によって焼失し、翌年に5階建の新築により営業を再開したが、関東大震災で倒壊焼失し、再建されることはなかった(村岡実『日本のホテル小史』69頁など)。一方、オリエンタル・パレス・ホテルは、関東大震災で倒壊焼失し、再建されることはなかった。また、クラブ・ホテルは、延焼(明治32年)、出火(明治40、42年)などで衰退しつつも、中堅として存在していたが、既に大正6年に解散した。

 神戸居留地ホテル 神戸居留地では、オリエンタル・ホテルが主導的役割を発揮していた。

 明治30年「The Kobe Directory[The Japan Directory,1897]」(国立公文書館所蔵)では、@80番ーThe Oriental Hotel Limited(Crosse,C.N.,Chasirman,Melhuish,Geo.J.Groom.A H.Directors)、A87番ーOriental Hotel Annexe(A.Gillmore Smith,D.D.S,Dental Surgeon,Perl,Gray B.D.D.S.,Assistant、外科病院を併設)と、18番からKobe Hotelが消える。47番Hotel D'Europe(Reymond,J.B.56番Hotel des Colonies(Boudon,Mame)も消える。47番Hotel D'Europe(Reymond,J.B.56番Hotel des Colonies(Boudon,Mame)も消える。オリエンタル・ホテルは、明治26年、「隣接地87番を買収してイギリス人、A.N.ハンセルの設計で別館を設計」し、「80番の二階全部を客室に改造」して、建坪300余坪、地上3階地下1階の「神戸一のホテル」にした(村岡実『日本のホテル小史』57頁)。英国人A.H.グルームが役員に就任していることが確認され、明治30年にルイ・ベギューからオリエンタル・ホテルを買い取り、自らは社長になり、専務リーネル、役員モンテギュー、カークウッド、E.H.ハンターらが「株式会社として近代経営」を行なった(村岡実『日本のホテル小史』58頁)。

 明治39年1906年「The Hiogo Directory[The Japan Directory,1906]」(国立公文書館所蔵)によると、@18番Hyogo Hote(W.A.Walters,Proprietor)、A79,80,81,87番ーThe Oriental Hotel,L(A.H.Groom.Chairman,;H.E.Reynell, Th.deBerigny,A.WooleryはDiectors)と、オリエンタル・ホテルが79番、81番と両側の土地を買収して、ホテル規模を拡張している。神戸では、中小ホテルではなく、オリエンタル・ホテルの大規模化が外客増加に対応していたのである。The Hiogo Directoryに中小ホテルの遺漏があったことも推定されるが、明治36年版『チェンバレン日本帝国小史』でも「オリエンタル・ホテルと並びイースタン・ホテルの記載」があるのみであり、明治40年発行『マレー日本案内記』でも神戸にはオリエンタル、グランド・ホテル、ザ・カリフォルニア、ミカド・ホテルのみ記載されている(村岡実『日本のホテル小史』60頁)。

 明治40年には、グルームは、「海岸通り6番にドイツ人ゲ・デ・ラ・ランデーの設計」になる「600坪の敷地に以前の二倍近い566坪」の「専用浴室付」の「新しいオリエンタル・ホテルを建設」した(村岡実『日本のホテル小史』58頁)。

 イギリス士官が結婚式場を選ぶに際して、横浜のグランド・ホテルではなく、美しく成長する神戸オリエンタル・ホテルを選ぶこともあった。例えば、40年5月21日付『読売新聞』によると、英国支那艦隊の旗艦キング・アルフレッド号のツリーチー大尉が、英国居住クロスマンとの結婚を横浜、神戸、長崎で計画し、クロスマンが母と横浜に到着し、三人で写真などを見て、式は神戸オリエンタル・ホテルに挙げることに決めた。そして、5月18日から「部下の水兵等も出張して飾り付けをなし」、「式場は食卓より四方の壁に至るまで花と緑葉とにて美しく飾り、場之入口は各国の旗を美々しく張り渡し、また軍艦キングアルフレッドよりは艦長サースバー大佐を初め将校数十名が肩章、袖章の金モールさては胸間の勲章など閃かして臨席し、下士卒約数十名も来りて興を添ふる事となり、午後一時よりは殊に同艦より来れるストリング・バンドの洋洋たる音楽の中に目出たき結婚の式を了り、それより花婿花嫁は各馬車に乗り、両車とも馬匹(ばひつ)を用いず、長き赤布を繋ぎ合わせ各二十余名の水兵はエンやエンやとこれを曳きて西町なる加特力(カトリック)会堂に入り、ここに宗教上の厳粛なる式を了りたる後、再びオリエンタル・ホテルに引き返して楽しき音楽に迎えられつつ二人は手を携えて会場に入り来り、やがて宴に移」っている。新夫婦は、「蜜月を楽しむべく、同四時四十五分三ノ宮発の列車にて京都に向ひ都ホテルに投じて京洛見物に余念なし」となる。

 明治43年、喜賓会発行『神戸ホテル案内』の神戸の項を見ると、中小ホテルが族生している。つまり、神戸にはオリエンタル・ホテル、ミカド・ホテル、トーア・ホテル(明治40年12月開業、社長ホルスタイン[ドイツ人])、ザ・カリフォルニア、グランド・ホテル、クラブ・ホテル、ホテル・グレンダール、ホテル・フランセーズと、8軒に倍増しているのである(村岡実『日本のホテル小史』61頁)。大正3年、大阪鉄道院発行『東亜案内日本編』の神戸では、グランド・ホテル、ホテル・グレンダールが消え、セントラル・ホテル(26室)、プレザントン・ホテルがオリエンタル・ホテル(100室)、トーア・ホテル(60室)、ミカド・ホテル、ザ・カリフォルニア(18室)、クラブ・ホテル(6室)、ホテル・フランセーズ(20室)に加わる(村岡実『日本のホテル小史』61頁)。明治40年頃から、神戸では、オリエンタル・ホテルを頂点に、中小ホテルが族生していることが確認される。ホテル増加面からも、神戸が文化都市京都と商業都市大阪と連携して外客増加に対応していたことが確認されよう。時期は若干ずれるが、神戸居留地ホテル群も横浜居留地ホテル群と同様に、外客増加の「調整弁」の一つとして機能していたのである。

 トーア・ホテル(Tor Hotel)は、居留地ではなく、明治40年にドイツ系会社によって「神戸の山の手、北野町」に設立され、ドイツ人マイアークが社長に就任した。オリエンタル・ホテルと並ぶ戦前の神戸屈指の高級ホテルであり、「浜のオリエンタル、山のトア」と称された。大正13年第一次大戦が起きると、敵国ドイツ人経営者は追放され、「代わってイギリス人のマイアークが社長」になった。昭和16年12月に太平洋戦争が勃発すると、「それまで英国系であったこのホテルはドイツ系ホテルに戻り」、湯浅恭三が社長となるが、19年「川崎重工業に身売りして廃業」した。戦後、トーア・ホテルは、オリエンタル・ホテルがの仮営業の場になったり、昭和25年焼失後の跡地が外国人クラブになったりした(村岡実『日本のホテル小史』146頁、三井住友トラスト不動産)。

 大正15年には、神戸政財界人が東洋汽船(大正6年に買収)からオリエンタル・ホテルを買収し、株式会社オリエンタル・ホテルを設立した(村岡実『日本のホテル小史』59頁)。


 長崎居留地ホテル 長崎は、明治30年「The Nagasaki Directory[The Japan Directory,1897]」(国立公文書館所蔵)によると、@Central Hotel(Conan,F.G.,Proprietor),AClub Hote(Winzel,L.,Proprietor,Henschel,O.,Manasger,Masse,M,Clerk ),BTiyoli Inn(Yves,Hunon、Yves HuonはArmy and Navy Innをこれに変えている)、CTravellers Inn(Goldengerg.H.GoldengergがCommercisal Innをこれに変えている)、DTemple Bar Inn(Grunberg,Mdm.R)と、ホテルは盛況ではなく、まだ大規模ホテルも存在しない。

 日清戦争後、賠償金を取得したことなどから、欧米諸国やロシア、清国から「大量の外国人商人が渡来」し、長崎がこの拠点となり、「長崎大浦の異人街には、一攫千金を夢見る外国人商人が溢れていた」。その結果、下記のように、「この時期、大浦を中心に長崎には大量のホテルが出現」した(村岡実『日本のホテル小史』147頁)。、

 明治31年、ナガサキ・ホテル(下り松)
 明治32年、ジャパン・ホテル(大浦25番)、
 明治33年、オテル・デ・コロニー(大浦)、インペリアル・デ・トリースト(大浦)、ホテル・メトロポール(大浦)、
       日の出ホテル(大浦)
 明治35年、ザ・メイン・ホテル(大浦)、ブリタニア・ホテル(梅ゲ崎)、ホテル・ダルニー・ヴォストック(大浦)
 明治36年、オテル・ド・フランス(大浦)、十番ホテル(南山手)、カイダ・ホテル(大浦)、ザ・ビラ・ホテル(大浦)
       イーグル・ホテル(松ヶ枝町)(村岡実『日本のホテル小史』148頁)

 ナガサキ・ホテルは、明治31年9月にF.リンガー、T .グラバーらが出資して、資本金13万円の株式会社組織で設立され、長崎で最初の三階建て大規模煉瓦建築の大ホテルであった(長崎大学「長崎ホテル」)。「室内の装飾もすべて電動式で、電気火災報知器から各室には電話まで備え付けてあ」り、コック長もフランスから招いてうて、「当時としては破格の高級ホテル」であった(村岡実『日本のホテル小史』149頁)。長崎外商らが、横浜、神戸の株式組織の大ホテルに刺激されて、設置したのであろう。外客向けホテル不足が、長崎にまで大ホテルを生み出したといえよう。

 ジャパン・ホテルは、大浦の外資系ホテル群の中で最初の日本人(清水幾太郎)経営のホテルであり、料金が「格段」に安く「おおいに繁盛」した。ホテル・ダルニー・ヴォストックも日本人経営のホテルで、ジャパン・ホテルの隣にあり、ロシア料理、「ロシア語を話せる使用人」でロシア人向けホテルを目指した(村岡実『日本のホテル小史』149頁)。カイダ・ホテルも日本人経営であったが、大正13年「火災で焼失し廃業」した。

 しかし、明治39年「The Nagasaki Directory[The Japan Directory,1906]」(国立公文書館所蔵)によると、@Cliff House Hotel(W.Walker,Jr.,Manager)、AGlobe Hotel,BHotel de France(J.Sirot.Proprietor,H.Balmes,Manager)、CNagasaki Hotel Co.LTD.(A.E.Willsher. Manager),DPrince of Wales Hotelがあるにとどまり、30年のホテルや上記の新興ホテルはほとんど存在していないジャパン・ホテル、カイダ・ホテルは記載もれであろう)。

 これは、日露戦争開始頃には、「日清戦争後のブームが去って日本経済が低迷し始め」「外国商館のなかに長崎を捨てて京浜、阪神に居を移す者が続出」し、「大浦の外国人向けホテルも・・さびれが目立」ち始めたことによっている。明治41年には「最大手のナガサキ・ホテル」も閉館に追い込まれた。「第一次大戦の好況時に・・日本人の手で業務が再開」されたが、「まもなく廃業」した(村岡実『日本のホテル小史』149−150頁)。ジャパン・ホテルは「長い間よく善戦した」が、昭和12年に「焼失、廃業」し、これを最後に「長崎大浦異人館のホテル群は完全に姿を消した」(村岡実『日本のホテル小史』150頁)。長崎は、京阪を控えた神戸、東京・箱根・日光を控えた横浜と違って、周辺経済圏ももたず拠点化しにくかったようだ。

 当時の京都外客の特徴 40年4付18日付『読売新聞』の「漫遊外人と京都」によると、「此の頃京都に滞在して居る漫遊外人の数は近年稀に見る多数で、京都、都、也阿彌の三ホテルとも満員となり、中村楼、沢文の如き日本旅館にまで溢れ、その数三百余名で、京都の地は何処を観ても外人の姿を見ざるはないといふ有様」であり、英国人、米、独、仏の順に多いとする。

 京都春先の旅行は中産階級の団体割引旅行だとする。「職業は概ね商人、武官」で「本国より乗り出すは少なく、南清から比律賓返の人々が多く、又個人として漫遊するよりは団体組織の方が余程経済になるので、諸種の団体を形造て来て居る」。すなわち、「米のレ−モンド・バーヂーコックス・パーテイー。東洋観光株式会社のパーチー(party)などは十数名宛連立て本月初旬から京都を見舞って居るこれらの団体は興味といひ経済といひ甚だ便利の仕組みであるから、年々加入者が増そうである」。総じて、「春の漫遊外人は総て舶来の赤毛布連(アカゲットレン、田舎者)が多いので、ホテルでは忙しいだけで余り儲からぬ。車夫も馬車屋も眼が廻るほど忙しいが、祝儀をくれる客人は少ない」とする。

 しかし、夏秋頃の旅行者の商人、将校は気前の良い上客だとする。「夏から秋へかけての漫遊者は金遣ひが奇麗で、またその中でも最も金銭を撒くのは英米両国の商人、次は各国陸海軍の将校で、学者、宣教師、官吏などは頗るケチである」。「それで、今日の調査によると、外人が一日にホテルに落とす金は十円から十五六円である」とする。この点では、時期は異なるが、上述の英国士官の結婚などは、上客の好例であった。

 「それからまた外人らも近頃は日本の趣味を研究したと見えて中々風雅な遊びをする者があって、抹茶挿花は言うに及ばず、囲碁をする人もあり、一方には祇園町、先斗町に流連(いつづけ)して片言交じりの端唄を唄ひてステテコを跳ね廻って日本通を極めるものもある」とする。この頃、京都で、外客が増えて、泊まるホテルがなかったという資料はない。
                       
                           C 第23帝国議会でのホテル審議

 明治39年にあれだけ民間でホテル問題が叫ばれていたので、国会でも問題にならないはずはなかったであろう。翌年の明治40年になってだが、第23帝国議会でホテル審議は二回なされていて、第二回審議が『日本ホテル略史』(81頁)で既に指摘れてはいたが、吉植庄一郎と阪谷蔵相の質疑が簡単に言及されるにとどまっている。また、第一回審議が木村吾郎氏の大著『日本のホテル産業百年史』(明石書房、2006年、234−5頁)で触れられているが、第二回審議の考察がなされていない。

 そこで、この国会審議は非常に重要であるが、これまでこれが本格的に検討されたことはなかったので、以下、これを詳細に検討してみよう。

 なお、このホテル問題については、政府側でも、既に留意して関係事項の実態調査をするのみならず、関係者・担当者を欧米に派遣して、ホテル調査・修業などに着手していた。例えば、35年2月に岡山県人猪原貞雄(後に大森ホテル経営[『人事興新録』第8版、昭和3年])が「大蔵省よりホテル研究の為め米国に派遣」され(『日本ホテル略史』運輸省観光課、54頁)、同年5月には岩下嘉一(子爵岩下方平の孫岩下家一[(農商務省商工局『海外実業練習生一覧』大正2年12月、国会図書館デジタルコレクション]、逗子なぎさホテル、丸ノ内ホテル設立)が「農商務省の貿易練習生としてホテル研究の為め欧州(スイスのローザンヌ)に派遣」された(『日本ホテル略史』54頁)。40年には岸衛(後に帝国ホテル副支配人、ニューヨークのアスターホテル名誉副支配人、熱海ホテル経営)がホテル業研究の為め渡英し、41年4月1日「ロンドンのホテル・セシルに事務員として入社」し、「ドイツ・バラストホテル副支配人、パリ・マジェスティックホテルに入社している(岸衛談[『日本ホテル略史』86頁]、森岩吉『国民同盟陣営展望』政界評論社、昭和9年、142頁)。

                            イ 明治40年3月23日委員会 

 明治40年3月24日『官報号外』として、「明治40年3月23日第23回帝国議会の衆議院議事速記録第20号」が発行され、この第七に「ホテル開設に関する建議案」(浅羽靖君外四名提出)が掲載されている。

                              a 大戸復三郎の建議

 建議案 大戸復三郎は、「岡山縣に於ける名望家」に生まれ、東京法律学校(後の法政大学)を卒業し、判事、弁護士を経て、実業界入りして、共立絹糸紡績会社取締役、加島銀行理事、岡山製氷会社取締役、中外燐寸株式会社社・朝鮮企業株式會?・備後水力電氣株式會?各取締役?長などを歴任し、明治37年、第9回衆議院議員総選挙に商工立国論を標榜して甲辰倶楽部から出馬し、当選を果たした(『人事興新録』第四版、大正4年、岡山商工会議所のHPなど)。大戸は、法律と実業に詳しい人物であり、国民に負担を強いず、正貨を獲得する方策としてホテルを把握していたようで、それを期待されての登壇であった。

 「ホテル開設に関する建議案」では、「近時商工業の観察に、将た観光漫遊に外人の本邦に渡来するもの日々益々多きを加ゆる」が、「従来旅館の設備、極めて不完全なるか為に」「外客をして宿するに家なく、泊するに所なく」、外客宿泊施設は「一大欠点」となっているので、「政府は断然、相当の保護奨励を與へ、速に之を建設せしむるの手段方法を取るは国際上及経済上頗る有利」とされた。大戸復三郎は、この建議案の朗読は「省略いたします」として、登壇する。

 ホテル不足の損害 本案提出者大戸復三郎は、「本案は事柄が『ホテル』と云ふ」小事のように聴えるから、「「世間に誤解をされても困りますから、成るべく簡単に其趣旨を申述べやう」とする。

 「近年此欧米清韓国等から我国に来遊して居る外人は少なくな」く、「殊に37、8年戦役後になりましては、外国人は我国忠勇の精神と、我高尚なる道義」に引きつけられ、「外国人は争うて此忠勇なる戦勝国の勝土に接して、不思議なる国民と握手することを熱望して」いるとする。

 外人は、従来は日本の「風光絶佳」で来日していたが、日露戦争後は、「日本国の驚くべき進歩の模様、それ等を観察したい」人が増加し、38年の来遊外人は3万6千人の「多き」に達し、「宿泊日数より延人員を割出」すと、約30万人になるとする。その外人が消費する金額は、戦争以前に既に「1500万円乃至2千万円と云ふ巨額」になり、戦後は4、5千万円と云う「大したる金」になる。これでも、「旅館の設備が不十分なる所」より、「友人の家」、「公使館、領事館」、「船舶」に泊まったりする人は「多いでありませう」し、「此以外に落としている金も蓋し少なくないであらう」から、かなり減らされた金額とする。そして、これらが、ホテル不足がもたらす正貨損失だというのである。

 然るに、「我国に設備」されているホテルでは、「既往の統計」から割出した来訪外客数を推計すると、「二千室位少ない」事になるとする。その結果、現在でもホテル不足で、「甚しきに至っては宿泊する宿が無い」ため、空しく帰国する者が「数多ある趣」である。さらに、日本に1、2ケ月滞在して「十分に見物」しようという外人も、期間を短縮して帰る事は「争うべからざる事実」と聞いているとする。

 ホテル充足の利益 だから、「旅館の設備がかなり整」へば、外客数が増加するのみならず、滞在期間も長くなり、現在の外客消費額4千万円が億に増加するのは「困難であるまい」とする。「殊に万国博覧会(次述)は既に近き年に迫ってお」り、沢山の外人の訪日を希望する。しかし、「現在の如く設備不十分」では、多くの来遊外人に「宿する旅館がない」という不体裁となる。これでは、「利益を失ふことの多大のみならず」、戦勝国としての品位の保持、国威の発揚では問題だとする。日露戦後経営で「国運の発展に必要欠くべからざる」計画(満韓経営、鉄道国有、港湾修築)がなされつつあるのに、「単り旅館の設備を欠いて居る」ことは「実に遺憾千万」とする。

 ホテル保護 戦後経営として殖産興業で輸出振興して輸出超過となることを「熱望」するが、これはいつまでも期待できないから、それとは別に外客増加で正貨を確保することが必要だとする。そのためにはホテルの充足が必要であり、ホテル不足問題への対処は「小問題」ではないとする。

 大戸は、「万国博覧会あたりに来る外人」を満足させるにはホテル設立に「千万円の金を掛け」る必要があるが、これを個人に放任すれば「千万円は愚か、其の半額若は三分の一の設備も出来まい」と憂慮する。そこで、例えば東京を本店とし、国内外(満州、中国、韓国)に支店を備える大会社が必要になるが、民間のみでは不十分だから、「政府は相当の保護奨励」でこれを「建設」してほしいと要望する。「今茲に具体的に述べる案はございませぬが、政府に於きましては、此建議を速やかに容れて提案して貰ひたい」とする。しかし、ここでは、ホテルに千万円かけねばならぬ根拠、ホテル保護の根拠などの説明が不十分である。

                       b 早速整爾との質疑応答

 早速整爾は、広島の「水?百姓の次男に生まれ」、上京して東京専門学校(後の早稲田大学)校主の家僕になって勉学し、明治20年に卒業し、校長代理になったが、事情があって故郷に戻り、明治22年芸備日々新聞社長、29年広島県会議員になる。35年以降、第10回42年を除きほぼ憲政会からでて連続当選し、大正14年には農林大臣、大正15年には大蔵大臣になる(『人事興信録』4版、『人事興信録』6版、『英雄偉人成功のかぎ』徳文社、昭和12年、山浦貫一『政局を繞る人々』四海書房、大正15年)。この議案の前の第一議案の税制整理などでも積極的に発言しているように、早速整爾は財政経済に詳しい人物である。

 早速は、「建議案を御提出になった御趣意は能く諒し」たが、具体的にホテルに対してどうしてほしいというのか、ホテル経営者に金をやるのか、ホテル開設者に金をやるのか、個人的に宿屋を営む者に金をやるのか、「会社を建てて一の宿屋若しくは料理屋風のものを設けやうとする」者に保護金をやるということなのか、これらが曖昧なので、具体的に承りたいとする。

 これに対して、大戸は「其方法に至りましては・・十分な案はありませぬ」とする。準備不足を露呈した。「兎に角一大会社を組織して・・それに相当の補給補助を與」へ、その場合「在来のホテルに対しては、其筋の調によると、合併させると云ふやうなことがあります」とする。「十分な案」はないとか、「其筋の調」によるとか、根拠不明で不十分な提案である。早速は、「さうすると宿屋をする、料理屋をするものに、金を呉れると云ふ趣意ですか」と尋ねると、大戸は、「兎に角其の辺の趣意ですから、どうか」と曖昧な返答をするだけである。煮え切らない質疑応答であった。

                            c 今後の方針

 恒松隆景は、「兎に角委員付託にして、十分調査せしむる必要があると思ひます」と発言して、議長に「指名九名の委員に付託せられんことを望みます」とした。この時、「反対」「賛成」「即決」というヤジがとびかった。重要案件だが、調査不十分の建議であったから、今後の調査が必要としたのであろう。

 杉田定一議長は、「恒松君の議長指名九名の委員に付託すると云ふ説に反対がありまする(「の」欠か)で、採決致します」として、「恒松君の説に同意の諸君の起立を願ひます」と発言すると、起立者多数で、「恒松君の通り可決」した。

 これに対して、共同提案者の一人吉植庄一郎が実業家大戸の主張が十分に意を尽くしていない事、既に留意し調査していた政府側の答弁が得られなかった事などに不満を覚えたか、浅羽靖らと相談して、急遽、阪谷芳郎蔵相を呼んで、再び委員会を開催しようとしたようだ。それが、次に検討する 明治40年3月26日委員会開催であろう。

                           ロ  明治40年3月26日委員会
              
 明治40年3月26日という第23帝国議会(39年12月28日ー40年3月27日)「閉会前日」、「ホテル開設に関する建議案」が衆議院で提出され審議された(「委員会議事録」[国会作成のPDF、以下、この資料に依拠])。出席委員は議長安田勲(千葉県、憲政本党、明治23年衆議院議員)、議案提案者吉植庄一郎(千葉県、北海道、政友会)、淺羽靖(北海道、立憲同志会)であり、賛成表明者は楠目玄(政友会)、松浦五兵衞(静岡、政友会)であり、同調した出席者は小林仲次(愛知県、銀行家、政友会)、高橋金治(岩手県、憲政本党)らであり、政党の枠を越えた議案の提出であり、政府側からは大藏大臣阪谷芳郎が出席した。

                           a 吉植庄一郎の議案説明                 

 吉植庄一郎は、千葉県出身で、明治29年北海道北竜町に入植し、明治37年には千葉県選挙区から出て昭和8年5月まで連続9回千葉県選出の衆議院議員を務め、昭和18年死去する。この間、彼は、この北海道植民から日本に正貨をもたらす海外移民に関心をもち、国が海外移民、殖民の奨励をするように移民法を改正した。以後、原内閣文部省参事官(大正9年)、田中内閣商工政務次官(昭和2年)を務めていくが(三枝昭三「吉植庄左衛門とその子孫たちー印旛沼開発」『農業土木学会誌』第53巻第11号、本埜村立本埜第二小学校長森山昭「郷土の先覚者 吉植庄一郎」平成20年[『北竜町ポータル』])、国際観光の舞台で再登場することはなかったようだ。

 彼は、ホテル問題が「高揚」して、海外移民が正貨をもたらすのと同様に、外客が正貨をもたらすことを知ると、その促進のためにホテル設備拡充への政府保護を説きだした。彼にとって、ホテル問題は海外移民問題の付属事項ではあったが、移民による正貨送金に裏付けられた具体的な問題意識をもっていただけに、既にかなり研究していて、大戸以上にホテル問題に鋭く切り込んだ

 ホテル問題着目の経緯 吉植は、「ホテル開設に関する建議案」の質問の要点は「政府の外客に対する計画如何」にあるとする。阪谷大蔵大臣は、既に昨年中の新聞紙等で両三度程、「ホテルの設備の不完全なること、及び之に対して相当の設備をしなければならぬ」事を演説し、「窃に本員などは其見る所を同じうすることを喜」び、当局者が「ある程度の方法を講じ」るか、本議会で「具体の案」が出るかと期待していたとする。

 既に、吉植は、39年3月頃から(前述のようにホテル問題が議論され始めた)、「是非此外国人の来遊に対して、国として相当の設備を経営しなければならぬ」として「建議案を出さう云ふ意見を持ってお」り、「取調も致した」が、「病気のために議会半ばから多く欠席勝で、其案を提出することをしなかった」と弁明する。しかし、時事新報、中央新聞(立憲政友会の準「機関紙」)の要人に会って「自分等の意見を述べ」、意見書を提出し、「同意を求めたこともあった」とする。その一二ヶ月後頃から、「大蔵大臣が各所において御演説等もあった」とする。その一つが39年4月21日経済学協会での阪谷講演であろう。彼は、そこで、@「ホテルの不完備(不足)は最大の欠点」であり「之を設備する事刻下の急務」でさり、Aそこでホテル建造者には国有地なら「無代価給付」し、私有地ならば「買収上に便宜を与え、・・一定の年限間地租営業税を免除」することを提案していた。そして、「従来にても来遊外人の内地消費額は幾千万円の巨額に達」し、今後も「西比利亜鉄道と東清鉄道との連絡完成し、欧亜大陸を二週間にて旅行するの期来らば、更に多数の外来賓客に依り国家経済上に利する所極めて大なるべ」しと、外客の正貨導入効果を指摘していたのである(39年4月22日付『時事新報』[(『日本ホテル略史』72−3頁)])。

 このように、「既に当局者が斯の如く吾々と見る所を同じうする以上には、敢て議会に於て建議するにも及ぶまい、必ず政府は相当な成案を以て議会に臨むであらうと思って」、本年も提案しなかったとする。しかし、議会末に及んでも、「何等の御話も承る機会」がなかったので、慌てて提案したというのである。吉植は、自分を含む提案者らは政党の相違を超えて「大体の趣意に至りましては・・稍々同一な意見を持っている」とする。

 ホテル問題の意義 ホテル問題は、「経済上の見地」では「将来には非常なる大問題として研究をしなければならない」にも拘らず、「既に当局者は公会の席に於ても意見を発表」されているのに、「本年の議会に於て何等の成案を御提出にならなかった」。吉植は、これは、議会で討議する政治的意義がないということかと疑問を抱きつつ、このホテル問題は「国の為めに非常に必要である」とした。この理由として、@日露外債の年間償却高7千万円、外国貿易の輸入超過額5千万円、両者の合計1億2千万だが、A正貨準備は「随分危険な位地」にあるからであり、これは重要な戦後経営の課題であるとする。

 吉植はこの点を調べた所、これまで「欠陥が辛うじて補われて」いたのは、@「海外移民の齎すところの正金」、A「外国人の来遊して日本に落とす所の金」の二つがあったからであるとする。@については、「先年帝国議会に本員らは建議案を提出」し、政府に裁可され、「移民法の改正となって、海外移民、殖民の奨励を国がすることになり」(40年3月移民保護法)「此方は不十分ながら其緒に就いた」が、Aについて、「外人が来遊に対する方法如何」については「国が未だ其の方法を講じて居ら」ず、「外人が近来日露戦争以来非常なる増加を致して・・到る處に旅宿の不十分と、不完全なるに因って居ることは・・一般の認める所」であり、昨年蔵相が各所演説で「是に対する方法を講じなければならぬ」とした所以である。なぜなら、外客の増加は統計を見ても「年次増加の率を加えて」増加しており、日露戦後の増加率は日清戦争以後の増加率(三倍)よりも「幾多の増加」を示し、「外人の齎した金は五千万円を下るまい」とする。「此既往の増加の割合」で推定すると「十年を出でずして其倍額一億万円位の程度にまでは、外国人の齎らす金は日本に落ちるであらう」と算定する。

 この根拠は、「日本の天然の風光の優美なること」、「気候の温和なること」であり、「此二点は殆んど世界の定論であ」るとする。これによって日本は「東亜の肝要なる地位」の「遊覧地」として外客を誘引し、近来のスイスの位置よりも「旅客を沢山吸収し得らるるだけの区域を広く持っている」。しかも、「東亜に遊びに来る欧米人は之によって目下非常に競争となってい」て、「東亜の事情を研究し、若くは東亜に於て事業を起こそう」として、「貿易、通商、学者、政治家は勿論のこと、各種の人々が非常なる趣味と、及び一つの取調と云ふやうな意味を以て来る者が増加すべきことは疑うべからざることである」。こうして、彼は観光のみのスイスと違って、日本はビジネス目的の外客も増加するとしたのである。瑞西で外客の落とす正貨は、現在、一年間「約二億万ドル、即ち四億万円」と、日本の「二十倍」であり、日本は直ちにそこまで行かないとしても、「既に西比利亜鉄道が出来上って、之によって欧米の旅客が非常に短い時間を以て来ることになり」、また航海でも「太平洋の航路が大汽船が出来て、直航すれば九日間で来るやうな愉快と便利を与ふることになって来ましたから」、「将来此日本に来遊の客人というものが非常に増加致して・・瑞西が占めて居る位な位置を、東亜の方面に於て遊覧地として日本が占めることは、敢て難きことではない」とするのである。

 以上を考慮すれば、「外国人の来遊」問題は軽微な問題ではなく、「将来非常なる大問題として研究を要する」と主張する。もし「自然の趨勢に任せて置いて、国は何等の設備する必要ない」とすれば、外国人は新婚旅行のように旅に「愉快を取」ろうとするから、外客には「天然風光」以外は「不愉快」を覚える設備ばかりとなり、外国人を歓迎して「之によって利益を得る」ことなど成り立たないと警鐘をならす。吉植が従事してきた「外国へ行く移民」問題は、「外国人の来る」事とは、共に「日本の正貨準備を今日の状態に持続すると云う力を持って」いるから、「国は十分之に対して相当の計画をしなければならぬ」とするのである。吉植は、大戸以上に整序的に明確にホテル問題の重要性、ホテルの意義、ホテル保護の必要性を熱く説いたのである。

                         b 大蔵大臣阪谷芳郎の答弁

 阪谷芳郎は、明治17年に大蔵省に入省し、34年6月ー36年12月大蔵総務長官、36年12月ー39年1月大蔵次官に出世し、日清・日露戦争の戦時財政を担い、39年1月から41年1月迄政友会の西園寺内閣の蔵相をつとめた。妻は渋沢栄一の次女であり、財界とも太いパイプがある。

 阪谷にとっては約1年間余蔵相を務めている所に、急遽呼ばれた衆議院審議会であった。阪谷は、冒頭「只今貴族院の方の会議が開かれたと云ふことでございますから、敢て此問題を軽く見る訳ではございませぬけれども、時間の必要上簡単に御答え致して置きたいと思ふ」と述べたのは、突然の呼び出しへの不満を漏らしたとも受け取れる。しかし、阪谷は、蔵相として外客のもたらす正貨に着目して、ホテル問題の重要性を把握し、既に演説などで表明していた。

 ホテル事業の問題点 阪谷は、「我国において『ホテル』の事業、殊に今の欧米人に対する『ホテル』の事業、是が極めて不完全であると云ふことは唯今吉植君の御述べになりました通り、此事は国の経済の上から見ましても不都合である。又不経済の上から見ても甚だ日本が損をして居ると云ふことは自分も認めて居ります」とする。「此『ホテル』の事業がなぜ不完全であるかと云ふ原因」は、「我国は外国との交通を開きまして以来、極めて日が浅」く、「謂は貿易とか又政治の関係に於ても、確に安政条約以来国は開かれたに相違ございませぬけれども、社交上のことと云ふものは日本が外国に久しく知れて居らず、又外国人が日本に旅行する人が極めて少なかりしために、内地の弥次喜多の旅をする人の為には、到る処に旅籠屋と云ふものが出来て居るですから、此欧米の旅客を愉快に宿泊せしめると云ふことは、此考も甚だ乏しく、それで『ホテル』と云ふものも稍々発達し始めましたのは極く近年のこと」だからとする。国内旅行の旅籠は十分備わっているが、それが外客には快適ではなく、受け容れられていないが、洋式ホテルは緒についたばかりというのである、

 しかも、「横浜とか神戸とか長崎とか云ふところは、外国人のために其港だけの『ホテル』は出来て居ったのである」が、「内地一般の日本の景色其他を見せしむると云ふ考を持ってした『ホテル』と云ふもの」ではなく、これは、「極めて近年」の事であり、「東京ですら帝国『ホテル』が近年出来たと云ふ位の話である」。この結果、「此欧米の有力なる人が、日本の真相を見て呉れることと云ふものは甚だ其機会が乏し」く、「僅に東京とか横浜位をチョイチョイ見、日光位をチョイと見て帰る」事になり、この結果、「国と国との経済上に於て親密を加ふる上に」必要な「有力なる多数の外国人が内地の事情を見て、帝国の有力なる人、又帝国の風景、帝国の工業商業等を能く親しく視察して呉れるといふ機会」を喪失させる事になり、「甚だしき不利益」とした。

 外客増減の要因 しかし、阪谷は、「今??植君も御述べになりました通に、日清戦争、又続いて三十三年の北清団匪の事件、又続いて今回の日露の戦役と云ふものが非常に日本の有ゆる方面に於て広告をなし」、「其結果と致しまして、此欧米のまるで日本のことには無頓着であった人、而も其人は即ち彼の国に於いては、社会の要部を組織して居るやうな人達が、急に家族を連れて漫遊を日本に向って企てると云ふ状況になり、其結果と致して一昨年、昨年来の外国人の来遊と云ふものは非常に増加し、而して之に対して帝国が甚だ不満足なる待遇を与へたと云ふことは事実であ」るとする。

 「中には夕方に神戸なり、横浜に着いて宿る所がなくて波止場に一晩立って居たと云ふやうな人もあ」り、「其人が来て日本には懲りまして帰る。さうすれば他の日本に向って漫遊を企てる人に向って御止しなさい。私は懲り懲りしたと云ふやうな話になって来る」が、「之に反して、日本で愉快をし、満足に思って帰る其人は、必ず社交上に於ては有力なる人に違ひない。生計も裕かなる人に違ひないから、晩餐会なり、或は夜会に於て話が日本の事に及ぶと、其人の話に依って多数の漫遊者が増加して来」て、「其増加した漫遊者が帰って同じことを繰返して、又多数に増加して来ると云ふので、非常な有力なことにな」り、「さうして外国人が来て日本に遊び、日本の『ホテル』に宿り、日本の物産を土産に買って往くと云ふことは、丁度輸出に付いて、貿易上に付いて奨励すると云ふことも、外人が日本へ来て日本の物を買ひ、消費して帰ると云ふも、同じ関係を持つと云ふことは吉植君の御話の通りであ」るとする。それ故に、「此『ホテル』の事業と云ふものを一段改良せしめ、其発展を促すと云ふことを致したいと云ふ考から、私の如きも甚だ微力ながら一個人と致しまして、今申上げるやうな意見を方々で論じたやうな次第であります」とする。個人的には吉植意見に同意するとする。

 ホテル保護方針 しかし、蔵相として外客のもたらす正貨に着目して、ホテル問題の重要性を把握し、既に演説で表明していた。

 阪谷は、「政府と致しましては如何なる方法に依って発展せしむるか」について語り始め、「主任の掛りを大蔵省に置きまして各種の材料を集めて調査せしめて居」り、「其一部の調査は不完全ながら出来たものもあると云ふやうな訳になって居り」、「さう云ふ状態で政府に於きましては、此御建議の趣旨なる『ホテル』業の不完全と云ふことを認め、又之を完全ならしめると云ふことは、国の交際上に於て、又経済上に於て甚だ必要と云ふことを認めて居る次第であります」とする。

 しかし、「今の建議の末段の所に見へてある、相当な保護、奨励と云ふ斯う云ふ文句(大戸が提出した建議案に確認される)でありますが、之に対しましては未だ一向決定した考を有して」いないのであり、「先づ今日まで調べましたのは、成るべく此『ホテル』の如きものは個人の力に依り、又団結の力に依って此事を成功せしめたい」というのが基本的原則とする。「固より政府が『ホテル』の敷地の売買とか或は色々旅客の数とか、又は案内者の不都合をすることの取締と云ふやうなことに付いて、間接、直接に『ホテル』業と云ふものに向って好意を表し、其事業の発展に付いて、出来得る限り、便利を与へると云ふことは、固より是は多大の費用を費やさずして出来得るのですから、其事は十分に努めることに致して居る」とするが、「更に一歩進めて或は之に向って補助金を与へると云ふやうなことに付いては、政府は未だ何等決して居る所がない」とする。「其程度まで進むと云ふことは、果して此政府の為すべき範域を超越しはしないかどうかと云ふことも、亦一つ考へなければならぬ」のであり、民業保護のために「国民から租税を徴収して一部の事業を保護すると、他の事業も亦同一の要求をすると、甚だしく彼此の間に不公平を見ると云ふことは免れぬのでありますから、其保護金を與へてまでやるか、どうかと云ふことに付いては、何等政府は考へて居りませぬ」とする。

 最後に、阪谷は、「其以上は別に政府に於て別に具体の意見は無いので、御答のしようがない」が、「此御建議の趣意と云ひ、殊に四十五年の博覧会と云ふものも直ちに迫って居るので、大いに此事業を進めしめたと云ふ希望は、十分に有して居る」とした。

                           c ホテル事業の固有困難性

 阪谷の答弁が終わると、吉植はホテル経営に固有な困難性を取り上げて、だからホテルには固有の保護が必要になるという主張を展開して、吉植と阪谷は質疑応答を展開する。
      
 吉植の質問 吉植は阪谷に、「もう一つ・・此事はどう云ふように御考へになって居りませうか」と意見を問う。

 彼は、「今日日本に於ては他の会社、若くは其他の事業は戦争後に於て十四億とか、十五億と云ふ大なる資金で、多数の会社が成立って居るにも拘はらず、誠に御説の通り前途有望なる『ホテル』の事業に対して、殆ど新設の会社と云ふやうなものと違って、外人の激増した有様を見ながら、其計画も行はれぬと云ふこと」はなぜかと問題提起する。これは、井上円了が企業勃興期に株式会社が勃興し、それを踏まえて一大株式会社ホテルの設立を説いたが、それが実現しなかったのは、何故かと問うのと似ている。

 吉植は、これは「『ホテル』に対する知識の欠乏」と云ふより、「『ホテル』と云ふものの仕事が日本に来る外人は多く期節を以て来るので、丁度気候に因って吹く風の如く去ったあとは、其『ホテル』の半分以上部屋を明けて遊んで居ると云ふやうなことが、『ホテル』事業を経営して算盤に合はぬ一大原因」であり、これが、「斯く事業勃興の際に独り『ホテル』と云ふ事業が起らぬのではなからうか」とする。

 だとすれば、「外人を泊める處を拵へなければならぬと思って居ても、どうして算盤に合はぬと云ふやうなことであると、口にのみ之を奨励しても実行を挙げることが出来ぬと云ふことになる」とする。従って、「民業を保護する点に付いて御意思が極らぬと云ふのは御尤もですが、補助と云ふと、何ですが年五朱なら五朱の配当に達せざるまでは五朱の補償をしてやる、補給をしてやると云ふ程度まで進まなければ、『ホテル』事業は起こらぬではないか」と、ホテル固有の問題を克服するための「補助」がやはり必要ではないかと問うのである。

 阪谷蔵相の答弁 阪谷は、「『ホテル』業と云ふものは、部屋の詰る時と、空く時とあるのは無論の話で、大概三分の一は始終明けて置く位の季節もあり、又極く繁盛をする時は一杯になると云ふことにならう」から、「一個一個独立した『ホテル』はむづかしかろう」とする。そこで、「やはり日光なり、東京なり、其他熱い所、寒い所、種々な景色の変わった所の『ホテル』業者が互いに団結しまして、始終其資本を寝かせぬやうに工夫するのが必要と思ひます」とする。この工夫は、各地ホテル業者の連帯という以上に、宿泊業務以外の料飲・宴会などの収入においてもまた大きかった。

 さらに、補助金など与えなくても、「一昨年来『ホテル』事業はぼつぼつ起こりつつありまして、余り盛大なものも出来ませぬが、部屋数を殖すと云ふ計画は追々出来つつあります」とする。「其五朱の補給と云ふ事もやはり一種の補助金を與へるやうな結果になり」、「尚十分に此『ホテル』業と云ふものの日本に於ける関係を調査をした上でないと云ふと、其所まで国が進んで善いか悪いかとことを決して兼ねると考へて居」るとする。政府は、ホテルの補助については、「何所まで国の金を與へるとか、或は不足を補給するとか云ふやうな租税を使うと云ふ意味でない、其他の手段に於てやりたい」か、或は「資金ー低利の資金の供給のことに就いて便利を與へるとか何とか云ふことの手段で、此の目的を達したい」とするのである。

                             d 柔軟な収拾
 
 楠目玄の意見 楠目玄は、高知に生まれ、明治25年2月15日「選挙大干渉」で自由派県会議員楠目玄は国民派に斬られ重傷を負った(春田国男「選挙大干渉の政治史的考察」『別府大学短期大学部紀要』24号、2005年)。明治35年8月第7回衆議院選挙で高知県で無所属出馬で当選し、37年第9回衆議院選挙では高知県で自由党出馬で当選し、国会では政友会に属したが、41年第10回衆議院選挙からは高知県で当選せず、国会から消えた。

 彼は、「大体に於いて此案の趣旨に於ては大いに賛成する一人」だが、「少し方法或は題目に就いて面白くない感じをします」とする。

 吉植、阪谷蔵相の説明については、「将来大いに研究しなければならぬ問題である」とし、「題目の不完全」を以て否決することは「残念」であるから、今後も「大いに研究しなければならぬ」とする。「此外人優待の件に就いて現に『ホテル』のことのみならず、其他の万事の設備に就いて大いに取調をして貰ひたい、さうして次期の議会に於て又建設なり成案なり立てて、大いに此の方に政府議会共に調査をして、完全なる域に達せしむると云ふことにした方が宜からうと思ふ」と、継続審議を要請する。

 浅羽靖の説明・要望 浅羽靖は、大阪出身で札幌区長、北海道理事官、北海英語学校長などを務め、明治37−大正3年まで衆議院議員を務め、大同倶楽部に属し、国際観光を舞台に活躍することはなかった。北海道関係者として吉植に誘われたようだ。

 共同提案者の一人浅羽靖はこの建議を出した事情を述べる。彼は、楠目の考えに賛成するが、「この案を提出しますについては最も能く練り、さうして皆さんのご意見を伺って一致して出した」とするように、ここにいる委員が全員一致して出した。しかし、「他に提出者の最も主となった人が居った」のであるとする。これが上述の大戸なのであろう。

 議会会期中の彼等の内輪の議論では「問題は起こらず」、一方、彼等は「種々御協議を要部に申上げた」が、「さっぱり運ばない」。しかし、「議会の期限は切迫して来た」ので、「焦眉の急」を感じて、「不完全ながら一部の者に依って之を提出した次第」であり、私にすれば、「十分に熟議を遂げ順序を得なかったと云ふことは頗る遺憾に感じて居った」とした。しかし、提出し、「終に委員付託になり、今日は大蔵大臣までありましたは、頗る満足」とする。

 浅羽は、「提出者の方針に就いては??植代議士より説明せられました所は、本員等の最も同感の次第であるのであります」としつつも、「??植代議士は経済上の点より尤も能く御論じになりました」が、「提出者の意思としては其他にも尚一二の考を有って居ります」とする。つまり、彼は、日露戦争後に外客が増加したのは、@日本は模倣的人民ではなく「真に実行的なる国民」として「非常なる感動」を与えた事、A「皆さんも述べられた通り」、風光、「花の国」、「風土」の点で「世界に超絶」している事だとする。彼は、ホテル問題を経済優先で把握する事には異論があるようだ。

 この外客を迎えるにおいて、「頗る薄待」し、「驚くべき不便不自由」、「頗る冷淡」であることは、「国民の公徳に於ても亦経済上の問題のみならず」、「日本国民の此気品気合」からも問題とする。まず、「国民が挙って・・外賓に対して瑞西以上の親切を尽し便利を與へるといふ」事を第一にする思想を養成することが重要だとする。しかし、「さりながら第一に此『ホテル』其他外賓待遇に付いては十分設備するが第一急務ではないか」ともする。

 彼は、日本の衣食住の問題点を指摘し、外賓が不愉快にならぬように工夫研究すべきとする。今の日本では、「頻りに外国貿易を主張する幾多の生産事業に付いて、国家が保護を奨励」しているが、「??植君の言はれる通り、坐して目の前に客を迎えて、続々之に供給する所のものが殖えて来たならば(所謂「坐貿易」)、日本の富は実に??植君の予想外にまで達するものではないか」。国民は、貿易とは輸出品を「港から船に載せて持ってゆく」と思って居るが、座貿易も「従来執り来った所の政策、即ち外国貿易と相俟って始めて日本の経済の経営と云ふものが全くなる」とする。

 最後に「諸君の御注意を願ひたいこと」は、外客を快く迎えることは国際平和重視の態度を維持することだとする。このように、ホテル問題審議の最初の国会で、外客受容という国際観光は国際平和重視の手段だと表明されていたこと非常に重要である。浅羽は、「世界各国と親密するー平和を重んずる所の国民であるが故に、何處までも親密にしなければならぬと云ふことは、上下一致絶叫して居って、さうして其方針に向ひつつある国民である」に拘らず、「日本に来る所の人に不快の感情を與へ」れば、「如何に外交官が能く努めても、決して世界の人と平和親密なる交際は出来ぬ」ことになる。だから、「日本の此国民一致して、公徳上に於ても、平和上の方針に於ても、貿易上の、即ち経済上の点に於ても、是は諸君の飽くまでも一つ御研究を願って」、「兎に角目前に四十五年の大博覧会も迫って居る際に、ぐづぐづして此設備もないと云ふやうなことは、やはり外の事ばかり注意して、目の前のことをしないと同様で、博覧会の有益なりと云ふことのみを認めて、博覧会の與ふる利益に比較して十分なる待遇をする方法も講ぜざるに至っては頗る欠漏のある次第」とする。こうした大博覧会問題に付いて「始末せんとする諸君の御考」に依って、提出者の彼は「如何やうにでも服従も致し、願くは諸君と一致して御一人もいろんなく此目的を遂行することを希望する次第であります」とした。

 吉植庄一郎の政府保護論 吉植は、「唯今の楠目君の節に賛成致します」とした上で、蔵相答弁について、@「大体の趣意に於ては当局者も非常に此案の精神に同情を有して居ることは明らかである」事、Aただし国家が保護するだけで、「直接に国費を以て保護する」ことは否定的である事と要約した上で、「是は余程攻究すべき問題」とする。つまり「十五億と云ふ会社が出来るに拘らず、『ホテル』事業の起らぬのは何等の原因で起らぬのか」、「算盤が取れない、その『ホテル』と云ふものをやっても、それだけの客が有るか分からぬと云ふ知識の欠乏から来るか」、こういうことは「余程詮議をして見なければなりませぬ問題である」とする。彼としては、ホテル補助の政府資金の支出を望んでいた。

 「大体の趣意」は「政府の見る所と同じ」だが、「其手段方法に至っては、共に成案を持って居ぬ」から、議会閉会も迫っていても「政府と十分の討論審議を竭すと云ふ余地」がない。故に「是は宿題として次期の議会迄保留して、重ねて次期の議会に於て、それまでに互に成るべく審議研究して、兎に角一面に於て議会の声となって国民全体の上に外国優待と云ふことが非常に大切の問題であると云ふことを知らしめ、国をして進んで必ずしも此の如き事業に保護奨励をしてはならぬと、絶対的に検束しない」とする。そして、「是は正貨維持のために非常に必要なる事柄であ」り、「日本の貿易も逆調を呈したために、直ちに正貨準備がなくなって仕舞ふと云ふ危険は、日本の財政状態であるから機宜の政策としても、或場合には外人を非常に招待して一国の財政を助けると云ふ政策を執るのは、機宜の政策として時の宜しきに従って処する政治の手段でありますから、必ずしも確定したる議論を以て、唯保護は往けぬ、奨励は往けぬと云ふことには参るまい」とし、「此等の点は十分に攻究の余地あると思ひます。楠目君の唯今の発案に賛成して、成るべく満場一致で本案を保留して置きたいと思ひます」と、楠目の継続審議に同意し、保留にしたいとした。

 松浦五兵衛の「保留」への質問 松浦五兵衛は、明治3年静岡に生まれ、静岡県会議員を経て、明治35年第7回衆議院議員総選挙で立憲政友会から出馬し当選し、以後、昭和3年第16回総選挙まで連続10回当選し(『大日本人物名鑑』ルーブル社、明治29年、13−4頁、高村茂広『静岡県現住者人物一覧』明治29年、『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』592頁)、昭和2年3月には衆議院副議長に選出された(『官報』第70号、昭和2年3月28日)。

 彼は、楠目君、??植君の「御説に同感」だが、保留とは「此儘握潰」すということか、「此頃流行の善意の不決」かと問いただす。すると、??植は「さあ決議はどうしたら宜からうか」とする。ここで、委員長の安田は「ちょっと暫時速記を中止して協議をしませう」と提案した。松浦五兵衛は、国家資金援助には「攻究を擁する余地」があるが、ホテル設備を完全ならしむるということには「日本上下一人も異論を挿む者」はないから、本建議は「最も時機に相当」する。しかし、「全会を以て熱心に賛成」したのに「会期は既に明日切りになって、今茲で軽率に之を決定して、若しも本会で十分に意志の徹底する余地がなくて、否決の不幸にでも遭遇する」と「贔屓の引倒」になると懸念を表明する。

 そこで、松浦は、「今日は即決せずして、会を継続して、・・明年最も早く此建議案を更に提出して、委員の如きも・・素志を貫くために進んでも其委員の任に当る」とし、「今一歩進んで事を調査するために此委員会を継続されんことを希望」し、「若し又其内会期が尽きたならば、次会に於て調査して其意志を貫徹したい」とした。

 安田勲委員長 安田勲は第1回総選挙から4回当選し、「房総政界の先輩者、老将として重をな」(木村清吉編『房総人物名鑑』、大正元年、17頁)して、明治41年5月第10回総選挙でも当選したが、42年7月23日に日糖事件で警視庁に逮捕され、7月3日に選挙法第11条により議員を退職し、裁判で懲役4か月の有罪となり、9月1日に東京監獄に収監された(河崎吉紀「国民党の若手代議士」『社会科学』同志社大学社会学会、134号、2020年9月 )。明治43年3月憲政本党は解党し国民党が結成された。国会の舞台から消えた。

 この安田委員長は、以上を受けて、「楠目君、松浦君の御説」に従って「更に日を期して他日委員会を開く」と云うことを決定するとした。

 しかし、以後、彼らの動向を見ると、大きく変動して、この決定に基づき継続審議できる状況ではなかった。大正5年9月5日経済調査会貿易連合部会11人による外客誘致策決議に早見整爾が参加していたが(『日本ホテル略史』119頁)、少なくともこの審議会での「主役」大戸副三郎、吉植庄一郎はこの経済調査会部会に加わることはなかった。一方、ここで政府側委員として出席し、ホテル問題の重要性では共通認識をもっていた阪谷芳郎蔵相は、昭和3年に第二代「日本ホテル協会長に就任」(『日本ホテル略史』169頁)し、16年まで務めた。

 小括 明治39年のホテル問題の「高揚」に影響されて、以上のようにホテル問題が衆議院でも取り上げられた。それは、前年あれだけ大きく騒がれたから、誰かが取り上げるだろうと思ったが、これまでホテル問題を担当した議員がいなかったために誰も取り上げないので、議会閉会直前に急遽取り上げるというものであった。吉植は、大戸以上に整序的に明確にホテル問題の重要性、ホテルの意義、ホテル保護の必要性を説き、ホテルに固有の問題があるからこそ、資金援助が必要だと主張した。だが、既に大蔵省は「各種の材料を集めて調査」しており、阪谷蔵相は国際観光の経済的意義、ホテル充足の重要性の認識では吉植らと同じであったのだが、租税を使用する援助までは同意しなかった。この議会で両者の異同がはっきりしたのである。以後ホテル問題は暫時鎮静化し、当事者も変動して、衆議院でホテル問題が国会で取り上げられることは暫らくなかったが、昭和にかけてのホテル政策は、正貨蓄積の観光政策の重要性に国家がどのように保護的に関与するかという観点のもとに(この点、是清は、上述のように、先駆的に既に観光設備を国家的大計画として、まず主要港湾建設から着手せよとしていた)、政府がホテルに漸次的に資金支出・援助する事を止むなしとしてゆく過程とみることもできる。

                           A 日本大博覧会の提案・中止

                           @ 日本大博覧会の提案

 東京博覧会に基づくホテル不足は、どうにか対処できたようだ。しかし、今度は五年後の日本大博覧会に基づくホテル不足問題が生じてきた。

 勅令 明治39年7月23日、農商務省で45年度開催大博覧会案が決定し、開設地支出300万、博覧会収入200万、差引100万円は国庫負担とするとした。会場につおては、敷地30万坪、建坪3万5630坪とだけ決められた(明治39年7月24日付『読売新聞』)。これを受けて、12月には荏原郡各町村有志総代村上佳景、加納久宣子爵(鹿児島県知事辞任後、荏原郡入新井村に転居)らは、「明治四十五年度に開かるべき日本大博覧会敷地として荏原郡を適当の箇所と信ずる旨の意見書を配付」(39年12月4日付『読売新聞』「大博覧会の敷地運動」)した。

 明治40年に、「日露戦争の戦勝を記念した日本での万博開催」が建議された事を受けて、政府は、明治45年4−10月に東京での「日本大博覧会」開催を決定した。40年3月31日官報で、勅令で「朕、日本大博覧会開設の件を裁可し、茲に之を公布せしむ」とし、45年4月1日から同年10月31日まで東京府下に開催するとした。40年8月3日官報では、大勲位貞愛親王を日本大博覧会総裁、枢密顧問官男爵金子堅太郎を同会長に仰付けられた。勅命による開催時期、総裁・会長人事が先行した大博覧会であはあった。

 この計画は、「世界各国の参加出品を求め、日本の産業の発達を世界に示すことを目指したもの」で、日本中心の万国博覧会であった。決定後、外務省は直ちに「各国大公使及び領事を通じ、この博覧会の計画と趣旨を諸国政府に通知」した(外務省外交史料館「博覧会の実施と明治の万博計画」)。
       
 外交先行 40年12月23日、大博事務局は「京浜在留各国総領事、領事貿易事務官二十余名を帝国ホテルに招待し、晩餐の宴を開き、宴酣(たけなわ)なる頃、松田副総裁は起ちて一場の演説を為し、阪井理事官之を英訳したるが、右終わるや、英国総領事は之に対し本国民を勧誘し、充分の助力を致すべきことを述べ、終わりに金子会長は英語を以て約一時間に亘る長演説をなし」た(40年12月24日付『読売新聞』)。金子堅太郎はハーバード留学時代にセオドア・ルーズベルト(Theodore Roosevelt)アメリカ大統領と面識があり、友人であった。金子は彼に、議会への教書に日本大博覧会賛同の記載を要望した。

 この金子要請を受け入れて、セオドア・ルーズベルト大統領は、「正式な参加招請を待たず、議会に対する教書の中で日本大博覧会に賛同」した。明治41年5月、米国議会は、「同博覧会への賛同法案が150万ドルの出資金とともに議会で可決され」(外務省外交史料館「博覧会の実施と明治の万博計画」)た。

  41年6月6日、内閣は渋沢栄一を「日本大博覧会評議員」に命じた(「青淵先生公私履歴台帳」[『渋沢栄一伝記資料』第23巻、631頁])。

 ホテル不足問題 40年5月22日付『読売新聞』で、読売楼主人(担当者は代わったようだ)は「いろは便」で、「45年の大博覧会は、名は内国博覧会なれども、その実は半世界博覧会に候へば、何卒前車(東京博覧会)の覆轍を踏まぬようにしたき物に御座候」として、「第一は「開設場所を即決すること」、第二は「ホテルを充足すること」として、是を説明する。つまり、「東京市内ホテルの不足なる、今日にてもすでに漫遊の外客を収容するに足らざるほどなれば、当日に至りて外客の雲屯霧集せんには、徒に彼らに失望と不平とを與へて、日本の不始末を世界に広告するに終わるはまだしも、現実、彼等を飲食宿泊せしむるの道なきに至らんこと、照照として明らかなり。ついては兼てより世間の宿題となりしホテル問題を解決して、速に今より建築に着手せしむるようにしたきものに御座候。・・博覧会自身の営業として、二三ホテルを建るも妙と存候。仏領印度支那なぢにては政庁自らがホテルを建て、営業致し居り」と、博覧会経営や官営のホテルを提唱する。

 そして、第三には、「博覧会の事業、若しくわ保護事業として、速成ガイド養成を初め、あらゆる欧州語、支那語を教授せしむるを緊要と存候」と、博覧会事業としてガイド養成を提唱する。それだけ、依然としてガイドの質・水準が劣悪だったということである。

 41年1月18日付『読売新聞』は社説「ホテルの経営を急げ(日本大博覧会について)」で、「昨年開設の東京博覧会に見るに、会場其他の失態として、数ふべきもの少なからず」とし、かつ「当時は盛んにホテル経営論の流行を見、或は農商務省の庁舎を以て、之に充てんと云い、或は内務大臣の官舎を利用すべしと云い、今にも一大ホテルの建設を見るならんと思はしめたるも、喉元過ぐれば熱さを忘れ、爾来火の消えた有様にて、杳(よう)として何等の音沙汰を聞かず」と、39年ホテル増設論の後退・消滅を指摘する。この点は、津田利八郎編『最近東京明覧』も、「37、8年の大捷、来遊外人の漸増を見るや、端なくも旅館欠乏の声喧しく、或は大ホテル建築を主唱し、或は急場の間に合わせにとて農商務省の明渡を唱導する等の事ありしも、帝国ホテルが僅かに増築を為したる外、其後何等設備を実現せるを見ず」(津田利八郎編『最近東京明覧』伝信館、明治40年4月、227頁)と指摘していた。

 『読売新聞』社説に戻ると、この論説記者は、大博覧会見物者の為には、東京、横浜に各三百人収容の大ホテルが必要だが、博覧会終了後の収支が問題となって「率先して之を計画するもの無」い。「建築物の位地、方法如何」で「各種の事務所或は貸間として貸付ける」も一法だが、「愈々収支償う能ずとあれば、政府の補助を仰ぐも、毫も不当の事とは思われず」と主張する。

 帝国ホテルも「此辺に着目して、拡張の計画もある由」だが、「其位の事にては、所詮不足を感ぜざるを得ざるべければ、或はこれを博覧会付属の事業とするなり、又は全く別途の経営に委するなり、政府の補助を受くるなり、受けざるなり、それらの細目に至っては、篤と調査する」とした。

 そして、45年博覧会は、「美術工芸品の販路を拡むる」のみならず、「間接には我が山光風色の美を世界に紹介して、将来益々外人の来遊ヲ誘致」するのであるから、ホテル設置には「大いに意を用ふる」べしとする。

 政府のホテル援助「議案」 41年4月3日付『読売新聞』は、「大ホテル建設問題」で、「大博覧会の付帯設備たるホテル建設案は農商務省及び大蔵の両省とも其計画の要旨につきては大いに賛同する所にして、結局三百万円乃至5百万円の経費によりて設備せらるべき」ことになるが、「其財源に至りては国庫金を以てするが如きはかつて外国に類例なきのみならず、事態の性質上、国家が来遊外客を款待すといふ事は不可能なるべき」が、「其建設土地無料、貸付利子補給等の程度までは絶対に不能の事にあらざれば、畢竟是に依りて成案を作り、次期議会に提出さるべきもののの如し」と報じた。

 41年6月8日付『読売新聞』は、その「成案」に関連して、来遊外客を待つべきホテルの建設に関しては、「前期議会に建議案の提出もあり、政府当局に於いては目下諸般の事項に関し鋭意調査中にて多分来期議会には具体案の提出を見るに至れるべきが、其要は主として民間をして之を経営せしめんんとするありて、其の助成法といて、?敷地全部の提供、?資本額一部の出資、?利子補給等の内、孰れかに決定さるべ」しとした。且つ「これ等特種の事業は無経験なる内地人のみにては其経験頗る困難なるべきを以て当局者は寧ろ外人と協同して之を経営せんことを希望し居れるが如し」と、政府は外資との共同経営を望んでいるとした。
 
 奈良ホテル 41年7月8日付『読売新聞』は、「奈良ホテル建築」なる記事で、「大博覧会の地方設備として奈良市にてはホテル建設を計画し尽力の結果」、鉄道庁が「京都都ホテルの西村仁兵衛氏に建築費として28万円を無償にて貸与すること」となったので、奈良市は「1万5千円に相当する道路」及「30余万円を要すべき見込み」の「付近の設備」をなし、「目下建築工事に着手中」と報じた。

 奈良県議会は、「建物新築に際しては、古建築との調和を保持すべし」と決議したので、これに従い和洋折衷様式の建物を建築した。明治42年10月、本館が竣工し、大日本ホテル株式会社(社長西村仁兵衛)の経営(鉄道院は家主)で奈良ホテルが営業を開始した(Nara HotelのHP)。

 喜賓会の提案 41年7月31日付『読売新聞』によると、喜賓会は大博覧会会長金子堅太郎に「大博覧会来観外人の待遇設備方法等」について提案した。

 つまり、@会場内外人賓接館、A外人の購買品取扱所等の建設、B出品物の説明書を各国語にて調製すること、C博覧会案内記、Dホテル及び和洋折衷の旅館設備、E地方遊覧所と博覧会との連絡関係を計ること、F首要港に於ける外人案内所の設備、G鉄道連絡、旅宿接待につき通弁並に旅客掛の準備、H案内者取締及び養成法、I外人用便所の設備等である。貴賓会は、ガイド書以外は顕著な業績もなく、ここで大博覧会の一翼に食い込んで「起死回生」的「快挙」を狙ったととも言えなくはない。

 大博覧会詐欺 41年6月15日付『読売新聞』は「田舎者騙しの大看板」という記事で、大博覧会に乗じた詐欺事件を暴き出した。

 牛込早稲田鶴巻町にある財団法人日本国民クラブホテル仮事務所は、「四十五年の大博覧会に上京する地方の人のために大ホテルを建築する計画で、大袈裟な印刷物を各府県郡部の区役所や町村役場へ盛んに送っている」が、これは、建設資金30万は既にあるので、「多数の公衆の満足を計るには一層事業を拡張せねばならぬ」として、無料宿泊、案内便宜をはかると称して会費(普通会員1円、正会員2円、名誉会員5円)を詐取する詐欺集団だと警告したのである。

 詐欺師も、大博覧会でのホテル不足に乗じて、国民から金を巻き上げようとしたのである

 通訳・ガイド養成 41年8月には、東京市教育会は、『東京教育雑誌』第222号に「東京市教育会附属私立実用夜学校生徒募集広告」を出し、「日露戦役の終りを告ぐるや、或は観光に或は研究に、欧米人の我か邦に渡来する者頓に増加せり、殊に明治四拾五年には我か邦空前の事業とも謂ふべき世界的大博覧会の開設せらるゝあれば、之を機として漫遊を試むる者今日に幾百千倍するや必せり」と、日露戦後の外客の飛躍的増加を指摘して、「欧米の風俗・慣習・礼法に通じ、外国語に堪能なる通訳・ガイド及店員に欠乏せんか、大博覧会場に於ては出品物其他に就て詳細なる説明を与へ、以て外客に満足を得しむること難かるべく、商店に於ては巧妙に外国語を操りて顧客に接し、之に便宜を与ふること能はさるべく、名勝・旧跡・遊覧場等に遊ぶ外客は宛然聾唖者の旅行に等しく、渡来の目的の大半は没却せられ、倉皇行李を収めて、永く我が邦に止まらざるやも亦知るべからず」と、通訳・ガイドの不足による外客問題の深刻化を指摘する。そこで、「通訳・ガイド・店員等の養成は、大博覧会開設に対する準備として急務中の最大急務に属」すとして、「私立実用夜学校を設立し、実用と速成とを旨とし主として英語会話・欧米の風俗・慣習・礼法等を教授し、大博覧会開会期前に於て最良なる通訳・ガイド・店員を養成し、以て通訳ガイドは勿論、大博覧会会場の監視人・警視庁・鉄道会社、其他各会社・各商店等苟も英語会話に堪能なる者を要するものゝ需用に応ぜんことを期せり」とする(『渋沢栄一伝記資料』26巻、821−2頁)。

 中止 その後、日露戦争に基因する財政難が深刻化し、産業振興の費用対効果が懸念されだし、「明治四十一年之を延期して同五十年に開設のことゝし」(永山定富『内外博覧会総説並に我国に於ける万国博覧会の問題』昭和8年9月刊、50−51頁)たというが、これは必ずしも正確ではない。

 44年時点で延期論、中止論などが出つつも、「大博覧会と市の負担」(44年9月9日)、「大博覧会の輸送確保に、山手線を増設」(44年9月29日)、「大博工事『設計図案』の入賞決まる」(44年11月18日)など博覧会開催を前提とした各施が構想されており、完全に撤廃されていたのではなかったのである。ただし、「大博覧会と市の負担」では、東京市勧業課試算では、総支出は1300万ー1400万円、純収益1000万円で差引3、400万円の赤字とされており、大幅な赤字になる事が算定されていた。この結果、44年11月24日閣議で「各省ともほぼ来年度の通常予算を決定」したが、「大蔵省の緊縮方針により各省とも新事業と称すべきものはほとんど全く刪除(さんじょ)され・・大博覧会も愈々・・中止することに決定」(押川農商務次官談、44年11月26日)したのである。こうした不安定性から、当初は日本大博覧会と外客増加、ホテル不足からホテル増設論が提唱されていたが、44年になってものはたそういう議論は見られなかった。

 44年11月26日には、「農務省所管の予算も新事業及び拡張費共一時全部削除せられたる」も、残務費として、「再査定の結果、全体において約四十万円の復活を見た」。押川則吉農商務次官は、@「大博覧会は種々なる関係を有する大計企なりしも、帝国財政の現状よりして遺憾ながら本年度限り全然中止する事に決定し、来年度に於て僅少なる残務費を計上する事に止めたり」、Aしかし、「新たなる計画の下に、小規模なる内国的博覧会は五十年に於て開催される可しと信ず」(明治44年11月26日付『中外商業新報』『新聞集成明治編年史第14巻)としたのである。50年開催予定なるものは、もはや大博覧会の関係物ではなく、「小規模な内国博覧会」にすぎないものであった。

 そして、明治45年3月22日官報で、「朕、日本大博覧会事務局官制廃止の件を裁可し、ここに之を公布せしむ」とされる(『新聞集成明治編年史』第14巻)。日本大博覧会開催の勅令が、勅令によって中止されたのである。以後、府県博覧会は開かれたが、国際的博覧会は1970年の大阪万博まで開催されることはなかった。なお、「明治天皇の崩御により大博覧会計画は流れた」(『帝国ホテル百年史』165頁)という見解もあるが、明治天皇生前時に勅令によって大博覧会は中止されたのである。


                           B 大ホテル建設計画 
     
 日本大博覧会は中止されたが、それまでは外客増加対策として、帝国ホテルの改良、大ホテルの新設などが検討された。

                           @ 帝国ホテル改築

 40年9月12日付『読売新聞』は、「帝国ホテルの改築」なる記事で、45年大博覧会には、「多数の外人も渡来する事必定なれば、此の際是非とも拡張するの必要を感じ、此程株主総会を開きて資本金百二十万円を二百万円に増して、目下ホテルと地続きなる内務大臣官邸の敷地は宮内省の所有なれば、同官邸の移転を願ひたる上宮内省より官邸の敷地を譲受け、同所に広大なる西洋館を新築してホテルになし、今のホテルの処は新たに庭園と運動場とを設くることに決定し、目下宮内省へ向ひて地所譲受けの交渉中なるが、許可の上は直に工事に着手する筈なり」となる。

 因みに、日本大博覧会は中止されても、明治45年フランク・ロイド・ライトは、新しい帝国ホテルの基本設計に着手した(明石信道著『旧帝国ホテルの実証的研究』東光堂書店、1972年)。

                            A 東京会館

 明治44年10月19日、福沢桃助、星野錫、渋沢栄一、中野武営らは、日本橋クラブで、「東京市に於ける大集会所とホテル設備の欠陥を補わん」として、東京会館設立の「披露式」を行なった。渋沢は、「近く日本大博覧会も目前に迫り、又近時市民の大集会及び外国喜賓の来遊頻々にして、多数を容るるの必要 一日に痛切なるに拘わらず、今日迄我東京市に之に応ずる大会堂とホテル設備の欠陥せるは、東京市の面目上一大恨事なる」とし、ここに、「吾等は曩に一大公会堂の建設を策せしも、諸種の障碍の為に遂行の運びに至らざりし」だったが、「今や有志の間に議熟し、壱百万円の予算を以て市内四通八達の地に一大会館を建設し、大集会所兼ホテル業を経営せんとの計画あり」とする。

 そして、これは、「吾人が多年宿望せし所と同一の考案」なので、「進んで賛成者の一人となり」、さらに今回「諸君の御援助を仰がんとする」とした。必要「援助」の大要は、@「総予算一百万円払込金五十万円及社債五十万円を以て之に充つ」、A「社債は六朱以内の利付」とし、敷地二千坪以上に本館(座席三千人以上、立食七百人以上を容る)、待賓館(ホテル)、貴賓館(貴賓の宿泊所)、美術品陳列館、附属館の五部を建てるとする(『竜門雑誌』282号、明治44年1月[『渋沢栄一伝記資料』54巻、56−7頁])。

 結局は、この巨大ホテル建設は実現を見なかった。大正9年に設立された東京会館は、これとは別のものである。

 なお、明治42年には築地精養軒ホテルが竣工し、明治45年6月望翠楼ホテル(Villa Berevedere、後にBousuiro Hotel)が東京府大森新井宿に設立され、大正元年には日比谷ホテル(後に東京ホテル)が麹町区有楽町に設立された。大正4年11月には、東京ステーションホテルが開業し、日本の中大ホテルが建設され、ホテル不足に対処していった。

                   5 喜賓会解散、ジャパン・ツーリスト・ビューロー設立 

                          @ 喜賓会の窮迫深刻化

 経営逼迫 39年3月31日に鉄道国有法が公布されて、私鉄からの寄付金などの収入がなくなり、経営的には非常に難しくなってこよう。 

 明治39年7月7日夕、喜賓会蜂須賀会長代理として、主任が英国艦隊司令長官ムーア中将に「同会名誉会員推薦状」「名誉会員章」「全国案内書」を渡し、「快く・・受納」(39年7月8日付『読売新聞』)された。喜賓会は外国の陸海軍将軍らを名誉会員にしたのは、軍人は団体旅行をする傾向があったからであろう。即ち、名誉会員78人の内外国将軍は17人を数え、少なくはなかった。そのほか、内外華族22人も含まれ、喜賓会が特定貴賓を対象にしていたことが確認されよう(『喜賓会解散報告書』同会本部編、 大正三年三月刊[『渋沢栄一伝記資料』第36巻、6−10頁])。

 39年10月には来遊中の「独逸国会議員及び其一行に全国旅行案内書及び案内地図を贈呈」(39年10月10日付『読売新聞』)している。39年10月15日役員会で蜂須賀、渋沢ら出席して、「外賓会員及紹介状交付規程を改正して、来遊外人の旅行観察上に関する便宜を増進することを決議」した(39年10月17日付『読売新聞』)。まだ、喜賓会幹部は外客拡大に積極的である。

 しかし、外客増加に積極化すればするほど、狭隘収入の壁につきあたる。そこで、渋沢は喜賓会経営逼迫のために喜賓会刊行物の買上げを政府、鉄道院に願いでる。上述の外客増加、ホテル不足問題などが出てくる中で、明治40年5月8日、喜賓会代表委員渋沢栄一らは西園寺公望首相、阪谷大蔵大臣、林外務大臣と首相官邸で会見した。渋沢は、「同会の主旨目的と事業経過の状況を委しう陳べられ」、弘岡幸作は其席末に列していた。渋沢は、弘岡らの作成した英文日本案内書の出版と政府買上げなどを要望し、了解されたようだ。その後、渋沢栄一は平井晴二郎鉄道院総裁と会談し、続いて弘岡は渋沢の命で総裁に面会し、鉄道院との喜賓会刊行物の買上げ交渉に従事した。この結果、「鉄道院は喜賓会出版物を買上げ、我国来遊の外客に汎く配附すること」となり、その手続方法は同会に一任された(弘岡幸作「外客誘致策の今昔所感」『竜門雑誌』第493号、昭和4年10月、『渋沢栄一伝記資料』 第25巻、460−1頁)。

 上述のように、外客増加の好機が到来しても、喜賓会は、率先して新機軸を打ち出すということもなく、パンフレット、案内書などの印刷、配布に終始したのみならず、政府、鉄道院買上げを要請して、自ら販売して収益を上げて、組織拡充するという積極性を欠如していた。外客増加に対応できない喜賓会の存在意義は希薄であった。渋沢は、「喜賓会の企ては、素人の集りで、所謂聞き学問でやつた次第で、外客接待の事も唯其一部分に着手したに過ぎない。そんな具合で、喜賓会の事業が果してツーリスト・ビユーローに貢献したかどうかも疑問である。けれども喜賓会の企は、決して無駄ではなかつた。着眼は確かによかつたと思ふ。そして私と益田氏とは、偶々東京商業会議所の正副会頭をやつて居つた関係から、それを援助する事になつたのである」(『雨夜譚会談話筆記』下・第七二〇―七二三頁 昭和二年二月―昭和五年七月[『渋沢栄一伝記資料』 第25巻、450頁])と、喜賓会を低く評価している。喜賓会には発展の展望も収益基盤もなかったと言えよう。

 喜賓会たたき上げの幹部ともいうべき弘岡幸作が、喜賓会を退職したのはこの頃である。弘岡幸作は長州出身であり、「此の会の趣旨に賛成」し「其の事務者」を希望し、「幹事の一人なる木戸孝正侯」に話すと、横山孫一郎を紹介され、「其の時直接事務の処理に当たれる」は高杉晋作の義弟南貞助氏だったので、南を紹介され、南は弘岡希望を入れて「渋沢子爵に紹介」し、明治28年6月1日に「同会に入ることとなった」という。弘岡は長閥縁故で喜賓会に入会し、同じ長閥の南とは違って、以後、事務員から始めて、主任、幹事、評議員と昇進し、42年3月31日に見切りをつけて退会し、同年年5月7日に浅野総一郎の縁故で東洋汽船に入社したのであった(弘岡幸作『大正甲子還暦回想録』大正14年、12頁、19頁)。

 「閑却されたる喜賓会」 43年4月17日付『読売新聞』で、一記者が「閑却されたる喜賓会」という記事を書いて、喜賓会の「末期症状」を明るみにだした。

 「これぞと目立った功果も挙げえぬばかりか、喜賓会其の物が既に微々として頗る振るわない」。神戸、大阪、横浜支部も「最も重要な関門にありながら多くは眠っている様な姿」で「中にも横浜支部の近状などは惨めなもの」で「さしかけ小屋」(母屋に差し掛ける小屋)のようなものとする。記者が、その理由を「聞けば、先立つ資金がないので、手も足も出」ないという。やはり理由は狭隘資金である。

 昨今「上等客がどしどし入り込む」のに、例えば「クラアク観光団」(明治42年に1万8千トンの巨船クリーブランド号でニューヨークを出発した660人の世界一周大観光団)が「合同」で申し込むと「受けきれぬ」と辞退したり、着船ごとに「カードを撒いて上等客に便利をはかる旨の広告」をだしておきながら「経費倒れで中止」したりすると批判した。「全国の会員は六百余名余もあるが、皆斯る事業の大切な事を呑み込めぬと見え、金持の多い癖に資金に差し支させるとは情けない」とする。喜賓会は、貴賓を相手にしようとする狭隘さから、中産階級以上層の富裕層の「大規模集団旅行」という新展開に対応できなくなっていた。

 「やっと加入した四十名の会員もホンの名ばかり、積極的に外賓優待に努力する様な人がない」事は、各種観光団の神戸の歓迎ぶりに比較して、横浜では「利己的で目先の見えぬ人間ばかり多」いことからもわかるとする。周布公平「閑却されたる喜賓会」知事(明治33−45年)、三橋信方横浜市長市長(明治39−43年6月)も「かかる方面にはとんと冷淡極まるもので、開港場の頭目とは受け取れぬ」とは「一般の定評」だとした。この記事は喜賓会には衝撃的だったはずだが、本質をついていたからか、臨時役員会を開いて対抗策をとるといった動きはない。

 実際、この記者が言うように、「喜賓会創立から解散まで21年6ヶ月の収支」表によれば、@最も大きな収入源は三井、三菱、日本郵船など当時の有力会社からの「寄付金」、A次は「会員拠出金」であり、この二者が「全収入の50% を越」している(白幡洋三郎「旅行の産業化ー喜賓会からジャパン ・ツーリスト・ビューローへ一」[『技術と文明』2巻 1号])。ガイドブックと簡易版の冒頭によれば、訪日外国人の会費は3円(佐藤征弥「喜賓会設立における蜂須賀茂韶の存在と旅行案内書に描かれた四国 」『平成30年度総合科学部創生研究プロジェクト経費・地域創生総合科学推進経費報告書 』)である。この大口寄付者の寄付額増加、会費の値上げで、収支状況は一変するが、大口、会員はそこまで考えていないのである。
 
                     A ジャパン ・ツーリスト・ビューローの成立 

                        @ 木下淑夫の構想・画策 

                          イ 鉄道人の出発

 木下淑夫は、官報、履歴(『叙位裁可書』大正12年、叙位巻28)などによると、明治7年9月に京都府に生まれ、31年7月10日に東京帝国大学工学部土木工学科を卒業し、東京帝国大学大学院に進んだ。明治32年2月6日には、鉄道作業局(ほかに建設・汽車・運輸・計理局)工務部兼主記課の四級鉄道技手になった。「鉄道作業局主記課勤務」が「鉄道生活の出発点」(大正13年秋 古川阪次郎「木下淑夫君を憶う」[木下淑夫『国有鉄道の将来』鉄道時報局、1924年、172頁])となったのである。

 鉄道作業局長官の松本荘一郎は木下の才能に着目してか、彼を欧米鉄道事業の視察に随行させようとした。つまり、逓信大臣芳川顕正は、明治33年5月29日付内閣総理大臣侯爵山県有朋宛稟請で、「鉄道技手木下淑夫」は「松本(荘一郎)鉄道作業局長官 鉄道事業視察の為め欧米各国へ派遣の件、本日稟請候に付ては視察事項取調に関し必要に付随行せしめ度、尤も随行に関する経費は鉄道作業費予算類内より支出すべき義に有之 依て稟請す」として、認可された(『公文雑算』明治33年、第26巻、逓信省二)。

 木下は、明治34年3月6日に七等十級技師になるが、明治35年4月1日に運輸部旅客掛長になり、単なる技術者から旅客を扱うことになる。このあたりから、実家が造酒家(天保13年創業、現在も存続している木下酒造有限会社か)ということもあってか、鉄道経済(鉄道、公園、旅客増加、収入増加)にも目覚めだしたようだ。この木下の鉄道経済着目については、高橋是清が35年3月刊『経済評論』所収の前掲「東洋の巴里としての日本」が少なからず影響したと思われる。

                            ロ 鉄道人の展開

 アメリカ鉄道と公園 日本で最初に「鉄道と公園」の連関のもとに外客増加を考えたのは高橋是清であろう。明治35年まで、是清は、@仙台藩命で渡米(慶応3年8月ー明治元年12月、騙されて年期奉公人)、A農商務省命で特許制度調査で渡米(明治18年12月ー19年3月、サンフランシスコからニューヨークまで大陸横断鉄道利用[明治2年完成し、明治9年6月大陸横断超特急は約3日11時間で走破])、B日秘鉱業会社の日本側代表としてペルー訪問する途次に三日間サンフランシスコ滞在(明治22年12月1日ー3日)、C横浜正金副頭取として金融市場調査のため渡米(明治31年7月23日ー8月、ニューヨークからサンフランシスコまで大陸横断鉄道利用)など、四回訪米し二回大陸横断鉄道を利用している。この大陸横断鉄道利用時に、アメリカでは、明治5年「イエローストーン公園法」で世界で最初の国立公園が誕生し、明治23年にはヨセミテ、セコイア、キングスキャニオンが国立公園に指定されていたから、公園目当ての客などと遭遇したりして、「鉄道と公園の連関」を一定度把握したであろう。

 一般に国立公園制度の導入では、アメリカ(1866年)がヨーロッパ(1909年スエーデン、1914年スイス)よりも早いとされている(土田勝義「ヨーロッパアルプスの自然公園」『環境科学年報』信州大学、14巻、1992年)。是清は、この世界最初のアメリカ国立公園を知っていたであろうが、ヨーロッパについても、パリ都市公園、スイス自然公園(1908年スイス自然保護協会設立)も知っていて、漠然と公園が存在しているという認識をもっていたようだ。

 鉄道技師木下は、「鉄道と公園の連関」のもとでの鉄道経済効果については、前述高橋是清「東洋の巴里としての日本」(『経済評論』第二巻第六号、明治35年3月)、読売新聞社説「国を富ますの一方法」(明治35年10月5日付)などから摂取したと思われる。ここで、是清は、パリの如き都市庭園のみならず、鉄道の活用により、日本各地の自然資源を観光資源にし、「今後日本をして世界の公園たらしむ」と主張するのである。『読売新聞』の「国を富ますの一方法」(下)は、パリは「公園を壮麗にし、其並木を鬱蒼たらしめ」ているが、日本は、「花月の美」を利用して「東洋の遊園と為し以て大に富を作る」とした。特に是清の鉄道基軸の公園化による外客誘致論が、木下に一定の影響を与えたと思われるのである。

 木下の訪米 木下はアメリカの国立公園などをある程度研究した上で、休職して自費で渡米する。明治37年8月13日総理大臣桂太郎宛「逓信大臣稟議鉄道技師木下淑夫文官分限令に依り休職の件」伺が、8月16日に認可される(任免裁可書、明治37年、任免巻十九)。

 明治37年9月16日、木下は横浜を出港し、ホノルルを経て10月3日にサンフランシスコに上陸し、西海岸各地の鉄道を調査する。10月19日には、シアトルを発ち、ノーザンパシフィック鉄道でその本拠地ミネソタ州セントポールに移動し、支線でイエローストーン北ロガーディナーまで行けたのだが、10月末なので「公園は閉鎖」され、実地見学はできなかった。そこで、ウィスコンシン大学で3週間ほど研究した後、12月ペンシルベニア大学で交通論を学ぶことなる(伊藤太一「木下淑夫の国立公園運動への影響」『ランドスケープ研究 : 日本造園学会誌』61−3、1997年)。

 こうして、明治37年に木下は「鉄道研究のため渡米」し、端緒的に是清の「鉄道と公園」の連関を目撃したであろう。つまり、@アメリカでは「19世紀後半に大陸横断鉄道を完成させた鉄道会社はその利用増大を図るため、関連会社を設置して国立公園入り口までの支線を敷設し、園内でコンセッション(特許事業)として宿泊施設をはじめとする観光業務を始め」、Aこれ以降「アメリカ人旅行者のみならず、世界各地から貴賓が世界的奇観を求めてアメリカの国立公園に到来」していることなどを学んだのである(伊藤太一「木下淑夫の国立公園運動への影響」)。@については、まさに、是清も「我東京の中央停車場の如き又は京都、大阪、神戸、馬関の如き主要の停車場には鉄道自身の経営に依るか、又は其監督の下に完全なるホテルを建て、其他瀬戸内若くは避暑避寒に適当せる各地の島嶼にも同じホテルを建設して、来遊外人の宿泊に便じ同時に演劇遊戯其他外人に愉快を与ふるに足るべき諸般の設備をなすに至」ると、鉄道会社主導の観光ホテル、遊興施設の建設を提唱していたのである。なお、木下はnational park訳語として「国立公園を最初に使った人物」(伊藤太一「木下淑夫の国立公園運動への影響」)とされている。明治当初、渋沢栄一はnational bankを国立銀行と訳したが、これは正しくは国法銀行とするべきであったが、natinal park訳語の国立公園は的確である。

 逓信大臣大浦兼武は、38年2月18日付総理桂太郎宛伺書で、第七回万国鉄道会議(38年5月ワシントンで開催)に鉄道技師西大助、鉄道事務官三本武重が委員として参加するので、「兼て自費を以て鉄道に関する学理研究の為め欧米各国へ巡回目下米国費府(フィラデルフィア)滞在中に付 尚同人へも該会議委員として参列せしめられ度」とし、容認される。38年3月2日に「本年五月米国華盛頓府に於て第七回万国鉄道会議開催に付 参事として参列被仰付」れた(『免裁可書』明治38年、任免巻六)。ついで、5月17日「欧米各国に於ける調査事項の嘱託を解く、復職を命ず」とし、「鉄道事業研究の為満二年間独逸国、英国及び北米合衆国へ留学を命ず」(履歴[『叙位裁可書』大正12年、叙位巻28])とした。ここに、木下の自費留学は公費留学となった。  

 明治38年夏、木下がまだ米国のニューハンプシャー州ホワイトマウンテン滞在中に「日露戦争の勝利の結果もたらされるはずの5億ドルの補償金の一部1億ドルをもとに富士山や瀬戸内海を国立公園として設置する構想」を逓信大臣宛建白書としてまとめたが、償金のない「ポーツマス条約の内容に失望し火中に投げ入れた」という。木下は、「ホワイトマウンテンという鉄道が発達した国立公園に準ずる地域で外客誘致施設として日本の国立公園構想を抱」き、帰国後に日本の不況に直面し、その不況克服策からも「景観資源を活かした国立公園整備とそこへの鉄道によるアクセス」による「外客誘致・・の必要を認め」るに至ったという。アメリカでは鉄道会社が国立公園への交通や園内の宿泊施設などを整備した事を確認したのである(伊藤太一「木下淑夫の国立公園運動への影響」、『日本交通公社七十年史』11頁)。ただし、アメリカの場合、国際収支悪化、正貨蓄積のための外客誘致の必要性は深刻ではなく、「ヨーロッパ志向の自国民の関心を足下に向けさせ」「モ ニュメンタルな景観資源によるナショナリズムを鼓舞し、ヨーロッパに対する文化的劣等感を緩和させ」(伊藤太一「木下淑夫の国立公園運動への影響」)ようとした。

 明治39年3月に、木下はニューヨークからイギリスに向かい 「ヨーロッパ大陸各地の景勝地」も巡っている所に、明治40年2月27日付総理大臣西園寺公望宛官吏露都へ派遣の件」伺で、逓信大臣山県伊三郎は、「鉄道技師木下淑夫 右は目下英国に留学中の處 露都に於て交渉中の寛城子(京哈線[北京〜ハルビン]と長図線[長春〜図們]、長白線[長春〜白城市]の分岐点)停車場問題に関連し、鉄道接続業務条約締結の為め本人を露都へ派遣せしむるの必要有之に付 至急露都に派遣せしめられ度」とし、40年2月28日木下淑夫は「露国へ被差遣」た(任免裁可書・明治四十年・任免巻四)。

 その後、木下は、40年10月にシベ リア鉄道経由で帰国し、1ヶ月後の11月に鉄道院旅客課長となる。

                    A ジャパン・ツーリスト・ビューロー構想

 木下淑夫 明治40年10月帰国後、木下は、日露戦後の貿易逆調、正貨流出に対処するべく、鉄道基軸の公園化による外客誘致構想を推進する。つまり、大正5年9月5日に発表した「ツーリスト事業の将来と隣接諸邦との関係」でも、ツーリストビューロー設立の所以の一つは、「日露戦役後物価騰貴し貿易逆調を呈し、海外への正貨流出高日に多きを加ふる有様となり、外債の金利支払及輸出入貿易の状況の如きも漸く困難に陥らんとせる」事に対して、「多数外人を誘致して其の内地消費額を多からしめ、又内地の生産品を広く外人の耳目に触れしめ我が輸出貿易之発達を促さんとする経済政策にあった」(木下淑夫『国有鉄道の将来』鉄道時報局、1924年、153頁)としている。大正元年にも、木下淑夫は「ジャパン・ツーリスト・ビューロー設立に就て鉄道従事員に望む」(『鉄道』鉄道共政会、大正元年)で、「日露戦争の結果として、急激に増加した外債の金利支払、並びに近年輸入の超過等より生ずる正貨の流出多きに対し、之を補充するが為に漫遊外人の内地における消費額を多からしめることは、国家経済上の見地よりして最も重要なる事である」とした(『日本交通公社七十年史』13−4頁)。喜賓会に関する上記43年『読売新聞』記事もでて、今の脆弱な喜賓会では貿易逆調、正貨流出への対処が不十分であり、こうした国際収支逆転の推進力にはならないことを再確認したであろう。

 読売新聞 こうした日露戦争後の正貨確保論は、この時期の『読売新聞』社説でも提唱されていたことであった。

 即ち、明治39年4月1日付『読売新聞』社説「瑞西主義」では、日露戦争の結果、ヨーロッパでは日本は大いに話題になっていて、彼らの中で「日本漫遊を企つる者多きに乗じて、我が国民が奮励一番、諸般の準備を整頓し、彼らの日本旅行をしてなるべく愉快に経過せしめ、帰国の後、彼らが恍として日本旅行の楽しさを忘る能はず、再遊、三遊、遂には夏季の大部分を日本に送るを以て、彼らが唯一の誇り」とするようにして、「一大財源を得るべきよう計画」することは「現時の急務」とする。

 スイスは人口331万人余の小国だが、「山水の美」に富み「外客の遊び場」となって「年々二億円」以上の金を得ている。日本の「瀬戸内海、ないし琵琶湖畔、日光、耶馬渓等の風景は決して瑞西に下らず。特に瀬戸内海の如き、その規模の大にして風景の絶佳なる瑞西の比にあらずは、外人の屡々嘆称する所なれば、若しこれに遊覧的設備を加へて、沿岸所々にホテルを築き、巡遊船を航海せしむる事となさば」、「運輸交通」目的の汽船から風景を見るという現状方式を一変させよう。さらに、「鉄道国有の確定したる今日、現在の山陽線を改良して、完全なる遊覧列車を発することとなさば、外客は或は汽船に、或は汽車に、或は舞子明石に、或は厳島に、数十日遊び回りて帰るを忘れるるに至るなるべし」とする。

 瀬戸内海のみならず、日本国内に「旅行的設備を加へ、遊覧列車に依りて日本全国を周遊するの便法を設け、遊覧船に依りて日本の海岸線を一周するの方法を講じ、或は富士登山、或は琵琶湖の船遊び等、好むがままに外客を遊ばしむるの設備を整へ、至る所宏大ならざるも清洒(せいしゃ)たるホテルありて、十分に彼等の心腸を洗はしむることにすれば、我か日本は遂に世界の楽園と化すべし」とする。「我が輩は日本をして、平和にして風光の明媚なる世界の楽園たらしめんと欲す」とする。

 しかし、現場では「人工的設備全く欠如」しており、首府東京ですら「外人の宿泊すべきホテルは不完全なるもの一二あるのみ」であり、「其の他の地方にては愉快に外人の足を駐めしむべき所少なく、折角の遊覧客を失望して去らしむること毎々なり」。そこで、「一時に完全なる遊覧的設備をなすは困難なるべしと雖も、朝野一致してこれを国是の一部分ともなし、徐々に設備を整頓し、私人の経営にして足らずんば、国庫より補助して之を完成せしむることとせば、非常の困難を経ずして、我が日本を世界の楽園たらしむを得べし」とする。

 日本は工業国、農業国となる資格があるが、「世界の一大楽園たらしむべく、最も適当の要素を備へたるる見る」とする。そして、「もしこれに完全なる人工的設備を加えんか、これに依りて得る所の収入は今日に於ける国家の歳入額ぐらいに達し得るの望みさるべし。これ豈にも逃す可らざる国家の一大富源にして、しかも天授の一大富源ともいふべきものにあらずや」。「我輩は我が国民が小紛争の間に日月を徒消することをなさず、心を一にして鋭意此の点に向って進まん事を望む」と、平和的富国策を提唱した。

 以上、「只我輩の考案の大体を示せしに過ぎず。其の細目に至っては、研究を重ね、調査を積むに従ひ、時々之れを発表せんと欲す」とした 。

 駅ホテル 鉄道作業局などが、ホテル不足を解消し、外客便宜向上をはかるために、主要駅にホテルの建設を推進する。

 明治39年5月26日付『読売新聞』によれば、「一時新橋停車場前に外来人のため馬車を設備し外人の新橋に到着するや、直に之に乗車せしめ、旅舎に送り居たりしか、作業局にては今回再び従前の通り二三台の馬車を同停車場構外に用意し置き、直に外人の需要に応ぜしむる計画を立て目下其準備中なり」とする。」

 39年8月16日付『読売新聞』は、「中央停車場の構造」という記事で、「鉄道作業局にて三菱ヶ原に建設すべき中央停車場の構造は木造、石造其のいずれを採るべきや就いて議論区々なりしも、結局、鉄骨を材料として建設することに決し、尚ほ同付近に一大ホテルを建設する希望あり。建物は之を相当営業者に貸下くるの方法となす由なるが、同停車場構内全部の完成期は明治四十三年の見込みなり」とする。39年5月、前述の通り、鉄道関係者と思われるパーカーも「ホテル改良論」で駅ホテルを提唱していた。因みに、この東京ステーションホテルは「内外人を収容し相当利益を挙げ」ている適例」となり、「大正八年の収容人員は1萬1040名、邦人1万500名で、最も少き日と雖 一日60名は下らぬ」客を確保した。これに対して、「外人を主とする湘南の某ホテル」は、宿泊者が8月3500人だが、2月「僅々百名内外」であるように、「季節に由り大差ある」のである(木下淑夫『国有鉄道の将来』鉄道時報局、1924年、159頁)。外客涸れ時の季節に内客を確保できるか否かが、ホテル経営採算の分岐点になっているのである。

 40年1月5日付『読売新聞』は、「官営ホテルの建設」で、「鉄道ホテル建設の内議ありたることは一度通信しおきたるが、逓信省鉄道作業局にては尚ほ今回郵船会社と気脈を通じて、各要所にホテル建設の考案中なり」と報じた。

 鉄道院設置と共に鉄道ホテルも具体化し始める。41年11月24日付『読売新聞』は、「鉄道の副業計画」記事で、「鉄道院成立の暁(41年12月4日公布・施行の鉄道院官制)には全国枢要の地点を選択してホテルを設備し、又倉庫業をも開始せんとて昨今是が調査に着手した」が、「近来観光外人の益々増加せるに拘わらず、地方によっては、其の設備不完全なるが為に遺憾ながら足を留むる能はざらしむるは、畢竟国家の損失」だとした。そこで、「ホテル等の経営は其利益如何を問わず、速やかに計画せん」としているとした。又、倉庫いついても、「貨物の増加と共に増築必要を感ずるのみならず、現在頗る狭隘にして、日々の出貨の多寡により輸送も亦掣肘せらるるにより、今後其の均一を図らんがため、斯くも増築を計画せるなり」と報じた。

 生野団六 41年、42年は、こうした外遊誘致政策のための醸成に充てられた。『読売新聞』、「木下淑夫」履歴(『叙位裁可書』大正12年、叙位巻28)によって、両年の木下動向を探ると、41年2月2日、帝国鉄道運輸部長岩崎彦松氏は芝紅葉館に、横山孫一郎(帝国ホテル)、山口仙之助(宮の下富士ホテル)、西村仁兵衛(京都大日本ホテル)、チー・エルスミス(横浜グランドホテル)、エル・ムラオウル(横浜オリエンタル、パレース・ホテル支配人)、エチモノゼルル(帝国ホテル支配人)など「全国ホテルの重立ちたる」者内外人十数名を招待した。この招待の趣旨は「国運の発展と共に漫遊外人の勧誘に努め、且つ其待遇を改良するため、鉄道とホテル業者の間に気脈を通じ将来互いに提携して斯業の発達を計るの目的なりとの事」であった。ホテル業者も「満足」して「将来奮って斯業の改良を計り、国民的外交の為目に努力すべし』」と云った。木下はこの「接伴役」の一人としてここに出席した(41年2月4日付『読売新聞』)。これは、ホテル業者をも糾合するジャパン・ツーリスト・ビューロー設立の準備階梯の一つでもあった。

 41年2月21日従六位に叙され、6月6日「露西亜国神聖アタコスラム第二等勲章受領及佩用(はいよう)差許」され、7月13日五級俸下賜するとされ、12月5日には運輸部営業課長を命ずとされる。42年には、12月25日に高等官四等に陞叙され、三級俸を下賜される。このように、この二年間は木下には海外出張もなければ、大きな国内異動もない。

 しかし、実はこの間に積極的に動きは始めた人物がいるのである。それが生野団六である。明治35年に東京帝国大学工科大学土木工学科を卒業し、逓信省鉄道作業局に配属された、木下の4年後輩の人物である。

 彼は明治42年に欧州に留学を命じられ、その途中、第七回万国鉄道会議に参列した木下に次いで、第八回万国鉄道会議(スイスのベルン)への参列を命じられた。つまり、明治43年4月16日首相桂太郎宛「万国鉄道会議参列委員へ手当金支給の件」伺では、鉄道院総裁後藤新平は「鉄道院技師生野団六へ万国鉄道会議参列委員被仰付度旨別に具状致候に付 右決済の上は会議地へ向け出発の日より会議終了の日迄月手当一ヶ月金百五十円支給相成度」とし、4月18日閣議で決定される(『公文雑纂』明治43年、第九巻)。

 明治43年には、ヨーロッパ鉄道と連絡するシベリア鉄道との貨物運輸協約交渉が始まる。43年7月1日、政府は、「今回本邦と欧州大陸鉄道との連絡を図るの目的を以て7日白耳義ブラッセル府に開かるる大陸鉄道連絡会議に加盟することに決し、在欧鉄道院参事大道良太、同技師生野団六、及び田中満鉄理事を委員として之に参列せしむる事となれるが、其の結果日露両国間の貨物連絡に関する件は右会議の終了後、八月を以て更に露都に於て交渉を遂ぐべし」(43年7月1日付『読売新聞』)と報じられた。43年7月16日には 鉄道院技師木下淑夫も、鉄道院参事青木治郎とともに、「日露両国鉄道貨物連絡運輸に係る協議」(明治43年7月12日桂太郎首相宛鉄道院総裁後藤新平「具状」[『任免裁可書』明治43年])のため御用有之露国へ差遣れた。そして、43年11月8日付桂太郎首相宛「留学期間延長の件」伺で、鉄道院総裁後藤新平は、「外国留学生省院技師生野団六は本年十一月二十一日を以て留学期間満期と相成候処、同技師は第八回万国鉄道会議に参列被仰付、引続きブラッセル市開催の西伯利亜(シベリア)経由国際旅客交通会議にも同委員として列席し、尚今協約細則協議のため露都へ出張致し、右期間中停学致居候間、同人留学期を明年三月末日迄延長の義認可相成度」とするのである。ここに、明治43年11月9日桂太郎首相は鉄道院技師生野団六に「明治44年3月31日迄留学延期を命」(『公文雑纂』明治43年、第一巻)じている。以上、木下、生野の対露交渉で、明治44年8月14日「セントペテルスブルグで、『日露の鉄道および汽船による貨物直通運輸に関する協約』が締結され、大正元年には「ロンドンから北米およびカナダを経て日本を経由し、シベリア鉄道でセントペテルスブルグからモスクワに行く世界一周連絡運輸ガ開始」された(『日本交通公社七十年史』14頁)。

 ビューローの推進 さらに、43年には、事態は急速に進展する事が重なる。まず、この43年には、ニューヨークの日米協会会頭リンゼー・ラッセルが来日して、「資源に乏しい日本の経済を繁栄させるためには、日本の恵まれた自然の景観を大いに海外に宣伝し、外客誘致によって外貨の獲得をはかるべきだ。それにはまず外客誘致の機関を設置すべきである」と助言した(『日本交通公社七十年史』12頁)。

 ついで、43年には、鉄道院副総裁平井晴二郎(明治41年12月就任)は、スイス・ベルンで開催された第八回万国鉄道会議に出席し、「西欧諸国の観光事業を視察」して帰国すると、ラッセル外客誘致論にも触発されて、木下の国鉄中心の外客誘致論に賛同した(『日本交通公社七十年史』12頁)。

 明治44年年2月7日、第27回帝国議会において、衆議院議員野本恭八郎(新潟出身)は「明治記念日本大公園創設の請願」、衆議院議員清釜太郎(富士山のある静岡県選出議員)は「国設大公園設置二関スル建議案」、日光町西山真平は「日光山を大日本帝国公園と為すの請願」をそれぞれ提出した。3月6日、木下は、国会で「アメリカ、カナダの国立公園、ヨーロッパの自然公園(「国立公園ではないが、『自然的に国民の遊園地』)について小一時間ほどの説明」をし、富士山麓については「国立公園として『大変宜い』と指摘し、富士山麓の『交通機関と田舎の風景の調和』を主張」した(村串仁三郎「日本の国立公園思想の形成:自然の保護と利用の確執に関するレジャー論的研究」『経済志林』68−2、2000年11月、伊藤太一「木下淑夫の国立公園運動への影響」『ランドスケープ研究 : 日本造園学会誌』61−3、1997年)。

 明治44年5月22日には、桂太郎首相宛「海外派遣を命ずる件」で鉄道院総裁後藤新平は帰国したばかりの鉄道院技師生野団六を「御用有之欧米各国へ被差遣 前記の通 被命度 依て具状」した(任免裁可書、明治44年、任免巻十四)。5月23日桂首相が差遣奏上して、裁可される。

 明治45年1月、平井、木下は、鉄道院総裁原敬を訪問して、外客増加機関の必要性を説くと、原は年間予算5万円の半額を鉄道会計で引き受けると約束した。「この力強い一言で、ジャパン・ツーリスト・ビューローの創立は決定」することになった。この鉄道出資決定で、「朝鮮鉄道、南満州鉄道、その他私鉄関係も、順調に出資が決まり、一方、汽船、ホテルなどの出資も予定通り進」んだ(『日本交通公社七十年史』12−3頁)。

                  B ジヤパン・ツーリスト・ビユーローの設置

 創立呼びかけ 明治45年2月10日、鉄道院(平井、木下、大道良夫)、満鉄(中村是公、清野長太郎、龍居頼三)、日本郵船(近藤廉平、林民雄、小林政吉)、東洋汽船(浅野総一郎、井坂孝)、帝国ホテル(林愛)の幹部12人が発起人となって、「鉄道、汽船、ホテル、劇場、外国関係商社」など34か所の代表者に「ツーリスト・ビューロー設立の提案と会則草案」を送って、参加を呼びかけた(『日本交通公社七十年史』13頁)。

 こうした動きは、喜賓会代表委員の渋沢栄一の耳に入るところとなったようだ。渋沢はこれを鉄道院に問いただしたであろう。明治40年5月8日、渋沢栄一らは西園寺公望首相、阪谷大蔵大臣、林外務大臣と首相官邸で会見し英文日本案内書の出版と政府買上げなどを承認されていたから、平井側はジャパン・ツーリスト・ビューローの創立で渋沢はこれが反古になる可能性のある事を懸念したかもしれない。

 渋沢承認 明治45年3月7日、平井は鉄道院木下淑夫ら二名を渋沢栄一を訪ねさせ、渋沢は木下らと「外賓款待ノ方法ニ付談話」している(渋沢栄一日記[『伝記資料』第51巻、559頁])。ここで、木下は、アメリカでは鉄道会社が国立公園への交通や園内の宿泊施設などを整備している事、これを日本に導入して外客増加させ正貨増加して国際貸借改善に貢献したい事、国立公園については国会で報告した事、シベリア鉄道と連絡する事、この推進財源として鉄道院・賛同企業から5万円出資がある事などを話したのであろう。

 『日本交通公社七十年史』(12頁)は、ジャパン・ツーリスト・ビューロー設立を察知した渋沢は、「木下と会見し、喜賓会の窮状を説明し、『国鉄で別途機関を設ける計画があるなら大いに協力しよう』ということになり、・・木下案は急速に具体化していった」とする。しかし、渋沢は、喜賓会とは異なる、鉄道院主導のジヤパン・ツーリスト・ビユーローの強固さ、国際的に周到な準備等を知って圧倒され、渋沢に狭隘、脆弱な喜賓会を事実上「除去」することの止むを得ぬ事を促したと見るべきであろう。 

 創立集会 明治45年3月12日、鉄道院庁2階の創立集会に「招請状を発送した55名の全員」が出席した。つまり、中橋徳五郎(大阪商船)、大屋権平(朝鮮総督府鉄道部)、内田嘉吉(台湾総督府鉄道部)、私鉄など11人(東部鉄道、京都電気鉄道、東京市電気局長、大阪市電気鉄道、阪神電気鉄道、京浜電気鉄道、小田原電気鉄道、横浜電気会社、横浜電気鉄道、嵐山電気鉄道)、ホテル19人(富士屋ホテル、金谷ホテル、日光、精養軒、京都、東京、樋口、海浜院、軽井沢、みかど、名古屋、敦賀、奈良、大日本、大阪、大東館、三笠、万平)、三越、高島屋、横浜正金、御木本真珠らが出席した。もちろん、鉄道院から、会長平井晴二郎、理事木下淑夫ら11人、幹事生野1人も出席した(『日本交通公社七十年史』17−8頁)。

 こうして、木下が渋沢に会って五日後の45年3月12日に、事実上の鉄道院の関係団体として、「ジヤパン・ツーリスト・ビユーロー」が、名目上は喜賓会と「同一の目的」を以て、「我が国に於ける運輸交通機関たる鉄道・汽船会社・ホテル、其他外客に直接営利的関係ある有力な会社並に商舗等を会員」として東京駅内に設置された(「喜賓会解散報告書」同会本部編、3−7頁)。

 生野出張 このジャパン・ツーリスト・ビューローは、前述の通りシベリア鉄道など欧州連絡線を重視していたから、創立集会から約二か月後に幹事生野を第七回西伯利亜経由国際旅客交通会議に派遣した。つまり、明治45年5月16日付西園寺公望首相宛特別手当支給の件」で鉄道院総裁原敬は、「一ヶ月金百五十円 鉄道院技師生野団六 右者本年七月伯林に於て開催さらるる第七回西伯利亜経由国際旅客交通に関する会議に委員として出席為致度候処 交際上其他の爲多分の費用相嵩み候に付 本邦出発の日より伯林滞在中 特に頭書の手当金支給の儀認可相成度」とし、5月17日に閣議決定し、5月18日通知された(『公文雑纂』明治45年、第九巻)。

 明治45年6月末に、ジャパン・ツーリスト・ビューロー幹事生野団六は、「伯林に開催されたる西比利亜経由国際旅客交通会議に委員として出席を命ぜら」、その序に「欧州に於ける一般鉄道の視察旁、漫遊外客誘致待遇に関する機関組織方法の研究並に現場における実況を視察」した(『日本交通公社七十年史』18頁)。渋沢訪問時に木下に随行していた人物とは、この生野団六ではなかったかと推定される。

 創立披露会は、こうして「幹事の生野が同年6月から9月迄鉄道院から欧州出張を命じられ」たために延期された。生野帰国後の大正2年2月3日に、創立披露会は帝国ホテルで行われた(『日本交通公社七十年史』18頁)。この創立披露会では,「 欧州各国における外客誘致に関する施設」について初代幹事生野団六が講演した(伊藤太一「木下淑夫の国立公園運動への影響」『ランドスケープ研究 : 日本造園学会誌』61−3、1997年)。木下が米国の外客誘致と鉄道を研究したとすれば、生野はシベリア鉄道、それと連絡する欧州外客誘施設を考察したのである。その「 欧州各国における外客誘致に関する施設」講演は、『読売新聞』に三回にわたって連載されることになった。

 「欧州各国の外客誘致施設」調査報告 即ち、大正2年2月、『読売新聞』は、このジャパン・ツーリスト・ビューロー幹事生野団六の欧州出張の成果を「欧州各国外客誘致施設」として三回にわたって報告した。

 まず、大正2年2月11日付『読売新聞』は、ジャパン・ツーリスト・ビューロー幹事生野団六が語った瑞西の外客誘致策の報告を掲載した。

 スイスでの外客誘致機関について、「瑞西といえば何人も知らるる通り山水明媚で、夏時は清涼にして避暑に適し、冬期は寒冷でありますが、近年ウインター・スポートの設備をなして客を呼んでいます。かく総ての方面より視て此国は遊覧地たるに適して居る。従って外客は招かずとも入り込むのですから、広告其他の誘致策を講ずる必要はなからうと思はれます」が、「事実は之に反し政府鉄道、ホテル協会、デペロプメント・ソサイチーなどを設け、外客の誘致に力めています。元来瑞西鉄道にはパブリシチー・ビューロー(広告部局ー筆者)なる独立の一課があって、旅行奨励公告に関する一切の事務をとり、瑞西に関する幻燈、講演、外国に向っての気象報告、外国博覧会への加入などいろいろの事を司って居ります」とする。ノーヴァルは『観光事業論』(国際観光局訳[木村吾郎『日本のホテル産業百年史』252頁])で、スイスでは、観光事業は「『全国観光事業協会』(デペロプメント・ソサイチー)と『スイス国有鉄道』(政府鉄道)の二つの組織を中心に行われている」と述べている。

 このデベロプメント・ソサイチー(観光促進協会か)について、これは「大体に於て吾がツーリスト・ビューローの如き会員組織で、瑞西国内重要の箇所には各之が設立されて居り、全国を通じて約百以上もありまして、会員としては州、市、銀行、交通業者、ホテル業者、商工業組合、其他雑貨、絹、時計、写真、美術品、菓子食料品等各種の商店等殆んど其地の主なる団体個人を網羅し、市内繁華の場所に立派なインフォメーション・ビューローを持って居り、そこに二三の事務員が居て旅行に関する各種の報道は勿論、其地のホテル、商店、素人下宿、商工業上のことまでも無料で質問に応じ、場所によりて各国のダイレクトリー、新聞、雑誌、タイム・テーブル等も備えて居」るとする。そして、生野は、「インターラーケン、ベルン等の案内所を見ましたが、夏のことで何れも大繁盛、就中インターラーケンはユングフラウの登口にあるのと、土地柄だけに沢山な人が入替り立替り出入して居るのに、年若き婦人が二三人で英独仏等の国語を自由に語って応援して居るを見て大いに感心致しました」とする。

 スイスのホテルの外客受入活動などについては、@「ホテル業者は、各地に各ホテル組合があって、機関雑誌を持て居りますが、バーゼルにホテル協会を有し、外国に対しては専ら此協会が活動しており」、「此協会は会員として瑞西の殆ど主要なる凡てのホテルを有し、会費はベッドの数に応じて徴収して居り」、「州又は政府より何等の補助を受けざるのみならず、却って政府鉄道海外出張所に相当の金額を出資して居るのであり」、A「海外に対しては前述の如く鉄道及デベロプメント・ソサイチーと協同し、或いは単独に広告をなすとともに、毎年ホテル・リストと称し、各ホテルの室数、室代、食事料、交通の利便、燈器暖房の設備等を記載せる小冊子約十万部を出版し、外国に配付し」、「又海外に於ける政府鉄道の案内所を補ふといふ意味で、露都に一ヶ所の案内所を経営して居り」、B「又『瑞西ホテルビウ(Hotel View)』と称する週刊機関雑誌を有し、毎年総会を開き、各種の問題を研究し、万国ホテル協会に加入し、其の総会には必ず代表者を派遣して居り」、「又ローザーンにホテル学校を有し、ホテル業者の子弟其他を収容し、外国語、計算事務、料理、飲料、給仕、監理等に関することを教授して善良なるホテル従事員を養成することを目的とし」、Cスイス・ホテル協会幹事の談によれば、「ホテル協会は目下会員の数 千百余、全国ホテルの資本額は1906年に8億フラン、収入約2億フランで、益金は前年来漸く低下して資本に対し五分であったのが、同年以後は資本愈増加し目下10億フランに達したりと思はるるに、益金は四分五厘乃至四分或は其れ以下なるやも計られずとのことで」、「右益金減少については、近年新設のホテル中には善美を尽して多大の資本を投ずるものあり。且一地方に必要以上のホテル続々新設さるること等 主なる原因だと云うことであ」り、D「尚談話中、幹事は私に向って、漫遊外客を誘致するために広告其の他各種の手段をとることは必要ではあるが、来遊した外客を満足して帰国せしむることが、特に最大であると言ひました」と報告した。

 生野は、「以上三つ(政府鉄道、ホテル協会、デペロプメント・ソサイチー)は、或は単独に或は協力して瑞西に漫遊客を誘致することに努力しつつあるのですが、瑞西国民は尚足れりとせず、昨春の議会に外客奨励中央局設立の調査並びに設立案提出に関する議を提出して、可決しました」と補足した。

 大正2年2月13日には、ジャパン・ツーリスト・ビューロー幹事生野団六が語った「フランス、オーストリア外客誘致策」の報告を掲載した。

 まず、フランスでは、@「瑞西同様にホテル組合、サンデイカ・デイシアチブ(瑞西のデベロプメント・ソサイチーと同様なもの)、鉄道及びツーリング・クラブ等が各活動をしております。又漫遊に関する中央局が工部省内に置かれて居ります。鉄道は仏国では官私六大線路がありますが、就中巴里・里ミ(りおん)地中海鉄道、即ち巴里よりマルセイユ、伊太利、瑞西方面への線路を有するものが最も活動して居り、運輸部中に独立の一課がありまして、一年約十五万円位の予算を以て広告其他のことを司どって居り」、A「広告を目的とする出版物としては備忘録、時刻表、線路案内各種のフールダー、地図、引札等でありますが、備忘録と時刻表は三万部乃至五万部を発行して実費以下で発売して居ります。線路案内は大部のもので、列車中に備え付け、其他は何れも無料で各方面に配付するのですが、これ等の調製については十分意匠を凝らし、文章は第一流の文学家に依頼し、絵画、特に懸図は立派なる美術家に嘱託し」、B「ルーリング・クラブ・ヅ(ド)・フランスは1890年の創立に係り、徒歩、騎馬、自転車、自動車、ヨット、汽船、鉄道、飛行機等凡ての機関による旅行を発展せしむるを目的とし、其のホテル係ではホテルの改良、ホテルと会員宿泊につきて特約をなし、訴訟係ではホテルの改良、ホテルと会員宿泊につきて特約をなし、訴訟係では会員の旅行に起因する訴訟其他の相談を受けており、一方にはその資金中毎年年約十五六万円を旅行に関する公共的事業に投じ、近来は外客誘致に関しても大いに努力して居ります」とした。

 以上は、「何れも民間の機関でありますが、1910年に工部省内に政府として旅行奨励に関する事務を執るべき中央局を設けました」とする。後者については、ノーヴァル『観光事業論』(国際観光局訳[木村吾郎『日本のホテル産業百年史』251頁])によると、フランスでは1910年(明治43年)に「土木省(工部省)によって『観光局』(中央局)が創設された」としている。

 次に、「墺国」について、「墺国には鉄道、ホテル、旅行クラブ等の外に工務省内に漫遊旅行に面する事務局があり、外国に支局を有し、漫遊外客誘致の手段を採り、ホテルの設備なき地方にして特に其必要ありと認むる時は特殊の方法を講じ、又ホテル建築の監督、ホテルの設備経営の改善を命令し、その他鉄道汽船等に対して各種の施設を要求する等のことをなし、其予算は年額30万円です。その外各種要地にツーリスト・ビューローがありまして、特にチロル、即ち瑞西寄りの地方のものhさ最も活動して居ります。年々チロルを訪ふ外客の数は瑞西における外客数に比して大なる遜色なしと称せらるる程です」とする。

 大正2年2月14日付『読売新聞』は、ジャパン・ツーリスト・ビューロー幹事生野団六が語った「イタリア、ベルギー、ドイツの外客誘致策」の報告を掲載した。

 イタリアについて、「伊太利ではスイスのデベロプメント・ソサイチーに類するものが全国各地に設立せられ、其本部は首府ローマにあります。特に伊太利の北部は瑞西と同様山水明媚なるため、客を引くに好都合で極力外客誘致に努めて居ります。各地に何れも案内書が発行せられ、時季ごとに各種の広告的印刷物を発行し、又案内所に於ては各種の乗車券をも発売して居ります」とする。

 ベルギーに関しては、「鉄道とリーグ・ベルジュ・ヅ・プロパガンド(ベルギー宣伝連盟か)とが各々活動しており、殊に後者は倫敦、紐育、ケールンに出張所があります。ここほか、国内の各市役所にインフォメーション・ビューローがありまして、相当の仕事をやっております」とする。

 ドイツについて、@「独逸でもまた外客誘致は遺憾なく講ぜられ、国有鉄道、ホテル組合、ツーリング・クラブは申すに及ばず、各地にフエルケアース・フエラインがあり、このフエラインの本部はライプチッヒにありまして、ドイチランドと称する機関雑誌を発行し、会員として約160のフエルケアース・フェライン其他約百の市町、団体等を有し、独逸国中瑞西に接せる方面黒林地方、ライン沿岸等は夏季多数の漫遊客を呼ぶのです」が、A「尚伯林を大陸に於ける第二の巴里たらしめんとし、市自身としても、市の美観を保つがため、或は建築条例によりて、家屋の構造を一律にし、或は各種のモニュメントを設置し、大通りの中央に草花を植え、バルコニーに草花を飾ることを奨励し、劇場、人工氷滑、バライテー・カフェー、料理店等中々立派なものがあり、殊に近来ホテルの立派なるものが新築され、音楽の盛んなることなど漫遊客の足を止める因をなして居り」、B「伯林には純然たるツーリスト・ビューローはありませんが、伯林商工組合の機関として漫遊客奨励本部があり、常に来遊外人の利益たるべき事項の研究をなし、種々のことで直接間接に努力し、最近における来遊外人の数を約百三十万と報告して居ります」とした。

 以上の報告を終えるにあたり、生野は、以上の欧州各国の外客誘致策を踏まえて、日本の外客誘致の遅れた現状と対策を述べるのである。つまり、@「我日本に於ける外客誘致上の施設如何と云ふに、遺憾ながら微々たるもので、一面欧米に於て一般人士の日本に関する旅行上の知識は零であると同時に、旅行専門業たるトーマス・クック、万国寝台会社の主要都市に於ける支店・代理店等に於てすら日本への旅行上の報道は得られぬと云う始末で、吾国としては決して軽々しく看過すべきことでなく」、A「世界交通の便、愈進む際ですから、相当の方法を講ずれば、漫遊外客の数、並びにこれ等外客に依りて吾国に落さるる正貨の額は漸次増加するに相違ない」とし、B「この方法」は、「弘く海外に日本の風景事物を広告紹介し、且海外に於て直接各種の報道を与ふるの便を開くこと」、「内地に於て直接間接に漫遊外客に関係ある各種の設備を新設又は改善し便宜を計り、厚遇の手段を尽くすこと」の二つであるとして、ジャパン・ツーリスト・ビューローの今後の活動の重要性を示唆した。『読売新聞』はこのジャパン・ツーリスト・ビューローに大きな期待をかけていたのである。このように、『読売新聞』は喜賓会に批判的で、ジャパン・ツーリスト・ビューローには好意的であり、ビューローの事実上の運営者の生野の動向をも積極的に評価するのである。

 『読売新聞』は喜賓会に批判的で、ジャパン・ツーリスト・ビューローには好意的であり、ビューローの事実上の運営者の生野の動向をも積極的に評価する。大正2年11月27日付『読売新聞』では「明年桜咲く頃 漫遊外客続々来らん」とされ、ジャパン・ツーリスト・ビューローがこれに対応できるとした。つまり、「鉄道院が主力となり、満鉄、朝鮮鉄道、台湾鉄道及郵船、東洋両汽船会社等、協同の下に外客の誘致と、漫遊の為にやって来た外国人のために諸種の便宜を計る事の二つを目的としてジャパン・ツーリスト・ビューローなるものを組織し、右の二つを研究の欧米各国を視察して帰った鉄道院参事生野団六氏を幹事として、本年一月神戸に外客案内所を開設したのを真っ先に爾来着々として種々の方面に活動して居る」と評価した。生野は「創立事務から、初期体制づくりに努め、11年間の在任を通じて、ビューローの基盤づくりに大きな足跡を残し」、「木下を”生みの親”とすれば、生野は”育ての親”」(『日本交通公社七十年史』日本交通交社、1982年、5頁)ともいうべきものになる。

 ビューローの事業展開 事業規模は会費収入を中心に年間5万5000円と、喜賓会の約10倍の資金をもち、ビューロー の事務所は、まず明治45年3月の創立と同時に「東京呉服橋の鉄道院総裁応接室に置かれ」た。

 そして、ビューローは当初から案内所8ヵ所、職員11名を擁していた。喜賓会の弱点の一つであった地方支部の設置の遅延と貧弱さは、ここにはいささかもない。大正前半には、「嘱託案内所ではあるが、欧米主要都市に案内所網をはりめぐらし、大陸等にも支部を設置、又内外の博覧会場や避暑地などに臨時案内所を随時又は定期的に開設」した(『日本交通公社七十年史』日本交通交社、1982年、5頁)。ビューローの外客案内所が横浜、長崎、神戸にも設立されて、@外国船入港すれば、所員が出向いて、「簡単な地図やカードなど」をくばり、Aそれを見て案内所にきた客に一週間、一か月とかのコースを作成してやり、Bついでホテル周旋、観光場所への紹介状を作成し、「精々かゆい点に手の届くやう」にして「充分満足せしめて帰国」させ、C十月中に三か所の担当外客400人で「成績は甚だ良い」とした(大正2年11月27日付『読売新聞』)。これは、詳細な英文地図・案内書の作成・刊行に実績をもつ喜宴会に「とどめの一撃」を与えたであろう。有用ならば、「簡単な地図」でもいいのである。

 大正4年には、画期的にも「外人用乗車券の発売」を開始し、「社の乗車船券類代売事業の端緒」となり、「爾来、内外の船会社、海外旅行者との間の代売契約が相次ぎ、その範囲は拡大」した(『日本交通公社七十年史』5−6頁)。しかし、第一次大戦後のインフレで「財源の大半を会費収入に依存するビューローの経営を苦境に追い込」み、自主財源の一つとして大正14年に「一般邦人用乗車券の発売」が開始され、「サービスの市中進出』が試みられ、三越など「全国のデパート内に案内所」を開設した(『日本交通公社七十年史』6頁)。

 昭和2年7月には、「創立以来法人格を持たなかったビューロー」は社団法人となった(『日本交通公社七十年史』6頁)。そして、「大正末期から上昇傾向にあった邦人旅客斡旋業務」は、昭和7年「鉄道乗車券代売手数料交付開始、鉄道の駅派出鉄道所業務の全面引受け、乗車券の無料配達、邦人部の新設、汽車時間表の発行」などで「一気に拡大」(『日本交通公社七十年史』6−7頁)した。

 その後の木下・生野 木下は、国立公園に関する活動をせず、ビューローの表舞台からも消えたかであるが、大正3年に鉄道院運輸局長に昇進し、大正5年には経済調査会幹事となり、「彼は外客誘致常設調査機関を設置し外客誘致を国策として進めた」。さらに、木下自身は運輸局長として「シベリア鉄道など鉄道問題に専念」し、5年6月には鉄道院編纂『本邦鉄道の社会及経済に及ぼせる影響』を出版した。だが、7年8月に「シベリアに出張しシベリア鉄道に関わる厳しい交渉に携わっていた折り、アメーバ赤痢に罹」(伊藤太一「木下淑夫の国立公園運動への影響」『ランドスケープ研究 : 日本造園学会誌』61−3、1997年)ったのである。

 大正8年9月19日総理大臣原敬「鉄道院理事木下淑夫叙位の件 右謹て裁可を仰ぐ」とし、同日裁可され、木下淑夫は「正五位勲二等」から従四位に昇叙される(『叙位裁可書』大正8年、叙位巻28)。大正12年9月7日付山本総理宛鉄道大臣山之内一次稟議で、木下は、「明治34年3月任鉄道技師以来 数官に歴任し、勤労少なからざるものあり、就中鉄道院運輸局長としては日支及日露鉄道連絡運輸の開始に参画し、屡々支那、西比利亜及欧露に出張して交渉の宜しきを得、遂に今日の対外連絡運輸の基礎を確実ならしめたるの功労甚だ顕著なるものと認む」が、今危篤なので「特別の御詮議」で正四位勲二等に「位階進叙」なるようにしたく稟議するとし、9月7日裁可される(『叙位裁可書』大正12年、叙位巻28)。なお、「木下淑夫」履歴(『叙位裁可書』大正12年、叙位巻28)をみると、ジャパン・ツーリスト・ビューローの記述は一切ない。

 一方、生野は 大正11年10月13日鉄道功労賞(東京鉄道局運輸課長[大正11年10月14日付読売新聞])を受賞し、大正14年4月29日台湾総督府交通局総長(大正14年4月29日付読売新聞)、昭和2年4月30日電気局長(昭和2年5月1日付読売新聞)に昇進し、昭和に京浜電鉄社長になる。

                     C 喜賓会解散 

 明治45年7月に大正元年となり、大正2年の沈滞期を経て、翌3年3月に解散した。

 喜賓会は大正2年12月役員会を開き、本邦に来遊する外賓接待機関として「ジヤパン・ツーリスト、ビユーロー」の設立せられたる今日に於て、尚ほ同会存続の必要ありや否やに付協議せしに、全会一致を以て解散を可決せしに由り、渋沢会長は伊藤欽亮・小川?吉・鏑木誠・田中常徳・弘岡幸作の五氏を同会整理委員に指名し資産及其他に関する処分を委嘱せられしが、爾後右委員に於て整理処分を了し、本月十一日午後六時帝国ホテルに於て解散式を挙行」(『竜門雑誌』第310号、大正3年3月[『渋沢栄一伝記資料』第36巻、5−6頁])した。弘岡は喜賓会辞職後も、評議員は勤めていた(弘岡幸作『大正甲子還暦回想録』大正14年、17頁)。渋沢は、「鉄道院の方で、ツーリスト・ビユーローを設立して、組織的に外客接待をやる事になつた」ので、劣勢貧弱の「喜賓会の事業」は大正2年に決定的に存在根拠を失ったとしたのである(『雨夜譚会談話筆記』下・第七二〇―七二三頁 昭和二年二月―昭和五年七月[『渋沢栄一伝記資料』 第25巻、450頁])。

 渋沢は、本会は「出版物に依て大なる成功を収め得たと自負することは素より出来ますまい」と、恐らく喜賓会事務局などが最後まで自負し固執した地図・案内書を自己否定しつつ、それでも、本会が「資力に相当する範囲内に於まして極力尽瘁致しましたことは事実」であり、「本会の紹介に依り、若くは出版物等により便益を享け遠来の目的を遂げ、衷心我邦に対する良感を抱いて帰国したる人々も随分沢山ありしことゝ確信」するとした。にも拘らず、解散する理由は、「運輸交通業者等に依て本会と目的を同ふする機関」で、しかも「既に已に大に頭角を伸ばし生長せんとする」実力をもつもの(ジャパン・ツーリスト・ビューロー)が「発育に障害の嫌ある古木(喜賓会)を除去することは当然の処置」(『竜門雑誌』第310号、大正3年3月[『渋沢栄一伝記資料』第36巻、5−6頁])とした。
 
 大正3年3月に、劣弱な喜賓会は、強大なジャパン・ツーリスト・ビューローに除去され、解散に追い込まれたのであった。喜賓会解散に先立ち、渋沢は、「喜賓会の財産、事務員の引継方」を要請したが、ビューローが「これを辞退した」のは当然であった。ただし、ビューローは「要員については、大正3年以降その一部を受け入れ」(『日本交通公社七十年史』11−2頁)、妥協しはした。

                     D 日米関係の急変

 最後に、この喜賓会の衰退・衰滅、ジャパン・ツーリスト・ビューロの登場の時期は、日米関係の急変の時期であったことを確認しておこう。

 親米態度 明治37年3月31日、「ぺルリの神奈川条約締結の日」に、神田美土代町日本基督教青年会館に「開国五十年の紀念会」が開催された。日米両国有志は、「ぺルリが今より五十年前神奈川条約の締結を全うし得たる三月卅一日に相当するの故を以て」、来賓に「大隈、松方、井上の諸伯、米国公使グリスコム氏等を始め、貴衆両院議員、大学教授其他内外の紳士淑女」を招いて、開国五十年紀念会を開催したのである。昭和20年8月上旬、降伏を直前にして、陸軍省幕僚らは、「ペリーが砲艦で開港を強制」したことが日米戦争の淵源としていたように、ペリー評価は時の日米関係が端的に反映する。

 この頃の日米関係は、「日米両国の間友情の纏綿たるもの一日の故に非ず。提督ぺルリ先づ其端を啓きてよりタウンセント・ハリス其の根を固め、ビンガム、バック諸公使の更に之に一段の培養を加ふるに及びて、今や其成果を開国五十年紀念会の盛なるに見んとす」というものだった。

 島田三郎(元衆議院副議長、ジャーナリスト)は、「日米両国の外交史を陳じて両国の関係が今日の如く親密を致せることの決して偶然ならぬ由を説き」、@「ぺルリが開国を日本の幕府に迫りし頃、露国のプチャーチンも亦長崎に在りて条約の締結を請求したり。此時露国より米国の使節に対して共同して日本に迫らんと申込みしが、ぺルリは断然之を斥けて単独に其の運動を継続し、遂に漂流民救助のことのみに関して一条約を結び、此に両国交際の端を啓くに至り」、日本開国はロシアではなく、「自由博愛の国」米国で開国されたことは「幸福とすべき所」であり、A「其後ハリス公使の来りて、外交に無経験なる日本政府を教導し、関税の権、阿片禁止の権等に力を尽くししため、日本が永く其の禍根を絶つを得しは日本の深く謝せざるべからざる所」であり、B「其他幕府の使節を厚遇したる、他に先じて郵便条約を改正したる、治外法権の撤去に異議なき由を宣言したる、基督教伝道師としてフルベッキ、トムスン、ブラウン、グリフイス、クラーク等の名士を送りて日本の道徳界に多大の貢献をなした」など、「米国の日本に与へたる好意友情は殆んどあげていふべからず」、B今後も「パナマ運河の開鑿行はれて、太平、大西両洋の相連絡するに至らば、両国の交際益密に、其相利する所益々多かるべき」は明らかとする。

 大隈重信は、@日本国是は開国だが「徳川氏の初めに当り、西班牙、葡萄牙の野心ある宗教家が渡来して、動もすれば累を政治に及ぼさんとするに至れるより、遂に政策上已むを得ず国を鎖すこと二百余年に及べり」、Aしかしペリー開国以後「米国政府が遣はす處の人物施す所の政策、一として日本の利益の為に盡さざるはあらず」、特に日本外交顧問は明治37年間中で35年間はアメリカ人(スミス、ハリス、現在デニソン)であり、B日本はこうしたアメリカや「正義人道を重んずる世界の文明諸国」に代わって、ロシアに「剣を抜けり」とし、B日露開戦は「清韓両国における政略に於て日本と歩調を同うせる米国に対し、謝恩の一端たるを得べけん」とする(明治37年4月2日付『東京朝日新聞』[『新聞集成明治編年史』第十二巻])。

 米国の警戒 しかし、日露戦争勝利で日本が太平洋の強国になると、満州利権開放問題、太平洋をめぐるアメリカとの覇権戦争が取りざたされはじめた。

 まず、米国本土で日本人排斥運動がおこった。38年3月21日、ベルツは、「日本の力が増大するのを、合衆国では邪推の眼でみる徴候がいよいよ著し」く、「二週間前にはカリフォルニア州の立法会議が、ワシントンで日本移民制限の措置を提案することを決議」し、「一週間前には議会の一委員会の委員長が、米国は何時なりと日本にほこ先を向けるよう、その艦隊を増強せねばならないと公言し」、「今度は移民委員会が、日本人は米国の公民になれないとの理由を以て、テキサスにおける日本人十名の帰化を無効と宣言した」(ドク・ベルツ編、菅沼竜太郎訳『ベルツの日記』第二部下、岩波文庫、昭和37年、132頁)と記していた。

 日本人に仕事を奪われることを心配したアメリカ人が日本人排斥運動を推進し、明治39年サンフランシスコ教育委員会が東洋人学童排斥命令を出し、日系人児童は東洋人学校へ通うことを強制された(多文化社会米国理解教育研究会編『移民を授業する』全米日系人博物館HP)。


 さらに、日米関係の緊張は太平洋における両国海軍の軋轢になってゆく。ルーズベルト大統領は、「米西戦争の経験や戦艦建造に関する国内世論を喚起する必要性から主に大西洋方面に集中配備していた米艦隊の太平洋方面への配備を要請」して以後、太平洋の支配権をめぐって「日米戦争は将来避けられないとする政治家の発言」や「日本政府が日米開戦に関する最後通牒を既に米国に通告したとする新聞報道」が度々米国から伝えられるようになった(川井裕「外国軍艦の日本訪問に関する一考察−1908(明治41)年の米国大西洋艦隊を対象として−」『戦史研究年報』防衛省防衛研究所戦史部編14、2011年3月)。

 以後の日米関係は、軍事的緊張とその打消しの繰り返しとなり、以下、その一部を掲げておこう。

 山本海将の訪米 40年7月4日、ヴィクター・メトカーフ海軍長官が、近々大西洋艦隊を航海演習のため太平洋方面に回航する旨を新聞記者に発言し、いったんは沈静化した日米開戦論が再び盛んになり始めた。このような状況の中、山本権兵衛海軍大将が英国からの帰路、7月10日にニューヨークを訪問し、ルーズベルト大統領及び将軍らと会見して良好な日米関係を強調した。例えば、7月11日には大西洋艦隊司令長官エヴァンスス(Robley Evans)提督と山本(権兵衛)大将は「共に日米戦争の全く根拠なき」を説き、ウッドフヲ―ド将軍は「此の罪を無責任なる新聞に帰して痛罵」した。12日には、「日本倶楽部歓迎会に於て(山本)大将及び青木大使は、在留同胞は日米の親善を保つに努めざるべからずと懇切なる演説」をした。日本側は今回の「山本大将の渡米は大々的成功なり」とした(明治40年7月17日付『国民新聞』[『新聞集成明治編年史』第十三巻])。

 しかし、明治40年8月、米国は、「戦艦16隻、駆逐艦6隻及び補助艦船数隻をもって大西洋艦隊」を編成し、同年 12 月中旬に大西洋方面を出発させマゼラン海峡を通って排日論の中心であるサンフランシスコに回航させると発表した(川井裕「外国軍艦の日本訪問に関する一考察」)。

 米国陸軍長官タフトの来日 これで再び日米関係悪化が懸念される頃、40年9月28日、次期大統領選挙における共和党の候補者と目されて米国陸軍長官ウィリアム・タフトが来日した。

 9月30日夕方、帝国ホテルで「市及商業会議所の発起に係るタフト卿歓迎会」が催され、「松方、井上両元老、林、松岡、斎藤、阪谷の四大臣、渋沢男爵、尾崎市長、長崎宮中顧問官、香川皇后大夫、徳川、杉田両院議長を始め、内外の紳士淑女百五十余名」が参集した。渋沢栄一男爵の発声で「米国大統領の万歳」を唱えれば、又タクト氏の発声で「我天皇陛下の万歳」を唱えた。食後、渋沢は、「日本が彼里(ペルリ)、ハリスの厚誼を通じて米国に負ふ所頗る多き由を語り、日米間の貿易は明治五六年頃に於て五百万円、十五六年に至りて二千三百万円なりしが、昨年に至りては約二億に上れるを聞き、日本人の米国人を見ることさながら我国民の如き今日、米国人も亦日本人を観ること、其国民の如くならんことを希望す」(明治40年10月1日付『東京朝日新聞』[『新聞集成明治編年史』第十三巻])と演説した。

 因みに、タフトは明治41年大統領選に圧勝して、第27代大統領に就任した。

 米国大観光団第一陣の来日 こうした日米緊張下に、それを緩和し日米親善をはかるべく、アメリカから大観光団が来日するのである。

 明治43年1月6日には「空前の米国大観光団」の一部百七名が、「特別列車にて新橋停車場に到着」した。停車場前の広場には「歓迎の文字を現はせし大縁門(アーチ)を設け、日米両国旗を交叉し、駅前より土橋を亘れる道筋の両側は、歓迎者が幾重の人垣を築き、雑踏を埋め」ていた。「観光団の男女何れも思い思いの服装にて、満面に溢るるばかりの笑みを湛えつつ、数百名の出迎人と握手を交はし、待ち受けし百余台の俥に分乗し、群衆の歓呼の声に迎えられ、芝桜田本郷町通へ繰り出し」ていた。

 俥は「悉く紅白の華やかなる日米国旗を飾り付けたれば、美しなんど云ふばかりな」く、「中には酒に酔ひて片手に赤い絵日傘を翳し車上にて雀躍をなし、国旗を振って喜ぶ者など数多見えたるが、一行が愛宕下町を経て御成道に来りし時、花の如く装ひし数名の少女が楽しげに追羽子して遊び居たれば、婦人連は早くも認めて何れもオーオーと叫びながら、巧みなる突き振りに感服し」た。そこから、「芝公園を過ぎて六代将軍の霊廟に到着し、一行は数組に分かれ、通訳の案内にて三百余年の苔清く生ひし廟内を隈なく縦覧せしが、堂内及び門屋等の精巧なる彫刻を深く嘆称し、中には手帖を取出し、其處彼處を模写する者」があった。老紳士連は「霊廟の由来を種々問ひ質して通訳を弱らせ居たるが、将軍の墓碑の前に至るや、言ひ合はせし如く脱帽して恭しく一礼を為し、続いて増上寺の焼跡を巡りて『惜しいな、惜しいな』と叫び、軈(やが)て順次帝国ホテルへ引揚げ、十数名の一隊は俥を連ねて丸の内に赴き夕陽紅く雲を染めし九重の皇城を遥拝」した。彼らは、徳川将軍廟、皇居に拝礼して、日本に敬意を表したのである。宿舎の帝国ホテルでは、「玄関内の休憩所の天井を藤の造花にて装飾を施し、入り来る珍客を出迎へ、甚だしく混雑を極め」(明治43年1月8日付『国民新聞』[『新聞集成明治編年史第14巻])ていた。

 43年1月8日午後2時、東京市及び有志実業家は聯合して、「有楽座に歓迎会を開」き、「観光団は定刻前より到着し其数約二百余名、奏楽を以て迎へられたり」た。尾崎市長は「先づ英文の歓迎辞を朗読」し、「米国と日本とは古より交際し居り、最も親善なる間柄の国として世界に知られたり、而して過般は米国実業家我が国に渡来し、又我実業家も米国に旅行し、米国各所に於て歓迎を受けたる程也、今や前例なき程の多数なる諸君が我が国に来遊せられたり、我等は諸君を歓迎するに付、心臓が破裂せん許りの歓喜満つる事を禁ずる能はず」とした。次に渋沢栄一は有志実業家を代表し、「私等はツイ此間(貴国の招待で)貴国へ参り、各所に於て歓迎せられ、而して日本へ帰て来た許りの所でありますから、今又多勢で御出でに成つた皆様の御顔を拝見するといふ事は、一般の人々よりも一層悦ばしう御座います、皆様が我国を御覧に成る日取は至つて短いにも拘らず本日此所へ御光来下さつた事は、私等の非常に喜ぶ所であります。又皆様の御観光の日取が少ないのに、余り時間を奪ひましても相済まんと心得、今日は斯る少さな劇場に御案内申し、女優学校の生徒が演じまする所を余興として御覧に入れます、尚明日から我国の工場なり学校なり其他何所でも御覧に成りたいとならば、出来るだけの御便宜を計る積りで居ります、元来日本は風景を以て勝る国でありますが、目下は気候が悪いので(こうした小劇場での挨拶となって)甚だ遺憾に思ひます」(『竜門雑誌』260号、明治43年1月、50−51頁、明治43年1月9日付『東京日日新聞』[『渋沢栄一伝記資料』第39巻、40−41頁])とした。それよりクラーク博士は「日本の文明の欧米の其に比して些少も劣らざること、並に今日迄の旅行に於て日本の最も愉快なること」を語り、「此の愉快は生涯団員の忘る能はざるものなり」(明治43年1月10日付『国民新聞』)と挨拶した。

 米国側は、「序幕大名婚礼式は何も煙にまかれたる如き有様にて見物し、第二、忍夜恋曲者、将門山古御所の場は稍分りたる様子にて、一米人は最初此くの如く女を虐待するは日本の風俗なりやとの質問を発したるが、次第に滝夜叉姫の獰猛の性質を表し来りたるより、漸く首肯したるものゝ如く只笑ひ乍ら見物した」。第三は「元禄の花見踊」にて、「女優養成所の生徒総出にて花やかに盆踊り風の舞踊をなし、日米両国旗を表はせる扇を持ちて踊りたる時は、来賓一同の拍手暫しは鳴りも止まず非常に満足したるやうなり」。それより「庭前にて茶菓の饗応を受け主客共、この時大半は引取りたるが、猶熱心家は喜劇「ふた面」を見物し、五時半頃散会」したのである。

 観劇していた老婦人は「日本の婚礼は甚だ西洋のオペラの如く優美にして、甚だ規則正しく我々も今十年若ければ(但し其婦人は六十位)此くの如き結婚式を挙げて見たし」と言い、一人の若紳士は「日本演劇は言語は分らざれ共、形衣裳の美しきには感服せり、只顔の表情、男は一様にて喜べるか怒れるか分明ならず」とし、若き美人は「この日本踊を紐育にて興行せば一夜に此十倍は入場すべし(二千位ならん)」と、皆々満足の体にて「サヨナラ、バンヂャイを繰返しつゝ帰途に就」いた(『竜門雑誌』260号、明治43年1月、50−51頁、明治43年1月9日付『東京日日新聞』[『渋沢栄一伝記資料』第39巻、40−41頁])。

 43年1月10日頃、東京市長尾崎幸雄は、「満州に於ける鉄道を中立地位に置くべしとの米国今回の提議は実に人道の為、世界の為也」と親米的な態度を表明し、「今や日米間の国交日に親密ならんとし、互に実業団、観光団の相往来しつつある時」と、日米観光交流の意義を評価して、「浅慮なる邪推の言をなし、悪魔をして隙に乗ぜしむるが如きは、未だ米国の真意と外交の何物たるを知らざる瞶々(きき)者(道理がわからぬ人)流の事のみ」(明治43年1月11日付『読売新聞』[『新聞集成明治編年史第14巻])と批判した。満州利権に与りたい米国、日本将兵の血を流して得た満州中立化に反対する日本、満州「開国」をめげって日米は激しく対立し、親米派は米国要求に理解を示した。米国は、かつて日本に開港を要求したが、今回は満州利権「開放」を要求したことになる。・

 米国大観光団第二陣の来日 明治43年2月25日にも米国から「750名の第二観光団」が横浜に入港した。これだけの大観光団が来日したのは初めてであったが、@冬の外客の訪問の少ない時期であった事、A宿舎は横浜、東京、日光、箱根、京都などに分散した事などから、ホテルを確保できたのであった。

 「五十日前第一回の米国観光団を迎へたる横浜港は、更に廿五日午前七時七百五十余名といふ前回に勝る多数の第二回観光団を迎ふること」となった。「横浜市中はこれが為め人気引立ち、多くの出迎者は未明より続々と埠頭に集ま」り、午前5時40分に「2万6千噸の巨船クリーヴランド号は、満船飾をなし、春波を蹴って徐々進み入り、港外第三の投錨し無事安着の汽笛を鳴し」、七時に「検疫の了るを待って本船に乗り込」んだ。「船内の観光客は何れも上甲板に打集り、港内を展望して子供の様に雀躍して喜び勇み、出迎者を見ては航海中覚えし『オハヨー』を浴びせかけ、折柄鎌倉海浜院ホテルより贈りし万歳の欧字を記せる赤旗を打振り、バンザイバンザイと連呼して盛んに愛嬌を振り撒」いていた(明治43年2月26日付『国民新聞』[『新聞集成明治編年史第14巻])。

 この大観光団一行には、「富豪、学者多く、六十歳の老人もあれば八歳の少年もあり、殊に婦人は其の三分の一以上を占めたれば、賑やかなること言はん方なく、何の室を訪問しても話賑やか」であった。旅行団長クラークは、「六尺裕の大躯を甲板船層に駆つて上陸の注意に忙しく、記者が刺を通じ無事安着を祝し、且つ特に国民新聞に対し鄭重なる無線電信を寄せられたるを謝したるに、氏は欣然として堅く手を握りつつ、幸に親愛なる日本人諸君の同情に依り、航海中何等の故障なく安堵し得たるのみならず、昨日は海上雨降りし故、今日も亦雨中上陸するかと心配せしに、予期に反し無類の好天気中に上陸するは愉快極まりなし」と語り、トルポラット・ポッキンズ博士等も「同様の意味を繰返し、上陸後の再会約して訣れた」(明治43年2月26日付『国民新聞』[『新聞集成明治編年史第14巻])のであった。民間親善外交は確実に推進された。

 この点、木下淑夫も、ジャパン・ツーリスト・ビューロに、緊迫化する日米関係の緩和による日米親善の役割を期待していた。彼は、大正9年5月「ツーリスト事業の将来と隣接諸邦との関係」において、日露戦争勝利で日本は「好戦国」「軍国主義国家」と見られ「列国の嫉視」を受け、「列国の我が国情に就いて有する智識は極めて乏しきもの」があり、この結果、「我が対外関係は公私共誤解多く万事の交渉も捗々しから」ざるものがあったので、ジャパン・ツーリスト・ビューロ創立によって「相互誤解を解く」ことをめざしたと述べている(木下淑夫『国有鉄道の将来』鉄道時報局、1924年、161−2頁)。ジャパン・ツーリスト・ビューロは、日米親善の役割も持ち始めたとも言えよう。

 太平洋航路では汽船はまだ2万トン台であったが、大西洋航路では、明治39年3.1万トンのルシタニア号、明治43年には4.9万トンのオリンピック号、44年に4.6万トンのタイタニック号、大正3年4.8万トンのブリタニック号などの巨船が就航していた。44年「夏より倫敦、紐育間を航海するオリンピック号」は「ルシタニア号よりも更に総ての点に完備したるものなり」(明治43年10月23日付『大阪朝日』[『新聞集成明治編年史第14巻])とされた。世界の大洋では、巨船―大観光団時代を迎えつつあったのである。

 木下淑夫もこうした動向をしっかり見通していた。彼は、大正9年5月「ツーリスト事業の将来と隣接諸邦との関係」で、「最近米国船舶局の計画による大汽船運航の噂もあれば、漸次太平洋の船腹も豊富」となろうが、「世には米国の船舶が多数太平洋に回航するに徒に驚くものもある」が、これは「寔(まこと)に喜ぶべき」事であり、「これありてこそ始めて日本が国際関係に於て優越なる地位を占め得るものと信ずる」とした。島国日本が世界に雄飛するには「内資たると外資たるを問わず」、「我が国と隣邦諸邦との交通を発達せしむる如き計画は大いに歓迎すべき」であり、「我が船舶業者」は「これ等を強敵と恐るる」のではなく、「提携して新しき船客貨物を作る」べしとする(木下淑夫『国有鉄道の将来』鉄道時報局、1924年、160−1頁)。彼の国際旅客・貨物連絡論もまた、国際親善の手段であった。

 第二回米国観光団に戻ると、日本側の歓迎方法は第一回とほぼ同じであった。明治43年2月28日に、渋沢栄一は、「東京市長尾崎行雄・東京商業会議所会頭中野武営ト共ニ発起シテ、第二回米国観光団歓迎会ヲ有楽座ニ催」し、「有志実業家ヲ代表シテ歓迎ノ挨拶」(『渋沢栄一伝記資料』第39巻、43ー5頁)をした。2月28日午後二時、前回同様に、有楽座で米国観光団歓迎会が開催され、「来会者約四百名」がいた(『渋沢栄一日記』[『渋沢栄一伝記資料』第39巻、44頁])。

 渋沢は中野武営・尾崎市長の諸氏と共に、東京市民を代表して、有楽座に於て、「第二回米国観光団の歓迎会を開催」した。先ず尾崎市長は市を代表して、「曩に第一回観光団が来遊して間もなく、更に第二回観光団たる諸君の来朝せられたるは、市の最も光栄とする」と英文歓迎の辞を朗読した。続いて「実業家を代表」して、渋沢は、「這般来遊せられたる七百五十有余名の観光団中には、八十二歳を高齢として八歳の小児を含む各般の人が、斯く多数に来朝せられたるは我々の最も愉快に感ずると同時に、万腔の誠意を以て歓迎の意を表するものなり」とする。そして、「斯くして日米間の親交は益々其度を高むるものなると同時に、我々は大に門戸を開放して諸君が自由自在に各所を観覧せられん事を望み、尚喜賓会は諸君の為めに各種製造工場参観に就き案内の労を執るを惜まず、殊に予は昨年九月来三ケ月間渡米して貴国の各所に於て熱誠なる歓迎を享け、而して今日更に斯く多数の諸君と会するを得たるは、実に心中喜悦の感を抱き、身は今貴国に在るや将た我国に在るか、彼我の別をすら知らざる程なり」とした。さらに、日米対立の風評に対して、「?に特に報告致度一事は、昨年我々実業団が貴国巡回中、終始熱誠を以て斡旋し呉れたる沙港(シアトル)商業会議所の会頭ローマン氏より、本日『貴台は米国人が日本に対し敵意を含むとの風評の根拠無きことを了解せられ、何卒沙港商業会議所の友情の永続して渝らざることを反覆言明せられんことを請ふ』との電信に接した」のであり、これを受けて渋沢は、「『機宜に適したる保障の来電を感謝す、思慮ある我が公衆は米国の友誼の誠実なるを信ずること旧の如し、予も又之を反覆言明するに努力すべし』と直に反電し」、日米友好を確認し、「如斯にして両国の親交は益々増大するものなり」と述べた。

 これに対し「紐育市のローレンス」団長は、「クラーク社主催の団員に代つて、?に一場の挨拶を為すの光栄を有す、即ち諸君は多忙なるにも拘はらず我々団員の為め、斯く盛大なる歓迎会を開催されたるは一同の深く感謝する所なり、而して貴国は最近世界に於て実に至大なる仕事を為し、今や其大なる仕事を見る事を得たるには更に愉快に感ずる所なり」と挨拶した。続て「ヒリプ氏並にマクレー氏の感謝演説を終つて、帝国劇場附属技芸学校生徒の余興」あり、「後茶菓を供し、六時散会」(『竜門雑誌』262号、明治43年3月、55−6頁[『渋沢栄一伝記資料』第39巻、44−5頁])した。

 「当日の来客は東京団と日光団とを合せて約三百余名」に達した。来客者4百名だったから、内100名は日本の歓迎者であったことになる。余興について、東京日日新聞で見ると、「帝国劇場附属技芸学校の生徒に依つて演ぜられたり、先づ第一番は旧大名の婚礼式、新郎新婦が三々九度の場にて、我が国近世の作法を見せたるが、唯綺羅美やかなるまでにて興味薄く、第二番は娘好伊達染小袖にて女侠客奴の小万と鬼門喜兵衛女房お寅の立廻りは、芸よりも背景の隅田川が気に入りたるらしく第三番の鎗踊花段幕は鎗の先に花を附けての飛んだり跳ねたりなれば、理窟を離れて面白くありし如く拍手所々に起れり」と、前回とは出し物をかなり変えていたようだ(明治43年3月1日付『東京日日新聞』『渋沢栄一伝記資料』第39巻、45頁])。

 露国観光団 翌年には、米国観光団とは事情が事なるが、露国観光団も来日していた。

 明治44年7月3日、「ロシア国領沿海ニ出漁スル日本漁業組合員ハ、ロシア国観光団ヲ帝国劇場ニ招待シテ、歓迎観劇会ヲ催」し、渋沢栄一も「出席シ、組合員ニ代リテ歓迎ノ辞ヲ述」(『渋沢栄一日記』明治44年[『渋沢栄一伝記資料』第39巻、56頁])べた。

 つまり、露領沿海に於ける日本漁業組合員は、「露国観光団を帝国劇場に招待して歓迎会を催」し、「当日青淵先生には組合員諸氏の懇請により、同劇場の取締役会長たるの縁故もあり、旁々一行歓迎の意を表する為め特に出席」したのであった。一行は「西野専務取締役の案内にて階上なる大食堂に入り、席定る」や、渋沢栄一は「組合員に代りて懇切なる歓迎の辞を述べ、之に対し団長の謝辞」あった。食後、「我国古代の演劇を観覧して、午後九時半組合の代表者に対し、厚く礼を述べて帰宿」(『竜門雑誌』278号、明治44年7月[『渋沢栄一伝記資料』第39巻、56頁])した。
  
                                  おわりに

 以上の検討から、第一に指摘できることは、井上円了「坐ながら国を富ますの秘法」、高橋是清「東洋の巴里としての日本」の国際観光振興論は、『読売新聞』論説、木下淑夫を通して一定度ジャパン・ツーリスト・ビューローに引きつがれていったということである。

 井上円了も高橋是清も、欧米に旅行して富裕層が欧米間をさかんに行き来して観光客が少なくないという事実を目撃し、<外客増加による正貨獲得>論を提唱した。つまり、彼らは、欧米資本主義の圧力を受けつつ、それと対峙するべく、企業勃興、交通機関整備を背景とする国内観光盛行、外客の持続的増加という「根拠」を前提に、時間・費用がかかる世界的工業化を批判して、日本の自然資源を活用して、時間・費用のかからぬ正貨獲得・富国化を目的として一層の外客増加による国際観光振興を提唱した。しかし、両人は、立場の相違から、国際振興策の内容に違いをもたらしつつも、以後二人とも国際観光振興を提唱しなくなった。以下、この点を要約してみよう。

 まず、円了から見れば、円了は、外国人接待協会、喜賓会とは異なって、フランスについて具体的に外客増加が富国をもたらすということを消費額=「国内に落とす正貨」額で見たのである。そして、円了は、この「数百万乃至千万の金は決して少額にあらず。即ち国を富ますの必要の部分となること明かなり」とする。日本も、「香港上海印度諸方にある人民及び豪州、亜米利加、桑港、加奈陀等にある人民(毎年二三千人乃至一万人位)は容易く引き入るることを得べし」とし、「毎年旅客より二百万若くは五百万位の金額を得るは決して難きにあらざるべし」とする。以上の「秘法によりて得る所の直接の利益」の外に「間接の利益」(日本の物産諸品販売益、観光労働者の収入、条約改正促進)が甚だ多く想定利益250万円にとどまらず、「間接より得る所の益を合算すれば毎年幾千万の利益」を得るとする。

 これを実現するには。株式会社で社会的資金を集めて一大観光会社を結成して、これが各地に大ホテルをつくる事画必要だとする。これは、外国人接待協会、喜賓会、高橋是清建言、東京商業会議所助言などにもみられない斬新な提言である。極めて独創的でもある。そして、円了は、この一大株式会社によって、日本固有の「言語・宗教・歴史」・「風俗・習慣」を毀損することなく、その「改良保存」の手段となるように配慮するとした。日本で「一大会社を設立して此法を実行する」時は、「欧米同様の旅店及び手続を国内の各地に見ることを得るは至て容易なる事業」とする。これは、洋式工業移植により工業国になることよりは「至りて平易にして実行し易き事業なり」とする。「此方法によりて得る所の利益」は「毎年幾千万金」以上だとする。故にこれは「今日今時の急務」だとするのである。
 
 確かに、かように儲かるものならば自然に大株式会社形態のもとでホテルは族生したであろうが、現実には帝国ホテルなど少数にとどまるし、後述のように日露戦後にはホテル不足問題が深刻化すらしたのである。一大会社による全国ホテルチェーンが容易に成立しなかったとすれば、そこには外国人相手のホテルには季節性や予見できない諸事情(戦争、革命など)など固有の問題があったからであろう。従って、こうした大会社のもとでホテル族生するには、円了が見落とした一定の政府保護とか工夫が必要となったであろう。円了は、この観光振興論の推進主体として一大観光株式会社を提唱したが、円了の国際観光振興論には、ホテル経営固有の困難性の把握もなければ、それに対する政府保護の観点もない。

 帰国後に円了は本分ともいうべき哲学館の充実、諸学の基礎たる仏教哲学の発展に携わった。円了は、主宰する哲学館について東洋部を主とし西洋部を副とする改正を行ない、さらに修身教会・国民道徳普及会による社会教育に従事していった。まだ外客数が少なったからか、日本側ホテル、案内者の引き起こす諸問題、外客の惹起する諸問題などはまだ顕著でなく、この面での倫理的対策などはまだ真剣に提起されていなかったのは当然と言えよう。円了にとって、旅は美しい自然と触れ合い、その風光を愛でさせてくれるものである。円了の哲学人生からすれば、旅は大事だが、日本を富国にする国際観光振興はあくまで副次的なものであった。雑誌『日本人』(第16号、17号、20号)に掲載した「坐ながら国を富ますの秘法」を国際振興関係者が読んだか否か、彼らに示唆を与えたか否かは知ることはできない。仮に読んでいたとして、激動する時代には、一大観光株式会社の規模が巨大すぎて、導入するには尚早だったとしたかもしれない。しかし、これを読んた者の中には、いずれ国民に過重負担を強いる国家の富国強兵政策批判に援用したいとして、保存していたかもしれない。

 こうして、井上円了は、船中で欧米旅行者を見て愛国精神から、過重負担を強いる国家からの保護の視点など考慮せずに、合理的・平和的な富国論として倫理的に国際観光振興を説いて仏者としての仕事をした。

 一方、日銀副総裁高橋是清が最初に国際観光振興に言及したのは、日清戦後の外客増加傾向を背景に、明治32年9月の宇都宮実業人向けに行なった演説である。演説の場所が観光地日光を擁する栃木県であった事からも、是清は、貿易で金銀を吸収する方法は「貨物貿易のみには限らない」として、「沢山遊覧の外人を引き寄せて夫等に金員を支消せしむるも亦富国の一大源である」とし、「将来の一ヶ年に来遊する外人を五万人として一人が千円を消費するものとすれは、其の金額は五千万円で我国の現今の貿易の有様では容易に得難い所の金額である」と、観光収入の重要性を指摘した。    
 
 明治35年には、是清は、「我国経済上の国是」で、当時盛んに提唱された外資導入・世界的工業国論を批判して、日本は、「東洋一の美術国」、「景勝に富める好山水」の国なることを国是として国際観光振興を提唱し、「他国より資財を吸収する」べきだとした。是清はこの世界的資本国を「国是」として、@「最も重要なる港湾二三を撰定し・・東洋方面を通過する世界の船舶をして我商港に立寄らしめ」、A「我国の景勝を利用して外人の来遊を促すの目的を以て諸般の必要なる設備をな」し、B「精巧の美術工芸品」の輸出が急務策だと指摘した。

 明治35年3月、是清は、「東洋の巴里としての日本」では、@欧州諸国中「金貨の所有額」、「資本の豊富」さではフランスが第一であり、Aこれは商工業や外国貿易に依って得たものではなく、「全く仏京巴里が世界の公園として世界の覇客を茲に引着するの結果」であり、「外客が年々歳々巴里の市場に散乱する所の費額極めて多大なる」事により、「我国富を発達し、我民福を増進するの急務」は「日本をして東洋に於ける巴里たらしむるにあるのみ」とした。是清は、「我日本をして第二の仏国たらしめん」とし、主要停車場・避暑避寒島嶼へのホテル建設、外国人厚遇、観光施設整備の国家主導などで訪日観光客の消費の経済効果の増大を提唱するのである。是清は、パリの如き首都庭園のみならず、日本各地の自然資源を活用しようとしている点では、スイス・モデルも包み込んでいる。こうして、是清は、喜賓会のスイスモデルを包含したフランス・モデルを提案して、「今後日本をして世界の公園たらしむると同時に、外国貨物の集散地たらしむるに於ては其間に得る所の利益却って天然の産物に依頼するより大なるべきものあらん」と主張するのである。

 是清は、美しい自然や美術の鑑賞を主眼とすることは仏教的境地に通じてはいたであろうが、彼は民間の教育家とか宗教家ではなかった。日本の財政金融の最高担当者の一人であり、正貨蓄積、国際貸借バランス論の責任者の一人であった。日銀総裁(明治44年)、1回の首相(大正10年)、7回の蔵相(大正2年、大正7年、大正10年、昭和2年、昭和6年、昭和7年、昭和9年)を務めてゆく人物である。そういう人物をしてもはや国際観光振興を国是となさしめなくしたのは、なぜであろうか。それは、日露戦争(明治37年2月ー38年9月)という「非常事態」である。是清は日本戦勝を可能にするための軍事費確保のために、自ら警戒していた外債の起債などに余儀なく従事せざるを得なくなったのである。以後も、是清が国際観光振興による正貨蓄積論を提唱しなくなったのは、日清戦後経営期の論点が消滅し、日露戦時外債により深刻な正貨事情が生じたからであった。

 一般に、明治45年、民間組織喜賓会の業務は、鉄道院が中心となって設立した「ジャパン・ツーリスト・ビューロー」に引き継がれ、昭和5年には慢性的赤字の国際貸借改善のために国際観光局が鉄道省外局として設置され、国際観光振興の精神は維持されたとされている。しかし、両者は国際観光振興の精神などという点では共通だとしても、喜賓会が、条約改正を有利に推進するために貴賓という特定上流階級の満足を主眼としていたのに対して、ジャパン・ツーリスト・ビューローは、日露戦後の物価騰貴、貿易逆調、外債支払、正貨流出に対して、中産階級を含めた外客が増加して正貨獲得し、内地産業を促進する事を目的としたのであった。つまり、ジャパン・ツーリスト・ビューローは喜賓会の業務を継承したのではなく、その脆弱性・狭隘性を批判的に否定する所から出発したのであり、外客増加、正貨獲得を強く目指したということである。渋沢も認める如く、実力をもつジャパン・ツーリスト・ビューローが「発育に障害の嫌ある古木(喜賓会)を除去」したのである。喜賓会は、継承されたのではなく、除去されたのである。その意味では、ジャパン・ツーリスト・ビューローは、喜賓会ではなく、「期せずして」、井上円了・高橋是清の<外客増加による正貨獲得>論を継承したというべきであったろう。だから、木下にとっては、井上円了「坐ながら国を富ますの秘法」は知らずとも、高杯是清「東洋の巴里としての日本」の「鉄道と公園の連関」のもとでの旅客増加効果や外国貨物集散市場の効果については一定度鼓舞され、円了・是清影響下に生まれたと思われる読売新聞「国を富ますの一方法」での「日本を東洋の遊園」にする事には大いに触発されたであろう。この読売新聞こそ、貴賓会の末期症状を報道したり、生野団六の「瑞西を始めとして各国における外客誘致策の一般」等を詳しく報道したり、ジャパン・ツーリスト・ビューローに好意的記事を書いたのであった。

 ただし、円了が、国家保護を提唱せず、一大株式会社による国際観光振興論を提唱したとすれば、是清は、国家的大計画のもとで主要停車場・避暑避寒島嶼へのホテル建設、外国人厚遇、観光施設整備など国家主導の観光保護を提唱し、国際観光振興策を国是とまで言い、「東洋の巴里」にすると公言までしたのである。円了と是清の間では、フランスの外客増加による正貨増加を評価してその日本への導入を主張するという点では共通しているが、観光保護政策如何について、大きな相違がある。


 第二に、外客増加が、戦争などの非常事態の影響を大きく受けるということにも改めて留意しておくことが必要であろう。基本的には国際観光振興は「平和」状態を前提にして可能なのであり、以後是清が国際観光振興=外客増加に同意を表明することはあったとしても、戦争とかパンデミックなどの「非常事態」「異常事態」下では国際観光振興は「消極的」にならざるをえないものなのである。「全般的な傾向として、社会情勢の悪化は観光市場を沈滞化させていった」(安藤優一郎『観光都市 江戸の誕生』新潮社、2005年、193頁)のであり、「観光は平和であることで成立する、いわば『平和産業』である」のである(関礼子「観光の環境誌1」『応用社会学研究』54号、2012年)。日本における観光業史を把握するには、その対立物ともいうべき軍事史(拙稿「日本海軍の諸問題」など)もおさえておかねばならないということである。我々は是清の観光振興論の「後退」の背景・原因には十分留意し、国際観光業のリスク・コントロール問題を考えてゆかねばならないであろう。

 確かに、外客数は、以後の非常事態などを迎えても、結果的には増加傾向を示していた。来遊外客は、国内旅行の自由が大幅に認められだして(因みに明治10年在留外国人は4220人[木村吾郎])、明治20年7千人(弘岡幸作)、26年9千人(陸奥宗光)と増加し、29年日清戦争勝利で外客増加し(東京朝日新聞)、32年2万5千人と増えるが(東京朝日新聞)、33年義和団事件で二割減少して2万900人(上等客のみ[東京朝日新聞])、34年花見などの外客増加は「近年」傾向となり(東京朝日新聞)、36年大阪第五回内国勧業博覧会と桜花見で外客激増してホテル不足問題が生じ(弘岡幸作「外客誘致策の今昔所感」)、37年日露戦争で外客激減して1万3513人(東京朝日新聞)、38年上半期は戦時で37年より減少したが(東京朝日新聞)、日本海海戦勝利で日本勝利が見込めだす38年11月まで1万5253人(東京朝日新聞)、39年4月花見で「類例なき多数外人」が訪日し(喜賓会)、以後には2−3万人と増加しホテル不足問題が深刻化しつつも、大正3年ー5年第一次大戦期には1万7072人、1万3846人、1万9908人と低迷し、大正6年にはロシア革命でロシア入国者の増加(大正5年4803人が大正6年7780人に急増)で2万8425人と増加し、大戦が連合国側の勝利で終わった大正7−9年には2万9640人、2万9201人、3万2105人(日本交通公社『70年史』)と世界を席巻したスペイン風邪パンデミック(大正7−9年)を経ても漸増し、昭和4年頃には3万人、7年2万人に落ち込み、8年2.6万人、9年3.5万人、10年4.2万人(日本交通公社『70年史』)と漸増した。

 大正15年・昭和元年の外客消費額は、当時の世界三大観光国の仏国8億9500万円、伊国3億8800万円、瑞西1億600万円に比べて、日本は4千9百万円とかなり小さい。だから、弘岡氏は、「官民協同による観光局の設置や、又現在のツーリスト・ビユーロー充実拡張等の具体的外客誘致策が、今や盛んに論議せられ」、今後も「将来我が当局者の努力如何により、上記の外客消費額を更に倍加するの余地あることは洵に明瞭である」(弘岡幸作「外客誘致策の今昔所感」『竜門雑誌』第493号、昭和4年10月、『渋沢栄一伝記資料』 第25巻、460−1頁、日本交通公社『70年史』『50年史』、老川慶喜『鉄道と観光の近現代史』河出ブックス、2017年、193頁)とした。確かに、こうした期待をこめて、鉄道省内にジャパン・ツーリスト・ビユーロー(明治45年)、外局として国際観光局(昭和5年)が設置されて、国際貸借改善のために国際観光振興がはかられた。

 だが、以後、昭和8年に満州問題で日本が国連を脱退すると、円安となって外客増加を誘引することがあったとしても(例えば昭和10、11年)、日米緊張、日米戦争という「非常事態」に直面して、こうした外客の順調な増加は困難であったろう。日露戦後、日本が強国になるにつれ、仮想敵国は陸軍が露国、海軍は米国とし、日本が外客到来を厚く期待した米国は一方では日本海軍の強力な仮想敵国にもなったのである。ここに外客増加策は鋭い緊張に巻き込まれてゆくのである。自然を重視し、万物の生命を平等に扱う仏教哲理と、自然資源、歴史資源を重視する観光とは、相即不離なる関係にあるとしても、現実の国際観光の振興には、こうした生々しい現実的利害が深く関わっているということも事実なのである。

 しかも、近年のように観光が飛躍的にグローバル化して、戦前には見られなかったように、日本を訪れる外国観光客が数万人(この水準でも案内業者の「ぼったくり」問題などが端緒的にあった)から数千万人に著増すると、今後の国際観光振興策の直面する諸問題が質的転化をとげて、観光者・業者などの諸問題の倫理的対応問題の深刻化、さらにはリスク・コントロール問題の重大化に直面し、この対応に失敗すれば、国際観光の維持は到底不可能になり、ブータンのように観光客数をかなり低く制約することが必要になるかもしれない。観光倫理問題、観光リスク問題は新しいレベルに到達したといえるだろう。


 第三に、資料の多さからも指摘できることは、明治期における大きな「国家的」といってもよい国際観光問題の一つは、外客向けホテルの不足であったということであり、それは日露戦後の外客増加と明治40年予定内国博覧会による一層の外客増加予想のもとに明治39年に集中的に現われ、明治40年3月24日、3月26日二回の第23帝国議会衆議院で「ホテル開設に関する建議案」として国会史上初めてホテル問題が議論されたということである。井上円了「坐ながら国を富ますの秘法」は「各地に壮大の旅館を分設し、規則を一定し、専ら旅客の信用を失せざる様に注意する」事と、まるで株式会社の大ホテルの建設が外客ホテルの画竜点睛のごときものとしていたが、それは理論的にはその通りなのであるが、現実にはその外客向けホテルがなかなか増えなかったのである。

 それは、外客向けホテルは、個室仕様などで設備投資が大きい割には、季節性などで施設利用率が低く、収益的に採算がとりにくかったという「ホテル固有の経営困難性」によろう。この「ホテル固有の経営困難性」は既に第23帝国議会衆議院審議でも指摘されていたが、この問題の解決には、国内客・国内需要(宴会・集会など)を確保する必要があった。しかも、高料金外客専用だけでは、低料金日本式旅館と競合する事は出来なかったであろう。高料金の洋式ホテルが、プライバシー希薄な低料金の日本式旅館と競合するには、個室を好む豊かな国内中産階級の成長が必要であった。都心の帝国ホテルなどが「例外的」に存続できたのも、宴会・集会などの別収入が相応にあったからであり、東京駅ホテルが採算がとれたのも外客のみならず相応の内客を確保していたからであった。つまり、東京駅ホテルの営業方針は、「日ごろは日本人宿泊客を大歓迎して日本旅館改善の先駆的役割を果たしながら収入の増加をはかり、外国人客が多くなる季節や国際的な会合があるような場合は外国人客に優先宿泊してもら」うというものであった(種村直樹『東京ステーションホテル物語』集英社、1995年、160頁)。ただし、箱根富士屋ホテルは、奈良屋との特別協定、「完備せる洋風旅館」ながら比較的低廉な宿泊費、「其距離京浜の地に近接せる」事などから春夏秋冬「外客の跡を絶たざる」ものであった(園田孝吉など)。しかし、基本的には、外客ホテル問題とは実は国内問題なのでもあり、いくら外客向けホテルを造っても、国内需要をも得なければ、なかなか採算が取れずに経営が困難であったということになるのである。

 この点、木下淑夫氏は、ホテル計画は、営利を原則としつつ、「計画は須らく穏健着実」にし、「かの投機的大言壮語する如きは飽迄避けねばなら」ず、従ってホテル計画は「純外人向けを取らず、都市の位置、漫遊客の繁閑に由って或は邦人にも利用し得る様、客室、食堂の設備をするとか、其他営業上の工夫はいろいろある」と、的確に指摘していた(木下淑夫『国有鉄道の将来』鉄道時報局、1924年、158−9頁)。また、後の事になるが、昭和12年1月、資本金130万円で客室626の「東洋最大のホテル株式会社第一ホテル」が設立されるが、その相談役小林一三は、その「開業記念パンフレットの巻頭言」で、@「箱根の富士屋ホテルだけが、懐勘定をしないで泊まる上流階級の人達と、外国人によって、その人達の生活に即した必要機関として成功している」が、A「日本のホテルの多くは営業的に成功していない」とし、「その他の一般ホテルは、邦人の日常生活に即しない理想倒れのために不成功」だとし、B以上から一般的に「成功すべきホテル」は「我々の実際生活に即し必需品として喜ばれるものだけが栄冠をかち得る」のだが、C現在のホテルは、「現在の日本旅館に対する色々の意味における不平不満」を「除き得る」ものではないし、同時に「営利事業として成立し得る」ものではないが、日本旅館への不満を解消し営利事業として成立することが重要だとする(村岡実『日本のホテル小史』168頁)。昭和12年でも、日本のホテルは、富士屋ホテルを例外として、日本旅館との競争に負けており、国内顧客の需要を満たしてしないので、「ホテル営業」的には成立していないと鋭く指摘していた。

 こうした観点から政府、地方公共団体の外客ホテルへの資金援助論や、外客ホテル官営論を見れば、それは故なきことではなかったのである。確かに中野武営の農商務省ホテル論などの官営論もあったが、外客による正貨獲得に見合う範囲内での公的援助は歴史的・合理的根拠あるものとして一定度肯定されるべきであったろう。従って、明治から昭和にかけてのホテル政策は、正貨蓄積の観光政策の重要性に国家がどのように保護的に関与するかという観点のもとに(この点、是清は、前述のように、先駆的に既に観光設備を国家的大計画として、まず主要港湾建設から着手せよとしていた)、政府がホテルに漸次的に資金支出・援助をする事を止むなしとしてゆく過程とみることもできる。


 第四に、筆者は、壮大な世界的視野を抱かれる石井寛治氏、中村哲氏という明治維新大研究者に大いに触発されて、50年間世界史的スケールに立脚する世界的学問推進者の一人として、明治維新とは何だったのかを、原始・古代日本と近現代日本の一接点、人類文明の大画期的転換点として学問的に幅広く総合的に考えてきているが、そのような広範なる学問的な一素材として、明治期観光政策の「主役」ともいうべき渋沢栄一、益田孝、高橋是清、井上円了らは旧幕臣、旧佐幕であったということが指摘されよう。

 確かに、幕藩制的生産・流通構造は、農民的ブルジョア的生産・流通に依って崩壊しつつあったが、幕府官僚機構では新陳代謝が行われ、優秀な実務人材が登用され、それが新政府に引きつがれていったのである。幕府は優秀な人材を軍事、外交など重要部門に登用し、実力本位の官僚制度が登場しつつあったあったのである。

 一般的に旧幕臣、旧佐幕の優秀人材が、新政府の富国強兵の実務部門を支えていたが、国際観光分野においてはその担い手は富国強兵を基軸とするから、どうしても脇役的存在を余儀なくされた。日本で最初に外客歓待を政策として提唱したのは、長閥領袖の一人井上馨ではあったが、それは条約改正という国家的課題のためであった。国際観光振興、外客増加を推進したのは、井上馨等長閥ではなく、彼の命を受けた渋沢栄一、益田孝という旧幕臣であった。富士屋ホテル創業者山口仙之助もまた、明治4年、牧畜業を学ぶために米国に留学したが、慶應義塾で旧幕臣福沢諭吉に「国際観光の重要性を説かれ、牛を売却して得た資金を基にホテル業を決意」(富士屋ホテル「ホテルヒストリー」、これについては福沢は実業の重要性を指摘しただけという意見もある)したのであった。

 さらに、外客増加の国民経済的意義を富国強兵に対抗して明確に国家政策、国是として打ちだしたのは、旧朝敵長岡藩出身の井上円了、旧朝敵仙台藩出身の高橋是清であった。渋沢栄一、益田孝は長閥井上馨の要請で条約改正のための国際観光振興をしたにとどまり、国際貸借論と言う観点はなく、立派なガイド書をつくり、天皇に献上するのがせいぜいであった。それに対して、円了、是清は、「毎年旅客より二百万若くは五百万位の金額を得る」(円了)、「予想外の多額」(是清)を確保する手段と明確に把握し、藩閥の富国強兵策とは異なって、外客のもたらす資金に着目して、その大きな意義・効果をはじめて指摘したのであった。江戸時代「瓦版」の伝統を意識する読売新聞が、国民負担を強いる藩閥富国強兵策ではなく、国民負担を強いない旧朝敵富国強兵策に与したのも、故なきことではないのかもしれない。昭和49年11月2日創立百周年記念式典で、白石古京・日本新聞協会会長は、明治初年「日本の総人口の9割にあたると言われる漢字教育を受けていない庶民」に着目し「漢字に振り仮名を施した読みやすい大衆紙として出発」し、「こうした大衆のために平易な文章で人心の啓蒙、指導にあたることによって、国民が精神的にも物質的にも成長し、繁栄することを助長した」(『読売新聞百年史』読売新聞社、昭和51年100頁)と述べているように、読売新聞は創業当初から庶民の側に立った新聞であったのである。

 以上のように、明治時代の国際観光振興政策面でも開明的な旧幕・佐幕出身官僚に担われていたことが、確認されたといえよう。では、この面から藩閥というものを見るとどういうことが指摘されるだろうか。

 藩閥は、薩閥が海軍、長閥が陸軍と拠点を振り分け調整していたが、軍における藩閥調整と合理的リアリズム(勝敗見通し、劣勢・敗勢下での停戦判断など)が日清戦争・日露戦争で一定の効果を発揮したため、陸軍、海軍の統合機関の設置を不要とした。しかし、その結果、大正デモクラシーの展開による藩閥機能の排除に直面すると、「軍」を「混乱」状況(陸軍と海軍の対立、陸軍部内の皇道派・統制派対立、海軍内部の条約派・艦隊派対立)に追いやることになった。薩長藩閥によってもたらされた国家運営の意義と限界が、薩長藩閥の見られなかった状況下で露呈しはじめたのである。国際観光振興策では一定度順調な展開が見られたのであったが、藩閥統制を失った軍部の無謀な暴走によって、その国際親善機能も十全に発揮されぬまま抑えこまれたのであった。

 こうした人々の一人は平和主義者の昭和天皇でもあった。筆者は数十年来天皇・軍・戦争をも研究してきたが、もちろんそういう「国際親善行為の推進」を天皇が直接に奨励したことは史料的には確認されない。ただ、明治天皇にあっては、明治32年6月30日「改訂条約実施に方り戒飭の詔勅」のように「改定条約後の国際交流進展のための遠人懐柔」と見られる詔勅があったり、明治36年には喜賓会が英文日本地図を献上したことに千円を下賜したりした。明治天皇にあっては、いささかながらも国際親善の意志は表明されていた。それに対して、昭和天皇にあってはこういう事は見られなかった。だが、終始日米開戦を真剣に懸念したことからも国際親善意思があった事は間接的には確認される。天皇は周囲の発言のままに行動する「ロボット」と見られるがちだが、決してそういう存在ではなく、深謀遠慮し重大事には敢然と行動する主体的存在であった。天皇は、日米戦争開戦には反対であったが、それを表明実行すると軍部反乱を招き退位・幽閉され、その結果軍部の独走をもたらし本土決戦で国土は焦土となるとみて、止むなく開戦を容認して、敗戦濃厚になったところで終戦に持ち込み国土焦土化を防ぐ事がベターと考えていた。天皇は昭和20年3月10日東京大空襲で「捨て身」(ここには、天皇がマッカーサーとの第一回会見で自分は極刑になる覚悟はあると表明したことも含めて)になって終戦を決意し、軍部反乱を誘発しないように終戦内閣を組閣し、終戦に持ち込もうとした。それでも、8月15日軍部は反乱を起こして、東部軍決起を呼びかけ、本土決戦を実行しようとしたのである。天皇は高度な政治リアリズムを心得ていたのである。だとすれば、昭和天皇も国際観光の平和機能についても自覚はあったであろう。既に明治40年第23帝国議会で浅羽靖が初めて「外客を快く迎えることは国際平和重視の態度を維持すること」と表明していた。そこで、現在そういうことも含めて、「裕仁と国際観光との連関如何」に関しても研究中であり、裕仁の幼少年時代、皇太子時代、天皇時代(戦前、戦後)において、これがまとまり次第漸次公開してゆく予定である。



      
    千田 稔


      2020年6月27日 初稿
      2020年7月3日  第一回資料追加(『読売新聞』の「国富論」、「閑却されたる喜賓会」など新資料追加)
      2020年7月21日 第二回資料追加(『公文録』、『新聞集成明治編年史』などで新資料追加)
      2020年8月2日  第三回資料追加(『読売新聞』などのホテル関連資料追加、結論「第三」追加)
      2020年8月16日 第四回資料追加(『読売新聞』、The Japan Directory,などのホテル関連資料追加)
      2020年10月18日 明治40年3月24日、26日二回の第23帝国議会衆議院「ホテル開設に関する建議案」を補充
      2020年12月21日 本論の補論として「外国人の国内旅行と通弁(通訳案内業者)ー明治期において」を追加。
      2021年9月9日  本論の補論として「昭和天皇と学問、スポーツ、観光」を追加。      

 [付記]本稿は、古代インド、古代中国、古代ギリシアの「政治経済学」の研究などと並行して柔軟に作成しているが、古代と近現代の同時並行的な相互研究は刺激的で生産的である。例えば、古代において周辺王朝・都市・外国などが統一王朝の首都に「朝貢」を兼ねて訪問し、「光」「徳」を観ようとしたところに原義的意味の「観光」が成立していたとすれば、近現代は観光が新しい意義と使命を以て登場していることを思うと、歴史的考察の重要性を改めて痛感するのである。    

 最近、この明治国際観光政策との関連で、大正国際観光政策、昭和国際観光政策はどうなっているか言うことを聞かれ、古代インド、古代中国、古代ギリシアの「政治経済学」の研究などと並行して、やっていると答えている。この古代インド、古代中国、古代ギリシアの「政治経済学」の研究も、個別再分化して経済学本来の使命をうしなった現代経済学の限界を余すところなく解明する重大責務を帯びている。
                                         
 こうした研究を筆者は「個別研究的総合学問」、略して「個研総学」と称するに至っている。これは筆者が研究に従事して以来一貫して変わらぬ普遍的学問的立場である。こういう観点から当時の「個別的」研究専らの研究体制には大きな疑問と批判を抱いてきて以来、数十年間極力この「個研総学」に最大の時間・労力を投入できる体制を構築して、今日の「個研総学」の学問的立場に至っている。これは、普遍的学問的真実の構築に至る過程で、多様な研究視点・成果の共鳴作用によって、数えきれないほどの「新発見」をもたらしてくれるのみならず、多様な見方、長期的な見方、幅広い見方、つまり複眼的な見方を提供してくれる。事実は単眼ではなく、複眼でのみ学問的に把握されるのである。
                                  



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